「歩く」を考える。
こんにちは!あさひです🚶♀️
私は“歩く”ことが好きで、駅も必ずエスカレーターを使わず階段を選びます。
散歩もほぼ毎日します。今回は、「歩く」を考えてみようと思います。
サムネ?の写真は、散歩していたときに見つけた「森のエビフライ」です。
セレンディピティ(serendipity)の宝庫
「歩く」行為はセレンディピティ(serendipity)と出会う必須ツールだと思うんです。
セレンディピティとは、イギリスの政治家であり小説家であるホレス・ウォルポールが生み出した造語のことを言います。彼が子どものときに読んだ『セレンディップの3人の王子 (The Three Princes of Serendip)』という童話にちなんだものです。ウォルポールがこの言葉を初めて用いたのは、友人に宛てた書簡において、自分がしたちょっとした発見について説明しているくだりにおいてであり、その書簡の原文も知られています。
つまり、セレンディピティ(serendipity)とは、思いがけないことを発見する能力。特に科学分野で失敗が思わぬ大発見につながった時に使われることが多いです。
「歩く」の話に戻ります!見出しにもある通り、歩く行為はセレンディピティの宝庫であると思うんです。ただ町を歩くことも良いですが、「何かを見つける」「何かを探す」を意識して町に出ると町の風景は一転すると思います。私の場合そうです。何か分からないないけれど、何かを探す目を持つことで当初予期もしていなかった思いがけない発見(セレンディピティ)があるはずです。
右足左足を交互に前に出すを繰り返すシンプルな行為が“人間”の知的好奇心を刺激し1日の充実度を格段と濃くするツールになるとは。すごいなと思います。
⇩“何か”を探しながら散歩してたら見つけた土器たち。
散らした足は何処へ行くのか
「歩く」に意味をつけた言葉に「散歩」という言葉があります。散って歩く。
人々は日常の中で足で地面を踏みしめ、それぞれの旅路を歩んでいます。時には目的地を持ち、決まった方向へ向かうこともあれば、ただ歩くこと自体が目的となる時もあります。
「散歩」という行為は、何もないように見える道を歩きながら、思考が彷徨う時間でもあります。足はその鼓動を刻み、歩くことで心もまた散りばめられた感情や思い出と共に歩んでいくことも。しかし、その歩みは必ずしも直線的ではなく、時には曲がりくねった道を辿ることもあります。足跡が地面に描かれる度に、それぞれの足は過去から未来へと続く糸を紡ぎだしていると思うと深いですね笑
まさにその人が物理的に歩いた足跡こそ、その人の人生そのものになる。
少し止まってみる
「「歩く」ってなんなのだろう。」と考えながら記事を書いていたら、あることに気づきました。それは「歩」を構成しているモノについてです。
「歩く」は、「少し止まる」意味が込められているのでないか、ということです。
私は初回で書いたように、この春大学を卒業し外部の大学院へ進学しました。大学4年生は、これまでの人生で一番大変で濃く日々考えていた1年間でした。
高校時代より地域で活動を続けていた私ですが受験に集中するため1年間活動から離れていました。実践をしたいのに受験のため実践から離れることにずっとモヤモヤしており、1年間足踏みをしている感覚がしてもどかしい日々が続いていました。全然思い通りにはいかず、かつ卒論等もあり本当に苦しかった。
そんな心境を母に話した時、「足踏みしているかもしれないけれど、自分の将来を考えて得た知識やもどかしく悔しいと感じたその感情は、これからの自分を強くする。高くジャンプする前は必ず深くしゃがむ時がある。」と言ってくれたのを覚えています。
つまり何を言いたいかというと、「少し止まることも実は前に進んでいる」ということです。人は常に歩き続けているということです。少し止まったからこそ気づくセレンディピティがあるかもしれません。
なかなか思い通りにいかずもがき苦しむ人がいたら、その時も前に進んでいることを伝えたい旨を書いて終わりとします!
それではまた!🚶♀️
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