運命 だなんて、言わない


(続)共に戦う戦士



ー 自分の力で



3月、手術から丸1年。
症状は変わらない。
ただ、歩ける距離は伸びたし、スピードも着実に上がってる。

4月、復学したい。その気合いだけで学校に行った。
授業を受けた。正しくは、教室に行ってひたすら耐えていた。

通学の満員電車はもちろん座れない。座るために優先席のドアから乗った。
全員見て見ぬフリ。私の杖を見る。そして私の全身を見る。からの目をつぶる。若いからいいやって思ったのかな。優先席はお年寄りの方にしか譲らないって習ったのかな。

「譲っていただけませんか。」

そのひとことが言えなかった。

乗り換えでなんとか降りてよろよろで歩けなくなる私。
杖を蹴飛ばされて舌打ちをされる。
ホームで立ち上がれなくなる私。

学校遠くね?半泣きでたどり着いて、原則階段だけどエレベーター使っていいよって言われたから乗ったら、それを見た他の子たちが次々乗り合わせてきた。
それはいいんだよ、別に。全員先におりたから最後におりた。そしてドアに挟まれる。他の人のために開くボタン押してる時間がこんなに泣きたい時間だと思ったのは、この時が最初で最後。

90分の授業を4コマ。座ってられない。姿勢を保てない。悪化し続ける症状との戦い。


1日がとんでもなく長かった。


そんな毎日を1週間頑張ってみた。
もう頑張れないって思うより先に涙が止まらなくなった。

そんな私を見た事務のおばちゃんが駆け寄ってきて話を聞いてくれた。駅まで送ってくれた。

それでも涙は止まらない。

電車の中でも泣きっぱなし。最寄駅に着いてトイレで大号泣。グッチャグッチャになりながら帰宅。


次の日から学校に行けなくなった。


身体的にも精神的にも無理だった。
1年間、頑張ってみたけどダメだった。

診察室に行っても、「きっと良くなるから。」って言ってくれてた先生が言わなくなった。

「無理のない範囲で。うまく自分の体と付き合っていく方法考えよう。」

って。

学校の規則では在籍年数は6年がMAXだから、あと1年は休学ができる。

でももう1年頑張ったとて、学校に通える保証なんてどこにもない。

「1年分の授業料無駄になった。」

って親に言われたし。

それならいっそのこと、退学しようって思った。

看護師を諦める訳ではなく、学校を辞める。
もし通えるくらいに回復したら、また受験すればいい。

そう思って、家族に話した。


「そんな簡単に諦めるんだね。」

「友達と馴染めないから逃げてるだけじゃないの?」


って言われた。


看護を諦めるんじゃない、今学校に通う事を諦めるだけ。気持ちだけでどうにかなる話じゃない。そう何度も伝えた。


「やっと諦めてくれたね。」



(やっと諦めてくれたね?????)



こいつらに日本語は伝わらないのか????


それならもういいや、自力でなんとかしよう。

二本足で歩けるようになったら働いて授業料稼いで受験しよう。早くこの家を出よう。その一心でリハビリを続けた。


頑張れど頑張れど、そんな急に歩けるようになんてならない。

ただただ歩けるようになる事を信じて毎日必死だった。



「まだ歩けないの?」

「歩く気無いの?」

「何もかも全部あんたのせいだ。」

「どうせひとりじゃ何にもできない。」

「障害者は障害者らしくしろ。」



その言葉のおかげで私は強くなったよ。
絶対に歩いてやる私の足で。
何事も無かったかのように生きてやるよ。

杖持ったまま失踪しようかなって本気で考えた事もある。
でも20歳になるこの年、責任を負える年齢になってから動こうって計画した。

この頃から睡眠障害が酷くなって手術した病院の精神科にも通う事になった。足の先生の後押しもあって。

言いたい事は色々あったけど本当の気持ちは全然話せなかった。
話したくない事は話さなくていいよって先生にも言われたから。
でも今までの苦しい事もいつか話せるようになったらいいな、って。


