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エッセイ:シオラン――敗北者の守護聖人



はじめに

 エミール・シオラン(Emil Cioran、1911-1995)はルーマニア生まれの作家、思想家です。後にフランスに移住し、フランスで生涯を終えました。著作には初期のルーマニア語によるものと後期のフランス語によるものがあります。
 今はもう動いていませんが、Twitterにシオランの言葉をツイートするbotがあります(@Cioran_Jp)。停止して一年経ちましたが、フォロワー数はまだ約二万人(2024年5月現在)おり、僕もこのbotでシオランという人物の存在を知りました。
 シオランの著作はアフォリズムや短編のエッセイから成り立っており、難しい内容のものもありますが、一つ一つの区切りがそんなに長くないので、割と雰囲気で読めるところがあります。僕はよく酒を飲みながら読んでいます。

シオランの思想

 シオランは現代悲観主義の巨匠と呼ばれているそうです。悲観主義というと感傷的なイメージがあるかもしれませんが、シオランの言葉からはむしろパワーを感じます。Twitterでたまに見かける『ドラえもん』の漫画の一コマで、ドラえもんが寝不足と疲労による怒りで「やろう、ぶっころしてやる」って言って暴れてるシーンがありますが、個人的にはあんなイメージです。実際、シオランは不眠症に苦しめられていたようです。

街に出て人間を目にすると、まっさきに思いつくのは皆殺しという言葉だ。

『四つ裂きの刑』金井訳、p. 109

 こういうパワーあふれる言葉で虚無的な思想が展開されます。シオランの処女作である『絶望のきわみで』からいくつか引用してみます。

なぜこの世で何かをなさねばならぬのか、なぜ友人だの、あこがれだの、希望だの、夢だのをもたねばならぬのか、私にはその理由がまるでわからない。こんなことより、この世を捨て、この世の喧騒や悶着の一切から遠く離れているほうが、はるかにましではあるまいか。

『絶望のきわみで〈新装版〉』金井訳、p. 16

私のあとに続くすべての人のためにここに断言しておくが、この世に私の信じうるものなど何ひとつないし、救いは忘却のなかにあるものと思っている。できることなら、私は一切のものを、おのれ自身をも全世界をも忘れてしまいたい。

同、pp. 82-83

一般に人間は労働過剰であって、この上さらに人間であり続けることなど不可能だ。労働、すなわち人間が快楽に変えた呪詛。もっぱら労働への愛のために全力をあげて働き、つまらぬ成果しかもたらさぬ努力に喜びを見出し、絶えざる労苦によってしか自己実現はできぬと考える――これは理解に苦しむ言語道断のことだ。

同、pp. 160-161

私は思想をではなく、強迫観念を抱いている。思想など、だれであれもつことができる。思想が、だれであれだれかの崩壊をもたらしたことなどいまだかつてなかったのだ。

同、p. 171

 見出しは「シオランの思想」ではなく「シオランの強迫観念」であるべきだったかもしれません。ネガティブで破壊的な言葉が並びますが、シオランの著作を読んで砲撃の中を生き延びたとか、自殺を思いとどまったとか、そういう人もいるみたいです。僕もシオランの咆哮のような言葉を読んでいると胸がすっとするような感覚があります。あまり大声では言えないことを印象的な言い回しで代わりに言ってくれるというところがありますね。

戸外に出るやいなや、私は叫んだ。「この世は地獄の模造品だそうだが、まったくよくできてる!」

『告白と呪詛』出口訳、p. 46

 ところでシオランの読者層ですが、シオラン自身によると以下のような人たちらしいです。

考えてみれば、尋常な人生を尋常に生きているような未知の人からはただの一通の手紙ももらったことがない。もちろん、私の書いたものから何かを受け取り、私に親近感を覚えると言って、熱烈な手紙をよこす人はいる。彼らは人生の敗残者、落伍者、病人、苦しみ悩み、無邪気になどなれぬ不幸な人たちであり、口に出してはいえぬありとあらゆる病弱・不具に打ちのめされ、苛まれ、この世のあらゆる試験に落第し、昔なじみの不安を、あるいは新たに降って湧いた不安をひきずっている。

