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必要のない会話を楽しめる、必要不可欠な人たちへ

2022年が終わろうとしている。

大学を卒業して、新卒ではないけれど
最初に就職して3年半務めた会社を退職し、
転職活動もゆるゆるとしたけれど
とりあえず今のところ
個人事業主として生き延びて6ヶ月。

今年の一番大きな出来事といえば
たぶんこれなのだけど、
「ストレス」と「安定」を同時に手放した
「不安定」という土台の上に立つ
限りなく「ストレスフリー」な生活。
以上の言葉がないので、つまらない。

だから、適当に最近もっとも考えること
を書いて、今年のまとめにしようと思う。


川内有緒さんの
『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』
という本を読んだ。

川内有緒 著 / 集英社インターナショナルより


最初に書店でこの表紙を見かけたときは
とてもとても純粋に
「見えない人に言葉で伝えるって難しそうだ」
と思ったのを覚えている。

けれど、読みはじめてすぐに
それが見当違いな懸念であったことを理解し、
白鳥さん、マイティ、そして川内さん
ときにはさらにその周りの人たちまでもが
「鑑賞」を楽しんでいる光景を楽しく読んだ。

川内さんたちが二つ目か三つ目の展示を
見にいく、半分より手前のあたりで
わたしは、わたしが
白鳥さんが全盲であることを忘れている
というか、ほぼ気にしていない
ことに気づいた。
時々、「こういうときはどうするの?」
「このときはどう思ってたの?」などと
白鳥さんが全盲という立場で
してきた経験や、抱いてきた感情を
川内さんたちが尋ねる描写で
そうそう、そうだった。と思うほど。

川内さんは、友人マイティの
「白鳥さんと作品を見ると楽しいよ!」
という言葉をきっかけに白鳥さんと出会うが
マイティの言う
「白鳥さんと見ると楽しい」というのが
“目の見えない人と見ると”
“全盲の人と見るのが”
という意味じゃないのがとてもよかった。


読んでいるうちに何度も、
わたしと、わたしの趣味である本や映画
およびそこから派生して考えたことの話
に積極的に付き合ってくれる人たち
のことを思い浮かべた。

わたしが勧める本やラジオを
全面的に信頼して摂取してくれる妹。

「あらすじ」も「いい言葉」も全然紹介しない
非お役立ちアカウントなのに
本や映画を読んで思ったこと・考えたことを
垂れ流してプレゼンする、
告知師ならぬ、宣伝師のアカウントを
フォローし続け、リアクションをくれる、
書店や映画館に足を運んでくれる、
読んだら見たら投稿を遡って
感想を伝えてくれるフォロワーさん。

たくさんの本を、映画を、ラジオを、
作家を、監督を、俳優を、
優れているのにどこか曲者な人たちを
わたしに教えてくれて、
わたしが押しつけた本の感想を、丁寧に
わたしを傷つけない言葉で伝えてくれる、
わたしの思考が尖りすぎているときには
学術的根拠と実務経験をもとに
そっと軌道を修正してくれる
あるいはわたしには思いつかなかった軌道を
新たにすっと描いて提示してくれる、
ここ2年くらいのわたしにとって大切な人。

そういう人たちのことを
読んでいるうちに何度も思い浮かべた。


中3以降の英語の記憶がないわたしの
「同じ英単語が、何通りの単語にもなりうる
日本語が美しいと感じる」という主張と、
海外経験が豊富で英語が堪能な妹の
「同じ英単語がシーンなどによって
ぜんぜん違う意味になることがある、
あの英単語をこういう使い方もするんだ
と思うことがおもしろい」という主張。
そのふたつは交わらないのだけれど、
わたしには持てなかった感情なので
聞くと、おもしろい。

『ハケンアニメ!』という映画を観て
映画や作品の良さとは別に、
作中描かれるあの労働環境は
クリエイターさんたち一人ひとりの
「“好き”の搾取」だ、と憤るわたしにコメントをくれた
親しくしてくれているフォロワーさんとの
「好きを仕事にすると、
“好き”が搾取されがちなのはなぜか。
どうしたらいいのか」という議論。
お金が絡むと仕方ないのかも
と期待を見出せなかったわたしと、
生活というのは、あるいは
必ずしもお金が必要ではないのかもしれない
という彼の視点。
それを聞いて、わたしは共感はできないが
わたしという人間は
たとえ衣食住が担保されても、
まつげをピンクに爪を紫に染めなければ、
髪をとぅるとぅるに保たなければ、
推しを日常的に摂取できなければ、
娘に十分な学術的・文化的機会を
提供できないのであれば、
衣食住だけが担保された生を
積極的に生きていたいとは思えない人間
なのだという気づきが得られた。

