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日本人に流れるアニミズムと乾いた昔話 -myaku- Yuki Inoue x Seitaro Iki Exhibition/不破静六

友人が写真と陶芸の合同展示をやっていたので、観てきた感想をつらねる。

福岡市博多区美野島にあるギャラリー、OVERGROUNDで明日9/17(祝)まで開かれている「myaku」という名前の展示。写真家の成太郎(@seitaroiki)と陶芸家の祐希さん(@mr_inoue_yuki)が「脈」をテーマに開いている。


アニミズムの対話

巻物的写真
青写真の衝立

OVERGROUNDの無機質な空間に、祐希さんのスタイリッシュな焼き物と、成太郎のユーモアある写真が並ぶ。

会場奥に鎮座するのは、障子紙に写真が等間隔に並べられた巻物のような物体。そして、青白の巨大な写真が印刷された衝立。

巻物的に並ぶ写真は、アナログのネガフィル厶をデジタルカメラでデータ化したもの。パソコン上での一括処理の影響で、印刷面からズレてネガの枠が写りこんでおり、アナログの手触り感とデジタルの手偶然性が混在している。

青と白で鮮やかに焼き付けられた写真は、障子紙にネガを大きく引き伸ばして、サイアノタイプと呼ばれる青白の現像液で印刷された。現代的なモチーフを捉えた場面が障子の衝立に貼り合わせられ、鮮烈さと情緒とが織り交ざる。

2面で自立する衝立だが、角度によっては片面だけで不気味に自立するようにも見え、妖しい。巻物のほうも、秘術の書かれたパラパラ漫画のようで、今にも映像として動き出さんかのよう。

こうした写真と映像の境を超えんとするインスタレーションは、見る者の脳内で静と動を行ったり来たりして瞬間的な空間を現出する。架空のアニメーションとなって新たな視覚表現を創造する。このような試みは、写真と映像の間にある微妙な領域を表現し、未だ見ぬ視覚体験を提供する。

いっぽう祐希さんの作品だが、たとえ下に載せた作仙厓の哲学と現代アートが融合した、○△□の白磁の壷。3種類の幾何学模様がぎゅっと集合した様子は、子どもの頃に観たNHKの教育番組のようだ。

○△□のデザインで構成された壷

また、磁石くんのつぶらな瞳。太古の火山活動で生まれたこの磁器の原料には、大宇宙の神秘が凝縮している。うるんだ黒目が意味するのは、これからやきものとして生まれ変わらんとする期待か、それとも不安か。

磁石くん

仙厓の逸話にこんなのがある。

仙厓が、藩主か、家老の家に呼ばれた時、或る坊主が仙厓に
「一つ画をかいて戴きたいものがあるのですが」と言った。
「なんですか」
「太鼓の音と、笛の音を画にかいて戴きたいのです」
と言った。一座のものは、これにはさすがの仙厓も困ったろうと思って、仙厓の方を見た。
仙厓は相変わらず人を食ったような顔をして、
「そんなことは雑作もないことじゃ、かいて進ぜよう」
と言って、太陽の下に槍をかいて、
「それ、これでござる」
と言った。その坊主はそれを見て、
「これがどうして太鼓の音でござる」
「テンツク、テンツクでござる」
「それならどうして、笛の音でござる」
「ヒーヤリ、ヒーヤリでござる」
一同これには驚いた。

武者小路実篤1948「仙厓和尚」
1961『定本武者小路実篤選集 第5巻 (創作篇 第5)』、日本書房、p.422
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1664067 (参照 2024-09-14)

だじゃれの効いた洒脱な絵で、モノの等価性とその本質をあぶり出す仙厓の頓知には、この世のすべての存在を表現する深い意義が感じられる。

今回の2人の展示には、力の向きは違うにせよ、仙厓のようなユーモラスなアニミズムを感じた。人間でないモノに人間性を見て、それによって人間の神秘を表現する。静と動の瞬間的な空間が不思議な魅力を生み出し、深い哲学的な問いを投げかける。

乾いた昔ばなし

障子紙の衝立で空間がさえぎられる。まるで「恩返しをするから決してのぞかないで」というかの有名な昔話の一場面のように、隠れた何かをイメージさせる。見る人にソワソワとした期待感を抱かせる。障子紙の向こうに何があるのか、まるで物語の一部になったかのように、見る者はその未知の世界に引き込まれていく。

衝立

また、祐希さんの別の作品、赤い転写シールが貼られた陶磁器は、まるで「このはしわたるべからず」のトンチを思い起こさせ、そのユーモラスな要素が見る者の心をくすぐる。その赤いシールは陶磁器の脆さを示すものでありながら、現代の消費社会において逆に注意を引き、細部まで観察させる効果を生む。

われもの注意

そしてさらに、ゴツゴツとしたうつわ、サビでガサガサしたうつわは、こうした文脈で捉えると、昔話の鬼たちを想起させ、その粗野な美しさが目を引く。

昔話の鬼じみたうつわたち

祐希さんの別のアートワークは、ダンボールとプチプチの梱包材、焼き物の破片、ゴテゴテした額縁で構成され、子ども心を思い出させる。それでいて、どこか冷たく、シニカルな表情ものぞいている。

