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遠いようで近い怪物

すべてを狂わせる《この女》
聖母か。怪物か。

観てきた!結構前に!笑
安定の時差🙄 消化する時間が必要なタイプ。

実在する
17歳の少年による祖父母殺害事件を
ベースにした7月3日公開の映画。

実際の事件が起こったのは2014年ってことで
映画を先に知ってから元の事件を調べて
公開されたら絶対観にいきたいと思ってたけど
コロナで公開日未定になり
やーっと観に行けたわたし的待望の作品。

結論から言うと、
最近観た映画の中で一番考えさせられた。

映画のジャンルもどうでもよくて(ホラー以外)
ハッピーでもバッドエンドでもどうでもよくて
監督の好みもないし、キャストも重視しない、
音楽の使い方とか覚えてすらないくらい
映画をお話として享受して、
そのお話からどれくらい考えることがあるか
で映画を評価しがちなわたしからすれば
過去一くらいにいいお話だった。

ただ、Red同様、人に勧めたいかと聞かれると
あんまり勧めたくはないかも。

なんせ暗いのよ、、、。
2時間6分のうち2時間3分は暗い。
つらい。かわいそう。胸が痛い。暗いのよ。

加えて、公開前からニュースとか
映画サイトでは長澤まさみ演じる母親を
「共感度0の母親」と称していて
もうね、その通り共感できるはずがないわけ。

毒親、虐待、母親不適合。

これに共感できるって言ったら
もうその人ちょっとやばいくらい。

このお話に共感できる人もいないし
感動できる人もいないはず。
だから、人に勧めるようなことはしない。

でも、徹底的な母親目線の見解。
ちょっとだけ話は聞いてみてほしいかも。


・秋子とわたしの距離感、ちがい
・母親という職業
・無償の愛
・福祉の限界
・お母さんが好きじゃだめですか


◇秋子とわたしの距離感、ちがい

これがこの映画に対する感想の
大きな分かれ道になると思っていて。

ちなみにこの映画、母親である秋子に対する
評価はもちろん最低で散々な言われよう。

ただ、そう思ってる人達の大半が
秋子という人間や、秋子と周平という親子を
自分とはどこか遠い知らない誰かのことだと
思っているんじゃないかな、とおもう。

だって、
同じシングルマザーのわたしから見て秋子は
いつかこうなるかもしれないもう1人の自分
にしか見えなかったから。

虐待のニュースが報じられたときもそう。
「我が子を虐待するなんて信じられない」
「育てられないのに子供を作るなんて」
って言える人ってうらやましいなって思う。

今はわたしにきちんと仕事があって
シングルマザーの平均年収を上回る
比較的安定した生活ができている。

でももし、
わたしが仕事ができなくなったら
自分たちを犠牲にしてでも誰かに依存したら

今の自分が安定しているようでいて
ピンヒールの上で転ばないように必死に必死に
バランスを取っているに過ぎないことを
思い知らされたし、
これは経済的な理由以外でもそう。

虐待はシングルマザーだけじゃなくて
普通の家庭にも起こりうるわけで
お子さんがいない方には虐待する気持ちなんて
信じられないだろうけど、

わたしが今のところ一度も虐待してないのは
どうにか自分の心の中に余裕を作ってるからで
その余裕がなくなった場合、
余裕をつくってる余裕がなくなった場合、
虐待しない自信なんて正直ぜんぜんないし
たぶん虐待しない自信がある親なんていない。

秋子を酷いと言えること、
虐待を信じられないこと、
羨ましくもある反面
見ている世界の狭さを気の毒にも思う。

秋子とわたし、
秋子とこの世の母親は、なにも違わない。


◇母親という職業

自分の好きなこと
自分の関心があること
自分がやってきたことを活かせること
なんかを基準にして仕事って選ぶと思う。

この仕事向いてないから辞める
今の職場合わないから辞める
もっと自分にあう仕事があるはず
って仕事を辞める人少なくないと思う。

じゃあ、母親は?