『カイエ 1957-1972』金井訳、p. 636

私の本に興味をもっているような人がいると、そういう人は、自分の内部で何かが壊れてしまって〈にっちもさっちもゆかなくなり〉、人生を〈切り抜けて〉ゆくことのできない人だ、ということが私にはすぐ分かる。私に惹かれるのは敗北者だけだ。
「敗北者」の「守護聖人」。

同、p. 962

 人生の敗北者たち。そこまで悲惨な状態ではなくとも、世の中のノリに馴染めなかったり、違和感を感じたりしている人はシオランの言葉に共感するところもあるのではないかと思います。
 さて、突然ですが死は誰にとっても避けられないものです。シオランはその死を盾に敗北者こそが実は勝利者なのだと宣言します。

死は、失敗の好みを持ち、天分を持つような人間の庇護者である。成功を収めなかった者、成功への執念を燃やさなかったすべての者にとっては、一個の褒賞である。・・・・・・死はその種の人間のほうに理ありとする。死は彼らの勝利なのだ。逆に死は、成功のために骨身を削り、ついに成功を収めた人間たちにとって、なんという残酷な否認、なんという痛烈な平手打ちであることか!

『生誕の災厄』出口訳、p. 258

 まあ、確かに死んだら終わりですし、もし仮に後世に残るような功績を残したとしても、地球には寿命があります。太陽にも、宇宙にすら寿命があります。地球が寿命を迎える前でも、何らかの環境の変化などで人類が絶滅することは十分考えられるでしょう。つまり、結局のところ何も残らないのではないかと思われます。そう考えるとそもそも何も成し遂げなかった人のほうが真理に近いところにいるのかもしれません。
 ルサンチマンだという誹りを受けかねないようなこんな論理で堂々と敗北者を擁護していく姿勢はまさに敗北者の守護聖人と言えるのではないでしょうか。記事のタイトルにこの「敗北者の守護聖人」という、一つ前の引用部分にあったシオランの言葉をそのまま使うか迷ったのですが、シオランの効能はまさにその言葉の通りで、他にもっといい言葉が思い浮かばなかったので使いました。

 ところで僕がシオランに関心をもっているのは、印象的な物言いで虚無的な言葉を発しているからというのもありますが、それに加えて神秘主義や東洋思想に傾倒しているからという理由もあります。神秘主義や東洋思想というのが僕の主な関心領域なので。

遍歴托鉢の僧。現在までに人間が達しえた最高の姿がここにある。もはや、断念すべきものを持たぬところまで行くこと。迷夢を捨てた精神なら、例外なくこれを夢みるにちがいない。

『生誕の災厄』出口訳、p. 164

 僕は思いっきり迷夢のなかにいますが、現世からの束縛を断った聖者の在り方が結局は正しいんだろうなあとは思ってます。そんな大それた生き方はなかなかできないですが。
 これを書いているとき、SNSを見ていると他人のキラキラした生活に嫉妬して幸福度が下がるみたいな記事が目に入りました。聖者に憧れをもっておく効能の一つとしては、そういうものを見てもたいして羨ましいとも思わなくなって、ストレス軽減に一役買うというのもあるかもしれません。

「聖性をあきらめた以上は・・・・・・」――一度は私も、こんな大口をたたくことができたのだ。それなりの理由があることはあったのだろうから、なんとか尋ねあててみようと思っている。

『告白と呪詛』出口訳、p. 53

隠者たちに関わる書物なら、読んで読み飽きるということがない。同じ隠者でも、なるべくならば「神を求めることに倦み疲れた」とされる者たちのほうがよい。〈沙漠〉の落伍者たちに私は眩惑されている。

『生誕の災厄』出口訳、p. 268

 僕も何だかんだ聖性に憧れつつ虚無から離れられないでいるので、聖性からの落伍者たるシオランに共感を覚えています。

 シオランの思想について、他に重要な点としては独特の自殺論と反出生主義があります。noteに書いていいのか分からないセンシティブな話題なので詳細は省きますが、シオランは自殺に対して肯定的です。しかしながら推奨はしていません。シオラン自身、この世界に対してこれでもかと悪態をつきながら八十代まで生きて病気で亡くなりました。

