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読書感想:アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』

はじめに

 アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』は1952年に出版されたSF小説の古典的名作です。日本語訳は複数あるみたいですが、僕は早川書房の福島正実さんの訳で読みました。この作品を初めて読んだときは「凄いものを読まされた」と大変衝撃を受けました。70年前の作品ですが、とても面白いのでスラスラと読めます。

あらすじ

 時代は米ソ冷戦のさなか、アメリカとソ連の天才科学者たちが宇宙開発競争でしのぎを削っていたところ、人類をはるかに超えた知性と科学技術を有する宇宙生命体・オーバーロードの宇宙船が現れます。オーバーロードの圧倒的な科学力の前に、人類は本格的な抵抗を試みることなくその保護下に入ります。幸いなことにオーバーロードには人類を奴隷にするような意思はなく、人類はオーバーロードの支配の下、平和で物質的にも恵まれた黄金時代を迎えます。
 しかしその黄金時代にも終わりが来ます。あるとき一人の子供にポルターガイストなどの超自然的な力が芽生えます。その現象は地球全土に広がり、人類の子供たちは旧来の人類とは異なった存在となってしまいます。オーバーロードの地球総督カレルレンは、オーバーロードは宇宙における最高の存在ではなく、「オーバーマインド」というより高次の存在の命令に従って動いていただけだということを明かします。そして人類の子供たちにおける突然変異はオーバーマインドが彼らをより高次の存在にするために引き起こしたものであり、子孫を失った現世人類は滅亡することを告げます。
 地球上から旧人類が絶滅してしまったあと、オーバーロードの母星に密航していたジャン・ロドリックという青年が最後の人類として地球に帰還します。そこで彼は異様な格好で異様な動きをし、超自然的な力を操る新人類を目にします。ジャンは地球を立ち去ることにしたオーバーロードに地球の様子を内部から伝える役目を引き受けますが、オーバーロードが立ち去るやいなや、新人類の超能力によって地球が崩壊を始めます。大スペクタクルのさなか、新人類はついに肉体をも脱ぎ捨て、オーバーマインドと一体化していきます。

宗教的な視点から

神秘主義

それでも人類の神秘主義者たちは、われとわが謬見に目を曇らされながらも、真実の一部を見きわめていた。この世には、霊魂の力、さらに霊魂を超越した力、というものが存在する。(中略)。ポルターガイスト、テレパシー、予知――あなたがたはこれに、いろいろと名をつけた。が、説明することはできなかった。科学ははじめ、これらを無視しようとしていた、いや、五千年の証明があるにもかかわらず、その存在を否定しようとしさえした。しかしそれは存在するのだ。

p. 332

 これはカレルレンが最後の演説で人類に語った言葉の一部です。ポルターガイストやテレパシーなど、新しい人類が具えていた超自然的能力と、それに関する科学はこの作品の鍵になっています。手元に何の資料もないのでWikipedia情報ですが、Wikipediaの著者のページ(2024年8月20日閲覧)によると、クラークは神について、「知識へと至る道は神へと至る道である。あるいは真実へと至る道でも何でも好きに呼べばよい」と述べているとのことです(The Timesを購読している人は引用元の記事を読めるようです)。また、クラークは仏教に好意的なようで、実際、この作品中では奇蹟や神託に基づくあらゆる宗教が没落しますが、仏教だけは生き残っていることが示唆されているような記述があります(p. 132)。
 さて、人類のオーバーマインドへの統合というこの小説の結末は、絶対者との合一を図る神秘主義(mysticism)という思想潮流が発想源となっていることは間違いないと思います(先ほどの引用部分にあった「神秘主義」が同じ意味で使われているかは微妙ですが)。神秘主義も「悟り」や「智慧」などがキーワードになっており、クラークの神観と符合するところがあります。この小説で絶対者に当たるのはオーバーマインドです。絶対者との合一という体験は本来個人の内面で生じるものですが、この小説では新人類全体がオーバーマインドに統合されていきます。新人類は旧来の人類からしてみれば異様な格好で瞑想のようなことをし、最後には地球を崩壊させつつオーバーマインドと合一していきますが、これは瞑想修行の末にそれまでの個我の世界が崩れて神と合一した新しい自己に目覚めるという神秘主義の過程を象徴しているのかもしれません。