逃げ恥が流行ったときに
専業主婦の年収というワードが
トレンドだったと思うけど、
母親って保育士兼栄養士兼牛みたいなもの。

わたしはずっと言ってるけど
母親には向き不向きがあると思っていて、
さらに母親として母親業をこなせることと
母親として生きることは別だと思ってる。

もともと洗濯機も回せなかった
家事スキル底辺のわたしでも3歳児と2人で
生活できてるところを見ると、
母親業に関してはやってみれば案外できる
と思ってる。
どんなに陣痛が痛くても途中で産むのを辞めた
って人がいないのと同じかんじ。

でも、母親として生きるって難しくて。
だって母親になったからって
別に自分の人生終わって子供の人生の
サポート役になったわけじゃないから。

子供の幸せが親の幸せになるんじゃないか
って昔好きだった人に言われたことがあるけど
それならもうわたしは死んだわけだな
ってしか思えないくらい共感できなかった。

母親としてちゃんとやれてるとは思うけど、
母親として生きることに
もし向き不向きがあっていいなら
わたしは迷わず不向きだと思う。
不向きでも別にいいと思う。

だから秋子が恋するのもわかるし
阿部サダヲ演じる遼に依存するのもわかる。

だってわたしは
ピンヒールで転ばないようにバランスをとって
生きることで普通を演じてるだけだから。

ちょっとだけ映画を作品として観た話をすると
あらすじで
「男たちとゆきずりの関係をもち、
その場しのぎで生きてきた女・秋子」
って言うくらいなら
ホテルのスタッフ、周平の上司とのセックスが
もっと意味を成すものであってほしかった。

むしろ意味の無いセックスすぎて
このシーンいるかなっては思っちゃった。

例えば、
愛情はないまでも身体で男を繋ぎとめて
家に転がりこませてもらうとか
援助してもらうとか。
あらすじからしてそういうのを想像してた。

あと、男から女への暴力シーンは
何度見ても、お話だとわかっててもきつい。
イニシエーションラブですらきつかった。
暴力、だめ絶対。


◇無償の愛

無償の愛が本当にこの世にあるとしたら
それは親から子へではなく
子から親への愛なんじゃないかな。

周平については最後に書きたいから
もし知らない人がいたら
死役所っていう漫画の「あしたのわたし」
っていうお話をちょっと調べてみてほしい。

あと、上の子から下の子への愛。
これもわたしは弱いなあ。
はじめてのおつかい見てても思うけど
周平の冬華への愛が愛おしくて儚くてつらくて
一人で見に行ってたけど号泣した。


◇福祉の限界

大きくなったらやりたいことの一つに
「日本のお母さんたちの心を楽にしたい」
というのがある。

神崎恵さんの大ファンだから
自分の今の年齢関係なく
大きくなったら何になりたい?を
大事にするようにしてる。

海外では夫婦でのディナーのために
ベビーシッターに子供を預けるの当たり前。
日本の親だって虐待しない自信がないなんて
たぶんみんな口に出さないだけで当たり前。
母親として生きるの不向きでもいいじゃない。

でもそれを知らずに、
もしくは知ってても周りが知らないせいで
周りからの目が気になってしまって
自ら苦しみにいってる親はたくさんいる。

そういう人たちの助けになることがしたい
っていう夢があるわたしにとって、
夏帆演じる児相の亜矢さんはつらかった。

自身にも虐待・ネグレストを受けた過去があり
子供たちを救うことを仕事にしている彼女。

亜矢さんの、
秋子を刺激しないような低姿勢
秋子の目を気にした周平たちへの接触
中途半端すぎてこれが福祉の限界なのかな
と思ってしまった。

虐待や福祉関連に詳しい知人によると
亜矢さんの立場にはもっとできることがあって
亜矢さん個人が怠っている
要するにお話の中での福祉の描き方が
どう見せたいのかわからない
福祉の問題より、お話上の問題ってことで
夢はあるのに詳しくないわたしは少し安心。

あとこれ、親ならわかると思うけど
嫌いな相手に娘のこと ふゆちゃん なんて
呼ばれるの死ぬほど腹立つよね。
自分ですらふゆちゃんなんて呼んでないのに。
これはわたしが秋子でも怒るなと思った。

余談だけど、上記はレアで基本的には
相手問わず自分の子のことを「子供」って
呼ばれるの嫌いで、ママやってる友達も
みんな嫌だって言ってたから
友達とか職場の人の子供のことは
「お子さん」「娘さん」「息子さん」名前
で呼びましょうね。結構いるから。
無自覚だろうけど。


