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すばらしい日々《2》

パタパタとリノリウムの廊下を打つ足音が聞こえる。これはみどりの足音だ。みんなより少し速めなのに、せかせかした印象を受けないのが不思議だ。名は体を表すとはいうけれど、足音もその人の性質を表すと私は思う。足音が部屋の前で止まる。古ぼけた木戸がトントンと鳴り、返事をする間もなく開かれた。

「こんにちは、みかんだよ」

みかんを二つ、目元にあてたみどりがひょっこり顔を出した。

「なんかもっとひねったこと言いなよ」
そう言いながらも笑ってしまう。
「シンプルな方が笑えるでしょ」
みどりはかろやかにみかんを投げる。
「あげるよ。実家から送られてきたんだ」
私はそっと包みこむようにキャッチした。手元におさまった柑子色の球体を見つめる。
「みかんならこのあいだやっと消費したところだよ」

私の実家にも絶えずみかんがあった。祖父母から、親戚から、近所の人から。どこからともなくみかんはやってくる。それは実家を離れた今も一緒だった。
実家から送られてきた段ボールを横目に見る。少々の衣類と、クッキー風の栄養食、おばあちゃんの作ったおかきにポンジュース、そして小さなみかんたちがぎゅうぎゅうに詰まっていた。それが先日やっと空になったところだ。
しかしなくなったらなくなったで寂しい。昨日、いつものように段ボールを覗くともうみかんはなかった。私はなんだか恋しくなってしまい、口の中が酸っぱくなった。「失ってはじめてその大切さに気づく」なんてフレーズを聞くたび、それってみかんじゃん、と私は思う。
私は両の手におさまったまんまるなそれに親指を刺して言った。

「それにもうそろそろ帰省だよ」

みどりと出会ったあの日からもうすぐ一年が経ち、私たちはあと一か月も経たないうちに二年生になる。学年末テストを終え、寮生は皆各々の部屋で帰省の準備をしている。

「だから困ってるの。うちの親、全然私のことなんて知らないんだ。多分帰っても『帰ってくるの今日だったっけ?』なんて言うんだよ」
みどりは口をへの字にして言った。そんなことはないでしょう、と言い返すのに被せるようにみどりはしゃべりはじめる。

「そんなことより、これ見て」

ジャージのポケットからくしゃくしゃに丸まった紙を取りだした。縦横にふにゃふにゃの線がひかれたそれを注意深く眺める。それは手書きの地図だった。右端に描かれたおそらく鴨川であろうYの字で、辛うじて京都市内のものということが分かる。地図には三つ丸がついていた。

「ここのどこかでさ、民生がギターを弾いたんだ」

そう言ったみどりの目は輝いていた。
みどりが言うにはこうだ。むかしむかし、まだユニコーンが解散する前、とあるテレビ番組に民生と阿部ちゃんが全国各地を訪れてギターで弾き語るというコーナーがあった。そのコーナーで一度、京都の高校で弾き語ったことがあるという。みどりはそこへ行き、民生と同じことがしたいらしい。阿部ちゃんである私と一緒に。

「だからさ、一緒に行こうよ、くるみ。あたりはいくつかつけたから」
その高校は丸をつけた三つのうちどれかだという。
「でさ、自転車で行こう」

驚きのあまり思わず聞き返しそうになる。この距離を自転車で行くのか。私は地図を目でなぞる。
左京区の北稜高校、中京区の西都高校、鷺沢高校。三つの高校はどれも離れている。特に北稜高校は地下鉄北山駅近くにある。この寮から十キロはあるのではないだろうか。

「こんな距離自転車で行けないよ。電車使おうよ」
「だってアンドアイラブカーだよ。民生は車が好きなんだ」
「自転車と車じゃ大違いだよ」
「そんなことない。自分の足で行くところが一緒でしょ」
「説明になってないよ」
「理屈っぽいなあ、くるみは」
どこまでも民生にこだわるみどりに驚きも呆れも通り越してなんだかもう敬意を表してしまう。
「でもさ、寮の自転車を一日中借りるわけにはいかないよ。それに門限に間に合うか……」
「それは大丈夫。関さんに頼んだから」
みどりは得意げな顔で言った。

関さんはみどりのクラスメイトだ。みどりから何度もその名前を聞いたことがあるし、挨拶程度の会話も交わす。いつも三つ編みをしていて、やわらかい声からおっとりとした印象を受けるが、実際はしっかりものでさっぱりとした性格らしい。頭もいいらしくみどりはいつも名字にさんづけで呼んでいる。

ではみどりはいつも関さんと一緒にいるかといえばそうではない。合同体育でバレーをしたときは運動部の子たちと同じチームに入って綺麗なサーブを決めていたし、不定期で開催される美術部のお茶会に参加することもあるらしい。スクールカースト最上位であろうメイクバチバチの女子たちと話しているのも見たことがある。
みどりはグループに属していない。かといって仲間外れにされているわけではない。自分の居場所を自分で選べるみどりはすごい。なんだかんだ人の顔色を窺ってしまう私とは違う。
みかんに指が食い込む。その拍子に果汁が飛んで頬についた。私はぐいと手の甲で拭う。

「関さん、実家がここのすぐ近くなんだって。だから閉寮の日に荷物預けて、終わったらそのまま帰省したらいいって。自転車も近所のお姉さんが使わなくなったのが二台あるから使いなよって言ってくれたんだ」

用意周到なみどりに何も言い返すことができず、私はみかんの粒を口に放り込んだ。それは自分が知っているみかんよりも少し酸っぱい味がした。

***

閉寮の日、私たちは朝早く寮を出た。渋谷通を下り、大和大路通を北に折れ、五条大橋を渡る。松原通をずっと進んだ因幡薬師堂の近くに喫茶セキはあった。

「関さんちって、喫茶店なんだ」
「あれ、言ってなかったっけ」

とぼけた顔をしてからみどりはドアノブを押した。

「おはよう」

私たちが訪ねると関さんは笑顔で迎え入れてくれた。店員仕様なのか、髪は三つ編みではなくハーフアップにして黒いリボンでまとめている。教室でみるよりも幾分か大人っぽい。店内には朝から珈琲を嗜むおじいさんが一人いた。
一息つく間もなくこっちこっち、と店の奥に案内される。

「ここに荷物置いといたらええよ」
ホールより少し奥まったそこには、まるでシルバニアのように小さくてメルヘンチックなテーブルと椅子が一脚あるだけだった。床のタイルも表とは違う。
「ここはね、防空壕だったとこ」
私がじろじろと観察していると、関さんが教えてくれた。驚く私に説明を付け加える。
「今でもいろんなお家にあるんよ。みんなあんまり言いたがらへんけど」
そういうことをさらっと言う関さんは、たしかにさっぱりとしていて気持ちのいい子だった。

「いやあでも北稜高校までいくのん。たいした旅やなあ」
「まあね」

その旅はまだ一ミリも進んでいないというのになぜかみどりは胸を張る。胸元の赤い紐リボンが揺れた。
「それに、制服なんやね。自転車漕ぐん大変ちゃうの」
「高校に行くからね。不審者に思われないように」
制服は免罪符だとばかりにみどりは言う。
「京都は高低差があるからなあ。大変やと思うわ。まあ疲れたらいつでも帰っておいで」
まるで母親のような関さんの言葉を背に、私たちはシルバーの自転車にまたがって出発した。

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