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【短編小説】 anemone

深夜を回ってすぐ、インターホンが鳴った。

この時間の来訪者なんて思いつくのは一人しかいない。
「寝た振りでもして出るのやめようか」とか、「でも電気ついてるのバレてるし出るしかないか」とかそんなことを3秒くらい考えた後、ものすごく重い腰を上げてため息混じりに玄関に向かった。

がちゃり。と鍵を開ければやっぱりそこにいたのは想像通りの人物で。
「いやあ、ごめんごめん。先に連絡しようとは思ってたんだよ、本当に。」
「まだ何も言ってないですけど。」
「だってそういう顔してるじゃん」
ていうか寒いから早く入れて、なんてへらっと笑いながらするりと部屋に入り込んでくる。
「今は執筆活動で忙しいって言いましたよね」
「あー。そうだったね、進んでる?」
「おかげさまで。誰かさんが深夜に突撃してきて邪魔しなければの話ですけどね」
「はは、相変わらず冷たいねえ」

出迎えもそこそこに部屋に戻ろうとするわたしのうしろで、この酔っ払いはせまい玄関に座り込み、脱ぎにくそうなブーツの紐に手をかける。持っていた荷物にも気を使っていない様子でガサガサ音を立てながら「お水ちょうだーい、つめたいやつ」などとでかい声を出すので、この人は遠慮という言葉を知らないのかな、と心の中だけでつぶやいた。口に出すと面倒なことになるので、心の中だけで、だ。
そして言われたとおりコップに水を用意する。壁の薄いこのアパートでさらに騒がれるのは、出来れば回避したい。

「なんか今日は荷物多いですね。一体どこで何を拾ってきたんですか」
「あ、それ聞いちゃう?」
にへら、と笑うこの人のこういうときの顔は、いたずらを思いついた子供のように少し幼さがにじむ。
たった今まで酔っ払って座り込んでいたことを忘れてしまうほど勢いよく立ち上がった彼女は、手に抱えた紙袋から何かを取り出して、おぼつかない足取りでわたしの真正面まで寄ってきた。
「ん」と、言葉通り私の目前に差し出されたそれが、小さな花瓶にまとめられた花束だということを理解するまでに、数秒かかった。
「誕生日おめでとう、依里」

「...なんですか」
「え、第一声がそれ?女の子がお花貰うときって、普通もっと喜んだり嬉しそうにしない?」
男に貰う時はそんな反応したら相手が可哀想だから気をつけなよねえ、なんてちょっと呆れたような表情を浮かべる彼女は、わたしの反応のせいでちょっとだけ酔いが醒めたようだった。

「わたし、花とか育てられないですよ。いつもすぐ枯らしちゃうし」
「うん、知ってる。サボテンですら枯らしてたもんね」
「分かってるならなんで花を選ぶんですか」
「それ、造花だから。だから枯れないの。あなたにぴったりでしょ?」

半ば押し付けるようにしてわたしにそれを手渡した彼女はくるりと踵を返し、リビングにあるソファにダイブした。「飲みすぎたあ」と一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐに心地良さげな表情に変わったかと思うとそのまま瞳を閉じた。
「誕生日、か」
覚えていてくれたのか。
嬉しいような苦しいような、複雑な気持ちで、今のわたしはただその花を持ってその場に立ち尽くすほかなかった。
わたしの手の中のそれは、造り物とは思えないほど綺麗だった。

* * *

彼女、倫子さんは、わたしが仕事を貰っている出版会社の社員だ。
わたしの書いているジャンルの担当ではなかったから、最初は社員と立ち話をする姿や、取引相手であろう客人とのやり取りを遠巻きに見ているだけだった。
無駄のない動きと、誰に対しても平等な物言いや態度、近寄り難い雰囲気。
わたしは一目見たときから彼女に苦手意識を抱いていた。
しかし周囲の人らから向けられる目線や表情は、彼女がただ厳しいだけの人ではないということを示すには十分すぎるほどだった。