オーバーマインドとは何か

 作中での最高存在であり、人類が合一した対象であるオーバーマインドとは一体何なのでしょうか。オーバーマインドについては語り手の中で最高の知力をもっているオーバーロードですらよく分かっていません。というよりむしろ、科学的な認識しかもてないオーバーロードには理解できないものとされています。そういうわけで推測していくしかないのですが、ヒントとなるものとして、オーバーロードの一人であるラシャヴェラクがテレパシーを説明するなかで次のように言っています。

あらゆる人間の心を、大海に囲まれた島のようなものだ、と想像してごらんなさい。島は一つ一つ飛び離れているように見える。しかしじっさいには、海底の岩層によって、みな一つにつながりあっている。もし海が消失したら、それは同時に島の終わりでもあります。それらはみな、一つの大陸の一部となるのです。しかし、そのとき、それぞれの独立性は失われてしまう。

pp. 320-321

 比喩的ではありますが、これは作中での超常現象の原理です。全ての人間は深層意識で繋がっていて、それを介してテレパシーなどを行なうことができるということです。僕はこの深層意識、引用した箇所で使われている語で言えば「一つの大陸」がオーバーマインドなのではないかと思っています。超常現象とオーバーマインドの間には密接な関係があり、神秘主義ではこのような一つの全体的なものが神であるとされていることがよくあるからです。
 そしてもしそうだとすると、超常現象の科学は神(オーバーマインド)の在り方に基づいていることになります。先ほど引用したクラークの神観をもう一度見てみましょう。「知識へと至る道は神へと至る道である。あるいは真実へと至る道でも何でも好きに呼べばよい」。この作品では科学(知識)と神を統一的に理解することが試みられているという解釈もできるのかもしれません。

この物語はハッピーエンドか?

 オーバーマインドに統合されるという結末は人類にとってハッピーエンドなのかということについて考えてみます。新人類は我々旧人類からすれば完全に異様でした。奇怪な能力に目覚め、個性を失い、理解不能で気味の悪い行動をしています。そして最終的に大いなる他者に吸収されてしまいます。一般的な感性からするとあまりハッピーエンドとも思えないような結末ではないでしょうか。
 カレルレンはラシャヴェラクに対して次のように言っています。

いいかね、われわれはこのことを忘れてはならんのだ――この問題では、われわれの好奇心は重要ではない。その意味では、人類の幸福というものが重要ではないのと同様だ。

p. 308

 カレルレン曰く、人類が幸福かどうかということはあまり重要ではないそうです。かと言って不幸であるとも言われていません。ジャンは人類の迎えた最後について、「楽観主義と悲観主義とをともにしりぞける結末」(p. 373)と言っています。「人生の目的は幸せになることだ」というのはよく見かける人生論ですが、この作品では幸せとか幸せではないとか、そういうことは問題ではないようです。
 また、カレルレンは次のようにも述べています(人類の存在は無駄ではなかったと言ってその理由を説明している箇所です)。

なぜならば、あなたがたがこの世にもたらしたものは、産みの親のあなたがたとはまったく相容れないだろうもの、あなたがたの欲望または願望の、一つとして分かち合うことのないであろうもの、あなたがたの成しとげた最大の業績をも、児戯に等しいナンセンスと見なすであろうもの――しかも、すばらしいものだからである。何よりも、あなたがた自身がそれを生み出したのだ。

p. 338

 新人類は旧人類とは完全に異なるものであり、全く相容れない存在です。欲望や願望も旧人類とは分かち合っていません。そうなってくると読者を含む旧人類の価値観で「これは幸せなのか」と問えるようなものではないのかもしれません。
 一方で、カレルレンは人類に対する最後の演説で、オーバーマインドと合一する人類のことを羨んでいると言っています(p. 339)。オーバーロードは科学的にしか物事を認識できないため、オーバーマインドへの進化の可能性が閉ざされているのです。
 そして全てが終わったのち、オーバーロードが母星に帰る場面で次のような記述があります。