この人生から自分を葬り去るのは、人生に毒づく楽しみを捨てることでしかない。
これが、この世にけりをつけるつもりだと言いに来た人間に、返してやれるたった一つの答えである。

『告白と呪詛』、pp. 81-82

 一方、出生に関しては否定的で、もちろん推奨はしていません。シオランは結婚はしなかったものの、大学で知り合った女性とずっと同棲していました。しかし子供はもちませんでした。まあ、これだけ世の中を嫌っていればそうだろうと思います。

あらゆる罪を犯した。父親となる罪だけは除いて。

『生誕の災厄』出口訳、p. 10

 さらにあと一つ付け加えるなら音楽への熱愛も挙げられると思います。

音楽を熱愛することは、それだけでもう、何かを告白しているにひとしい。面識のない人でも、音楽に耽溺している人物なら、毎日顔をあわせてはいるけれど、音楽なんぞ知らないよ、という者よりも、私たちにはずっと気心が知れているといっていい。

『告白と呪詛』出口訳、p. 212

音楽に頼らずともすむ――私にそうしていられるものがあるとすれば楽園か海、これだけかもしれない。

『涙と聖者』金井訳、p. 39

 僕も音楽は好きですが、シオランの音楽観は崇高すぎてちょっと何を言っているのか分からないところがあります。

「涙と音楽とを私は区別することができない。」(ニーチェ) この言葉の意味をただちに了解することのない者は、いまだかつて音楽に親しんだことのない者だ。およそ真の音楽は、楽園への悔恨から生まれたものである以上、例外なく涙に由来する。

同、p. 31

 シオランはフランスに移住してフランス語で著作を書いてますが、もともとはフランスの文化圏ではなくドイツ語を話すウィーンの文化圏で生まれ育っており、音楽についてもドイツロマン派周りの、音楽とは何か崇高なものを表現するものだというような、そういう音楽観をしていたのかもしれません。シオランが話題にしている音楽家もドイツ系ばかりな気がします。

バッハを聴いていると、神の芽ばえるのが見える。彼の作品は神の発生器である。
あるオラトリオを、カンタータを、あるいは〈受難曲〉を聴いたあとでは、神は存在しなければならぬ。さもなければ、このカントルの全作品は痛ましい幻影であるだろう。
・・・・・・かくも多くの神学者や哲学者たちが神の存在証明を求めて、日々を、そして夜を無駄にしてきたことはなんと驚くべきことか。彼らはただのひとつのことを忘れていたのである・・・・・・

同、pp. 84-85

 バッハの音楽が神の発生器であり、ひいては神の存在証明になっているらしいです。僕は音楽は好きですけど造詣が深いわけではないので、「なるほど?」としか言えないところがありますね。

場面別アフォリズム集

 読むと気が楽になるかもしれないシオランのアフォリズムをいくつか選びました。主にシオランが「~のとき、~という言葉を思い出すようにしている」みたいなことを言っているところから集めました。

物事が思い通りにいかないとき

「この世は、『生命』が望むとおりに創られたわけではない」――メソポタミアの、マンダイズム派グノーシス経典『ジンザ』には、そう記されている。
失意をなだめるべき適当な論拠がみつからないときは、この一節を思い出すにかぎる。

『告白と呪詛』出口訳、pp. 31-32

 物事が思い通りにいかないという苦しみは、期待と現実のズレから生じるものだと思います。全く期待をもたないというところまでいかなくとも、この世界は欠陥だらけの出来損ないであるという認識があると気が楽になるかもしれません。

「神は、この私たちの世界ほど、神自身にとっておぞましく思われるものを創っていない。神は、この世界を創ったその日以来、一度もそれを眺めようとしたことがない。それほど、神はこの世界を憎んでいるのだ」
こう書いた回教の神秘神学者が、誰なのか、私は知らない。これから先もずっと、この親しき友の名を、私が知ることはないだろう。

同、p. 33

宗教にかかわる詞華集をひもといているうち、いきなり、次のような仏陀の言葉に行きあたった。「私たちの欲望に見合うほどのものは、この世に何一つとしてない」――私はただちに詞華集を閉じた。こんな言葉を聴いてしまっては、そのうえ何を読んでもしかたがなかろう。