ここ2年くらいのわたしにとって大切な人に、
とあるドラマの脚本家さんの
とある発言について意見を問われ
わたしが考えを述べたあとに聞いた、
「“ある具体的な事象が普遍を描くこと”
ってあると思っていて、
そういう経験があまりないのかなと思った」
という意見。
たとえばちょうどその日に観た映画
『ケイコ 目を澄ませて』は
奇しくも聾者の女子プロボクサーが主人公で、
わたしは聴者でボクシングについて無知だが
ケイコを見ていて多くの思うことがあった。
設定や舞台装置は特殊な“具体”だけれど、
描かれていたのは、
ろう者に限らない・ボクシングに限らない
“普遍”だった。

こういう人との会話によって
得られた角度の視点や、ものの見方。
それについて考えたことで
初めて見えてきた自分の価値観。
それらのものは、
わたしにとってすごく大事なもの。

話は戻るけれど、
そういう会話を川内さんたちはしていて
だから「白鳥さんと作品を見ると楽しい」
のだと思った。

こういう会話って、
生きていくのに別に必要ではない。
「明日何時に起きるか」
「週末の待ち合わせは何時にするか」
「冷蔵庫に牛乳はあるか」
そういう会話は必要不可欠だけれど。

けれど、わたしは
そういう、生活に必要不可欠ではない
抽象的な会話や思考の話をしているとき
会話を思い返して再び思考をするとき
が、たまらなく楽しいと思う。
この瞬間のために生きている、と思う。

生活に必要ではない会話
を楽しむことができる人こそ
わたしの生活にとって必要
な存在なのだな、ということを思った。


それとはまた別の角度で、
作中何度か出てくる好きだった描写がある。

あ、『目の見えない白鳥さんと〜』
という本の話をしています。覚えてますか?笑

それは、白鳥さんの目が見えない人
としての生活や人生の話を聞いた川内さんが、
自身の妊娠・出産の経験を思い返し
あのときの感情と重なる、あるいは近しい
のかもしれない、と思うくだり。

今のところ目が見える人として生きていて
妊娠出産経験があるわたしには、
単にわかりやすく共感しやすかった
というのもあるとは思うのだけれど、
けれどわたしは
違うことも、また思った。

川内さんもわたしも見える人として
生きていて、全盲という経験はない。
白鳥さんが全盲ゆえにしてきたのと
同じ経験や体験をしたことは
おそらくだけど、ないだろう。

けれど、その経験や体験から
受けた傷つき、抱いた疑問、
感じた諦め、囚われた孤独感…
そういったものは、もしかしたら
別の経験や体験で得ていて
ときには共感できて共鳴することも
あるのではないか。

もちろん、この社会は
全盲のひとにとって十分ではなく、
それゆえにわたしたちが気付きもしない
大変な思いや、つらい思いを
されていることも多いであろうと思う。
そのすべてをわかった気になるつもりは
まったくもってないけれど、
「当事者にしかわからない」
「わたしなんかにはわからない」
「立場が違う人にはわからない」
と思ってしまうことは
ある種の壁になってしまうことが
あるのかもしれないと思った。

寺地はるなさんの『川のほとりに立つ者は』
を読んだときにも思ったけれど、
障がいの有無に関わらず
人ひとりひとりの苦悩や傷つきは
誰しも各々にあるものだと思っている。

そんな中で「あなたにはわからない」
「わたしには理解できない」と思うのは簡単だ。
けれど、それでも
ひとりひとりの苦悩や傷つきは違えど
わたしたちは今この同じ社会を生きる人間
であることに変わりはないのだから、
だとしたらわたしは、
“同じ経験はしていなくとも
別の経験を通してその気持ちがわかる”
かもしれない可能性に
できる限り目を向けていきたい。


いつもわたしと
生きていくのに必要がない会話をしてくれる
わたしが生きていくのに
必要不可欠な人たちに、感謝と愛を込めて。

追伸
こんな言葉を恥ずかしげもなくありながら、
末尾に添えられるほどには
今年も多くの本と映画を摂取しました。
あと、こういうのは海外の絵本に多いよね。
毎晩絵本を読ませてくれる娘にも
感謝と愛を込めて。

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