これだけの業績がありながら、物質世界に対してこれだけの支配力をもちながら、とカレルレンは思った。わたしの種族は、わたしの全生涯をどこかの塵にまみれた荒野ですごした未開種族と、その卑小さにおいていささかも変わりはないのだ。

p. 397

 物質世界に対する支配力がいくら優れたものになっても、精神世界の最上位の存在には及ばない。オーバーマインドを除けば、作中の登場人物の中で最高の知性をもつオーバーロードは、オーバーマインドとの合一という事態を肯定的に捉えていることが分かります。

 というわけでこの小節で立てた問いの答えとしては、「一般的な感性からすれば『幸せ』ではないかもしれないが、肯定的なエンディングという意味ではハッピーエンドと言える」、という感じでしょうか。

『涼宮ハルヒの憂鬱』――終らない幼年期

 『幼年期の終り』は日本のサブカル作品にも影響を与えていると思われます。例えば90年代のアニメ界で画期的な存在となった『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」は人類がオーバーマインドに統合されるこの小説のラストに通じるものがあります。しかし僕はエヴァについてはちらっとしか見たことがないので、突っ込んだ考察をすることはできません。今回僕が話題にしたいのは、第八回スニーカー大賞で大賞を受賞し、2006年にはアニメ化されて大ヒットを記録した『涼宮ハルヒの憂鬱』です。
 『幼年期の終り』は進化が止まった宇宙生命体が人類を観察していたところ、人類のある個体に突然神秘的な能力が芽生えた、という流れでしたが、『涼宮ハルヒの憂鬱』にも同様の構図があります。「情報統合思念体」という進化が止まった宇宙生命体が人類を観察していたところ、涼宮ハルヒという少女に突然自らの願望を自由に実現する神秘的な能力が芽生えます。また、超常現象に対して肯定的なところも共通しています。『涼宮ハルヒの憂鬱』では、語り手のキョンは当初超常現象の存在に否定的でしたが、次々起こる異常な出来事を前に、次第に受け入れていくことになります。
 『涼宮ハルヒの憂鬱』のラストでは、涼宮ハルヒの嫉妬によって、人間としてはハルヒと、ハルヒが恋情を抱いているキョンのみが存在する新世界が創り出されますが、キョンがハルヒにキスをすることで新世界の創造は取り消され、二人は旧世界の日常へと戻っていきます。『幼年期の終り』と比較すると、『幼年期の終り』が、人類が常識的な価値観を越えた超越的存在になることで幼年期を終わらせたのに対し、『涼宮ハルヒの憂鬱』は新世界の創造を放棄して旧世界の日常に立ち戻り、幼年期・モラトリアムを享受することを選んだという対比が成り立ちます。
 『涼宮ハルヒの憂鬱』は学園日常系アニメ流行の走りだとも言われています。このラストは大人になることに何の希望も見出せない現代日本の世相を反映しているところがあるのかもしれません。『涼宮ハルヒの憂鬱』は大ヒットした結果、「涼宮ハルヒシリーズ」としてシリーズ化されていて、シリーズ全体としてはまだ完結していません。作者は最終的に幼年期を終わらせるのか、もし終わらせるとしたら、この人間の生き方も多様化した時代で一体どのような状態を「成熟した」と見なすのか、とても気になるところです。

終わりに

あるいはこれが、かつて多くの宗教の秘密だったのかもしれない。しかし彼らは、完全にそれを誤解していた。彼らは人類をひどく重要なものに考えていた。だがぼくらは、たんなる一種族でしかなかった。

p. 396

 「凄いものを読まされた」という読後感は地球崩壊のスペクタクルの筆致にとてつもない迫力があるというだけではなく、人類の常識的な価値観やものの見方をひっくり返すという思想的な壮大さも含めたものでした。この作品はSF小説ですが、科学だけではなく宗教思想的にも興味深い作品であり、まさに傑作だと思います。

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