じっとりと汗をかき始めるくらいの季節に差し掛かった頃、わたしは定期的に貰っていた仕事の原稿を提出しに事務所まで足を運んでいた。
やるべきことを終えたあと、まだ帰るには暑いな、と一人ビルの裏にある喫煙所に向かって歩いた。煙草を一本吸ったからといって帰り道の蒸し暑さが変わることは無いから、これはただニコチンを補給するための大義名分だ。
喫煙所はビル同士の隙間に、灰皿と、座ったときにぎしぎし音がなる古いベンチが置いてあるだけの質素なつくりだ。
本当は建物の中に空調の効いた喫煙所があるのだが、いつでも人が多いのでわたしはしばしばこの質素な喫煙所を好んで使っていた。
それにしても日向はもう暑い。来月は郵送で書類を受け取ってもらおうか。
あれこれ考えながら深く煙を吐き出し、ビルの隙間から細長く見える青を仰いだ。
「あ」
つい声に出してしまったのは、わたしの方だった。
一瞬目を見開いた彼女は少しだけ口角を上げて
「あなたも煙草、吸うのね。」とだけ言った。
笑顔と言えるほどのものではなかったが、彼女の優しい表情を見たのは、あれが初めてだったなと今になって思う。

わたしは翌月も書類を事務所に届けに来た。そしてまた、ぎしぎし音のなるベンチに腰掛け煙草を取り出す。何故だかわたしは彼女を待った。あの苦手だと思った女性を。
2本目に火をつけた時、またベンチが鳴いた。

ぎしぎし。

「そのバニラみたいな甘い味、好きなのよね。」
「…吸ったことあるんですか」
「私が昔吸ってた煙草。」
私が吸ってた頃は別の名前だったんだけどね、と彼女もポケットから煙草を取り出し火をつけた。
その後どちらからともなく、ぽつりぽつりと会話を交わして、彼女が事務所へ戻っていくのを見送った。
煙草の火が消えるまでの間で、彼女に対する印象は大きく変化した。
わたしの脳みそは素知らぬ顔して「最初の信号は伝達ミスでした」と言わんばかりに異なる信号を発信する結果となった。あんまり役に立たない脳みそだ。

そして徐々にこの煙草の火が消えるまでという"制限時間"は無くなり、彼女はわたしを「友人」だと認識するようになったようだった。
それはわたしにとって嬉しくもあり、同時にとても残酷な現実だ。

* * *

翌朝、わたしが起き出す頃に彼女はもういなかった。
鍵は毎回玄関ポストの中から取り出す。
これはいつもどおりの流れ。

だけど今日ひとつだけ違うのは、彼女が置いていったもの。

昨夜、そのままソファで寝てしまった彼女に毛布をかけてやるため、花はキッチンにあるテーブルの上に置きっぱなしにしたままだった。
わたしはその花を見つめながら、換気扇の下で煙草に火をつけ、深く煙を吸い込んだ。

どうせなら本物の花がよかったな、と思う。
この花は私が大事にし続ける限り、いつまでも枯れることはなく永遠にそこに存在しつづける。作り物だから、本当にずっとだ。
でもわたしはサボテンですら枯らしてしまうようなガサツな女だから、本物の花ならそのうちすぐに元気が無くなって枯れてしまっていただろう。

でもそれでいい、そうしてわたしの気持ちと一緒に全部枯れ朽ちてしまったらいい。
今のところこの脳みその誤作動が直ることは無さそうだから、それならわたしは彼女の中で友人として、その記憶に残り続けたい。
もしかして、これが彼女を苦手だと思った原因だったのか?苦手ではなく、好きになってしまうことを最初から分かっていたから?
本当に役に立たないな、なんだか自分でも可笑しくなってしまう。

わたしは一生この造り物の花を大切にするだろう。見ていることも、傍に置いておくことも辛くなるだろうけど。
大切な友人から誕生日のお祝いとして貰った花だと言えば、きっと誰にもばれやしない。

来月、彼女は結婚する。
長い長いわたしの夏が、終わろうとしていた。

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