夏頃には徐々に歩くスピードも上がって、杖は持ってるけど安心材料としての役割の方が大きかったかな。

これならいける、そう思って年内に働き始めようと職探しを始めた。

選んだ職は看護助手。
お金も知識も手に入る。これだと思って即応募。

とりあえず働いて、私の体でも看護ができるのか確かめたかった。


家を出て、自分の力で生きようって思った。




ー 戦いの幕開け




面接日も決まって順調に計画が進んで、やっと風向き変わってきた?とニヤニヤしていたのも束の間、父親のガンが見つかる。ステージⅣ。末期。手術適応外。余命1年。

泣けなかった。

たったひとりの実の父親がもうすぐ死ぬってのに泣けなかった。


私の計画台無しじゃん


って気持ちが真っ先に出てきた。


いつまでも親不孝な娘でごめんね。
私、あなたの事どうしても好きになれなかった。

とりあえず家は出られない。
病院の送り迎え、付き添い、入退院の手続きとかしなくちゃならないから。

そうこうしてる内に私の入職も決まった。
働きながら、親の面倒を見る事になった。自分も病院通いながら。

抗ガン剤での治療が始まる。入退院を繰り返さなければならない。
母親と私はシフトを調整しながら働いた。

極度の病院嫌いでわがままな父親と自分の息子に激甘な祖父母との戦いの幕開け。

自分の事に時間を割けなくなって、行きたいライブも我慢した。
友達と年越しでライブ行って旅行する予定だったけど、出来なかった。

患者、患者家族、医療者、三足のわらじを履いた。

それぞれの立場で看護と向き合った。

患者は自分の命を預けていて、患者家族は家族の未来を預けていて、それで飯を食ってる看護師。

嫌な言葉もたくさん聞いたし嫌な対応もたくさんされたし、退院していく姿も看取りもたくさんしたけど、患者さんたちとの関わりは楽しかったしやりがいがあっていい仕事だなって思った。セクハラもされたけどね。


でもまあ、杖卒業して半年も経ってない私、体はしんどい。
なにより補聴器つけてても音が100%わかるわけじゃない。

この状態の私が人の生活、命を預かってもいいのかって何度も何度も考えた。
そして何より、私が患者だったら私に看護されたくないって思った。

やってみて、やっと身を引く覚悟が出来た気がする。

人事部にも師長にも事情は話していたし、父親の事もあったからシフトを減らしてもらって人事異動のタイミングで病棟から外来に異動させてもらった。外来なら前残業も無給残業も無いし。


家族の話に戻ります。

抗ガン剤もあまり効かなくてどんどん進行していった訳だけど、年明けてから一人で出来る事が減ってきて、本来なら入院しないといけない状態だけど、父親断固拒否。

主治医の先生も治療して良くなるもんでもないから強制できなくて。

深夜に救急搬送されて明け方家に連れてかえれ!って駄々こねられて、そのまま出勤なんてザラ。

抗ガン剤で入院しなきゃいけない時も、退院日より前に帰らせろ!って言われて母親も私も仕事で迎え行けなくて。
それ伝えても朝っぱらから鬼電されて母親も私も弟もシカトし続けて、