同、pp. 105-106

この宇宙というやつは、なんとみごとに出来そこなっているんだろう!
――ものごとを一歩退いて考える気分になったときに、私が心中でくりかえし呟くのがこのせりふである。

同、p. 170

各人が、生誕とはひとつの敗北だと諒解するとき、人間の生活はようやく堪えうるものとなり、あたかも降伏の翌朝のような、敗北の安堵と休息のような趣を呈するであろう。

『生誕の災厄』出口訳、p. 235

目障りな意見を目にしたとき

「ある教えが広まるとすれば、それは天が望んだのである」(孔子)
・・・・・・あれこれの血迷った思想が凱歌をあげているのを見て、私の憤怒が卒中の域を掠めるようなとき、私はいつもこの言葉で心を鎮めようとする。

同、p. 210

 目の前の人の意見を変えることすら難しい以上、よく分からない無数の人たちの意見を変えることの難しさは想像を絶するほどです。自分にどうにかできるものではないときっぱり諦めれば不快感を鎮めることはできます。
 また、そもそもその人は反論に値する相手なのか?という問題もあります。

パスカルが『田舎の友への手紙』で、イエズス会士エスコバルにすさまじい非難攻撃を浴びせたのは、誰しも知るところだろう。さてそのエスコバルだが、当時、スペインを訪れたあるフランス人旅行者によると、この人、パスカルの論難を、まったく知らなかったという。そのうえ、彼は、自分の国では無名に等しかった。
どこを見ても、誤解と、現実遊離ばかりだ。

『告白と呪詛』出口訳、p. 197

人間関係に苦しめられているとき

失望の、あるいは憤激の度数をなんとか減らしたかったら、あらゆる時、あらゆる場合に、次のことを想起すべきだ。すなわち、私たちは互いに相手を不幸にするために生きており、この事態に逆らうのは、共同生活の礎石そのものを掘り崩すにひとしいのである。

『生誕の災厄』出口訳、pp. 234-235

人間関係がかくもむずかしいのは、そもそも人間はたがいに殴りあうために創られたのであって、「関係」などを築くようには出来ていないからである。

『告白と呪詛』出口訳、p. 179

 これぐらい開き直れば気が楽になるかもしれません。

その他印象に残った言葉

 上記以外で印象に残ったシオランの言葉を五つほど選んで紹介します。何も付け加えないほうがいいような簡潔な表現なので引用だけにします。

すべては、遅すぎてから到来する。すべては、もう遅い。

同、p. 142

私の知っていることが、私の望んでいることを解体してしまう。

同、p. 224

理解力、言い換えれば、不謹慎の大罪。

同、p. 231

老いとは、すなわち生きたことに対する懲罰にほかならぬ。

『四つ裂きの刑』金井訳、p. 202

私たちはみな地獄の底にいる、一瞬一瞬が奇蹟である地獄の底に。

『悪しき造物主』金井訳、p. 207

終わりに

 僕はシオランの著作を全部読んだわけでは全くないのですが、読んだ中からだと『告白と呪詛』が一番オススメです。全編アフォリズムで一つ一つが短いので読みやすいです。また、シオランの最後の著作でもあります。帯には「〈反哲学者〉シオランの到達点」と書いてあります。
 シオランに関する概説書としては、

大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』星海社、2019年

が、僕の知っている中では一番手頃だと思います。表紙のイラストは『少女終末旅行』のつくみず先生が描かれています。確かに『少女終末旅行』とシオランはシナジーを感じます。

 最後に引用したシオランの著作を挙げておきます。順番は原著の出版順です。
E. M. シオラン名義
 『絶望のきわみで〈新装版〉』金井裕訳、法政大学出版局、2020年
 『涙と聖者〈新装版〉』金井裕訳、紀伊國屋書店、2021年
 『悪しき造物主』金井裕訳、法政大学出版局、1984年
 『生誕の災厄』出口裕弘訳、紀伊國屋書店、1976年
 『四つ裂きの刑』金井裕訳、法政大学出版局、1986年
シオラン名義
 『告白と呪詛』出口裕弘訳、紀伊國屋書店、1994年
 『カイエ 1957-1972』金井裕訳、法政大学出版局、2006年