◇お母さんが好きじゃだめですか

最後の最後の周平の言葉。

一言でこんなにも泣かせる日本語が
この世に存在したのかと思った。

なにかと話題で触れていいのか微妙だけど
木下優樹菜さんが
誰になんと言われようと娘たちにとって
最高のママならそれでOK
みたいな趣旨のことを常々言ってて、
本当に母親なんてそんなもんだと思う。

虐待・ネグレストを受けていたり
明らかに可哀想なのに
子供が親と離れたがらないケースって多くて
他人からしたらどうして?でしかないけど
子から親への愛こそ、無償の愛なんだよね

生まれたときからその環境だったら
母親が異常であることも
自分が可哀想であることもわからない。
だから教育・育児は一種の洗脳なんだろうけど
ここも難しいなと思う。

だって、母親には子を育てる義務があるのに
子を自由にしていい権利はないから。

秋子はこの概念がなくて、
私の子なんだから私の好きにしていいでしょ
あの子は私の分身だよ
ってなんの躊躇いもなく言う。

義務だけ課せられて義務を果たせなかったら
その辺の労働の義務を放棄してる人達の
何百倍も非難されて非人間みたいに言われて、
それなのに親が得られる権利なんてない。

今は特に、子の性別もこの子が決める
子がどう生きたいかはこの子が決める
親と子でも他人同士、子は子の人生がある
っていう時代だから、

孫を期待するなんて時代遅れだし
親が思う子の幸せが、
子にとっての幸せかどうかはわからないし、
子が幸せでも親は不安かもしれないし、
だとしたら、親の権利ってなに?
子の成長?なにそれおいしいの?ってレベルで
圧倒的に義務の方が大きいなと思った。

それが嫌なら子供を持つなって思うじゃん?
やってみなきゃわかんないんだよねこれが。

だから一定数、
秋子みたいな人がいるのもおかしくないよな
とかいろいろ考えさせてもらえた。

本編の話になるけど、
映画で描かれている範囲では
周平は秋子の指示で祖父母殺害を実行する。

だけど、指示はなかったという供述で
秋子の量刑は周平のたしか1/7くらい。
どうして指示があったと言わないんだと
弁護士さんも亜矢さんも言うし
もちろんわたしたち観てる方も思うラスト。

わたしは、周平の祖父母殺害の要因として
圧倒的に秋子の指示が大多数を占めるけど
100分の2か3は祖父母への怨恨もあったとしか
思えないんだよね。

殺す前に冬華の話するシーンを
あえて入れるところとか。

秋子が冬華を妊娠してるとき、
今の冬華より少し年上だったくらいの周平に
酷い対応をしたこと、
大好きなお母さんを見捨てたこと、
全部過去のことだからって
今は穏やかに呑気に冬華に会いたいなんて
のうのうと言えること。

その着火剤がなければ、
やっぱり周平はいくら秋子の指示があっても
実行は躊躇ったんじゃないかなあ。

祖父母が秋子を見捨てたのは
まあ先に秋子が悪かったから仕方ないけど、
「僕のお父さんは桃太郎に殺されました」
と同じで、周平からしたらこの祖父母は
十分に怨恨で殺すだけの理由がある
悪い祖父母だったよなあと思う。難しい。

指示があったと最後まで認めないのも同じく。

指示にしろ、指示を認めないことにしろ、
怨恨にしろ、すべての根源は
秋子と周平の共依存。母と子の"共依存"。
この映画のキーワードは共依存。


…共依存?

この言葉とて、
当事者同士はまったくそんな自覚なくて
他者が判断し名付ける関係。

当事者たちがいいと言っていても
普通じゃない、社会的に正常じゃない
という理由で壊される共依存。壊す周囲。

一方的に「普通」を押し付けて
壊す側の周囲が「普通」?
だとしたら普通ってなに?ってなった。

なんか、この世で一番こわいのって
「わたしはそうならないという謎の自信」
だなって。
鑑賞から2週間経ってこれが一番の感想かも。
延々書いた挙句。この世怖いな。


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