「明日なら迎え行けるから、お願いだから明日まで待って。」

ってひとことメール入れて出掛けたら、祖父母に連絡したみたいで。甘々な祖父母がタクシーで連れて帰って来ちゃって。

ただでさえよろよろなのに、副作用でさらによろよろになってエレベーター無しの4階まで登らせて。私らが行けばおんぶだって出来るのに。

色んなリスクを避けるためだって父親にも祖父母にも何度も説明したってわかっちゃくれなかった。

それどころか、父親は

「家族なのにみんな冷たい。」

って言うし、

祖父には

「なんで本人が帰りたがってるのに迎えに行かないんだ!自分の親なのに大切じゃないのか!」

って私が怒られた。

「あんたらこそ人の命をなんだと思ってんだよ自分の息子殺す気か!」

ってさすがにキレた私。

弟は特に付き添ったり口出しするでもなくって感じの日々。

それでも恨まれたまま死なれたくないから父親が行きたいって言った場所には連れて行ったし、成人式の年だったから振袖姿は見せた。

私も体がしんどかったから式には出られなくて振袖も着る気なかったんだけど。見たいって泣かれたから。


あれもこれも形ばかりの親孝行。


看護助手やってたおかげで、清拭、おむつ交換、対位交換、リネン交換、食事介助、着替え、歩行介助、ある程度の事はなんでも出来た。職場でも家でも同じ事してた。


そんな毎日が6ヶ月と3週間くらい続いたある日、
父親のおむつ交換と着替えをした後

「今までありがとうね、楽しかったよ。」

って声にならない声で言われた。

「こちらこそありがとう。私も楽しかったよ。」

って返した。

言いたい事は腐るほどある。ぶつけたい感情もクソほどある。
それを全部飲み込んで、彼が望んでいるであろう言葉を。


これが私の出来る最後の親孝行。最後の会話。


病院でガン患者の看取りは何度もしてきたからなんとなくの死期はわかった。
ああ、もう1週間ないなって。

こういう時家族って泣くんだろうな、とも思ったけど。ごめんね出なかった。


それから数日後、容体悪化して救急搬送。入院。


「もう家には帰れなさそう。もって1週間かな。」


って主治医に言われた。
目は開かない。声も出ない。

入院からほんの2日くらいかな、深夜に病院から電話が来て

「脈が落ちてきたのでみなさん来てください。」

って呼び出された。母親、弟、祖父母、私、全員で病室に行った。
深夜1時過ぎ。まだ耳は聞こえる、そう思って

「今までお疲れ様。ゆっくり休んでね、たくさん頑張ったね。もう頑張らなくていいんだよ。」

って声を掛けた。


私が彼に言われたかった言葉。


全員の声を聞いたからか、父親の目から涙が流れた。
死ぬまで耳は聞こえるって本当だったんだ。

数秒後、モニターのアラームが鳴った。
父親の心臓が止まった音。


「ご臨終です。」


ああ、全部終わった。


余命宣告からちょうどぴったり7ヶ月。
我が家の短くて長い戦いが終わった。


日が昇り始めたくらいに家に帰って1時間くらい仮眠して休む間も無く葬儀やら何やらの手続きに追われる。

本人は葬式もしなくていいとか言ってたけど、ちゃんとやってキリを付けたいって珍しく母親と私の意見が一致したから。

お世話になった人片っ端から連絡したから、たくさんの人が参列してくれた。
みんな泣いていて、「あんないいお父さんが、、、」って言う。
確かに外面だけは良かったもんな、あの人。
「お母さんの事、支えてあげてね。」とも言われたなあ。






ー 理想郷




諸々落ち着いて7月。
籍は残して休ませてもらっていたけど私は退職を決意。

看護こそ、気持ちだけでつとまる仕事じゃないし、やる気だけでやって良い仕事じゃない。
あとは全然違う仕事をして環境を切り替えたかった。

もったいないだとかなんだとか色々言われたけど、私の人生だよ口出しなんかさせない。

掛け持ちして、単発の仕事もしたりして。
今度こそ家出るために稼ごう。


納骨も終わってひと段落して、足も言わないとわからないくらいにごまかせるようになったし、ちょっとずつ順調な生活になってきた。


よっしゃ、生きてやる。


11月。
今度は母親のガンが見つかった。


なんだそれ。


朝から晩まで働きながら、今度は母親の病院の付き添いやら、入院手続きやら。

母親は手術で取りきれれば抗ガン剤治療はしなくても良さそうとの事で、12月に手術になった。
あとちょっと発見が遅れたら破裂して最悪の事になってた、とは言われたけど。

母親の入院中、もちろん家事は全部やった。弟の分も。
手術は付き添った。私だけ。

また、行きたいライブを諦めた。


私、21歳。
周りは大学3年生。
SNSを開けばみんな違う世界で生きていた。
課題がどうの、レポートがどうの、バイトがだるいだの、ゼミがなんとか、サークルのあれこれ、大人数で旅行に行ったり、酒に飲まれてたり。

私には何ひとつわからない世界線。
パラレルワールド。ユートピア。シャンバラ。

みんなにとっての日常は私にとっての非日常であり、私にとっての日常はみんなにとっての異常だった。


それでも私が生きる事から逃げなかったのは、


「生きてりゃ絶対良い事あるから。死ぬなよ。」


って言い続けてくれたバンドマンがいたから。

試合前のアップ中も、死にたい時も、布団から出られなくなった時も、歩けなくなった時も、彼の作る音楽は不思議と聴けた。

黒田さんと茜さんを掛け合わせたような存在で、私以外で唯一、私を肯定してくれた。


音楽は最強だ。


音楽のある世界が、私の居場所だった。

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