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日記についての考察

日記をかれこれ3年ほど書いている。3年といっても、ひと月に一回だけしか書いていないときもあるし、毎日書いているときもある。日記を書くか否かのマイルールは、「気が向いたら書く」それだけだ。日記の内容も決めていないので、日付の下に思い思いに書く。面白かった映画、本の感想、旅行の記録、日常のもやもや、人間関係のあれこれ。とても平穏な日を文章に記すのは難易度が高いので、何か壁にぶつかったり、気分が落ち込んだり、楽しい日々より鬱々とした日々の方が日記は盛り上がる。日記を毎日書いているときは何かしんどいことを抱えているときで、日記をあまり書かないときはたいてい順調な日々を送っている。

紙のノートに書いていくよりもタイピングの方がいくらか速いので、パソコンで書いている。一つの文書ファイルにずっと続けて書いているから、もうそろそろ3万字を突破しそうだ。誰にも見せない私だけの言葉。主語や接続詞を飛ばしてしまうし、時系列もぐちゃぐちゃなので、誰とどこで何があったのか自分でも思い出せないこともある。ただ、その時の感情だけが鮮明に記録されている。

浮かんだ言葉を訂正せずにそのまま書いているから、たまに誰かに語りかけているように感じることがある。疲れ切って日記を開くと、お疲れさまと書いてあったりする。もちろん自分で書いているのだけど、なぜか書いてあったように感じる。「自分との対話」や「内省」は、あまり形式に則って実施しなくとも、なんとなく書く日記が与えてくれるのかもしれないと思う。

書き溜めた日記をたまに読み返す。その度、記憶の曖昧さに何度でも驚いてしまう。自分で書いたはずの文章、自分の感じた事柄のはずなのに、まるですっかり忘れてしまっていることがある。このとき、本当はこう感じていたのかとか、○○したいと書いていたのに忘れているなとか、日記は思い出を振り返る以上に、備忘録として機能している。ふと思いついた、「○○したい」は忘れてしまっていることが本当に多いし、いつの間にか想像していたのとは違う形で叶っていた願望に気づいていないこともある。些細な思い付きを大切に覚えておけるほど、記憶の容量が大きくないので、書いて読み返して、また自分を知る。

日記は誰にも見せることがないので、どんなことでも書けるのだけれど、案外乱暴な言葉は出てこない。忙しい日々の中では、言わなきゃよかった一言が出ることも一度や二度ではないけれど、落ち着いていれば、そんなことは起こらないのかもしれない。

この日記は自分で読んでいても面白くて(というか自分しか読んだことがないけど)、書いていてよかったと思うのと同時に、誰にも見せないから無茶苦茶でいいと思っていて、しかし、誰かに読んでもらいたいなということも思う。さまざまな事柄に対するアンビバレントな感情をさばききれないでいるのかもしれない。

2023.11.20の日記

他人の日記を読んだことがないから分からないけれど、面白いものなのかなと考える。だから、自分の日記を誰かに見せてみたいと時々思う。一つの事柄に対して、好きか嫌いか、イエスかノーかを問われがちだけれど、ほとんどいつも、どちらでもなくて、あるいは、どちらも当てはまるのだと思う。矛盾したり、日によって考えが変わったり、そんな自分を一貫性がないと責めるのは少し違う。

毎日が平穏で、矛盾した感情を抱えずに過ごせたら、いつか日記が必要でなくなる日が来るのかもしれない。それまでは、悩んだ日々の記録を、面白がりながら読み返して、前へ進んでいく。

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