仏教哲学者の鈴木大拙はこのようなことを言っている。

いわゆる「哲人」とか「聖者」とかいうのは東洋のほうに多い。

それはなぜかというに、理窟は明白である。「哲学者」の思索は生活そのものに即せぬ。東洋では「哲理」を生きてゆこうとつとめる。「哲理」を霊性の生活面から導き出さんとつとめる。理から行に移るのでなくて、行から理を導き出さんとする。つまり、東洋では生そのものを美化する。 これをするのは、「無心」とか「無念」とかいう境地を体得しなくてはならぬ。そうしようとたくまぬ心を、まず体得して、それから、思うままに行動する。禅者〔至道無難〕の、

 生きながら死人となりてなりはてて思ひのままにするわざぞよき

ここに無心の境地がある。畢竟ずるに、「子供になれ」、「赤子の心を失うな」などいうのは、いずれもこの点を見ての話である。

大人になってからの「子供心」だから、子供時代の「子供心」と違う。その違うところに、目を著けなくてはならぬ。街道の真中で小便せよとの義ではない。

鈴木大拙1961「東洋「哲学」について」1997『東洋的な見方』、岩波書店、p.32

子供や赤子には分別はない。「頑是ない」とか、「無邪気で」とかいうのは、いずれも、この無分別の点をさすのである。大人が無分別行動をとったら、大変なことになるだろう。それなのに分別を捨てて、無心の生活に還れとは、どんな意味になるのか。

東洋の「哲学」はここから出発する。分別して分別せぬこと、「罪」の存在で、そのまま「罪のない」生活をしようという。そこに絶対の矛盾がある。この矛盾をどう処置して行くべきものか。これが論理の上の矛盾だけでなくて、日々の生活の上に、時時に刻刻に、遭遇するところのものである。神経過敏ならざるをえぬ。東洋では、「哲学」がすなわち生活なのである。

同、p.33

衝立や、「われもの注意」、額装された段ボールアートなどは、ノスタルジックな思い出を想いおこさせる。それでいて大人だから分かるような皮肉も暗に込められている。

罪を犯していて、それでいて無罪だという絶対矛盾。その只中にいる自分自身について、この展示を見ながら深く考えざるを得なかった。

暮らしと地続き

展示の企画趣旨にあるように、写真と陶芸は、作り手の日々の記憶や感覚と呼応し、自然素材を通じて自己と外界を包み込む、創造的な対話メディアである。

物を作ること。物が出来上がること。これは、作者の主体的な行動と意図によるものだけには限りません。 出会った人、見た景色、記憶、気候、食、など作者にとって膨大な情報からなる環境が常に変化することによって、それに呼応し作者も同じく変化しているともいえます。今展示会は、佐賀県有田町を拠点に活動する写真家、壱岐成太郎と陶芸家、井上祐希による2人展です。写真という自分を軸として、自分を包み込む外界である現実世界を切り抜き保存するメディアと、陶芸というその土地特有の自然素材を使い形を成すメディア。これらにより、その瞬間目の前に展示されているモノとしての作品だけではなく、制作を行なった環境やその過程、そしてこの先の変化までが発表された空間に漂う「脈」を是非感じてみてください。

展示紹介テキスト

例えば、福岡から東京に初めて現場仕事で行った時に、手回しフィルムで捉えた富士山の姿は、成太郎にとって写真の旅の始まりを象徴している。

青白のネガ富士

初めての現場仕事という緊張感と興奮が入り混じる中で、フィルムを手回ししながら撮影した富士山の姿は、その一瞬一瞬が鮮明に青白く焼き付けられている。

その高速道路から見えた富士山を、ネガポジ反転の青写真によって障子紙に印刷することで、爽やかでありながらも淫靡な表現へと変容した。

また、小田原にいたとき、友達とクラブで夜通し騒いで、明け方の海に自転車を抱えて飛び込んだという次の写真。これもまたネガ反転の青白写真で大きくプリントされていた。

人と自転車と海

経験の瞬間性と作品の永続性が交錯することで、作り手の内面と外界が一体となって見る者の眼前にせまってくる。

このような創造的な対話は、貴重な視覚体験をもたらすだけでなく、私たちの内面と外界との関係を再定義する機会を提供してくれる。

脈々と流れるもの

「脈」というテーマの今回の展示。2人が意図していたかは分からないが、日本人の心に根付いた昔語りや伝承を、陶芸と写真を通して現代的に再解釈し、新たな物語の流れを生み出そうとしているように感じた。

陶芸と写真という異なる表現手法が融合することで、過去と現在、そして未来への脈が一つの大きな物語として織りなされていたのだ。

この展示を見ていて、ダダカンこと糸井貫二の芸術も脳裏によぎった。自分の暮らしにありふれた素材に、最低限の加飾をほどこして作った初期の造形作品と、その後に続く禅的な裸体パフォーマンス。ダダイズムを体現したその生き方に、今回の展示のアニミズムと共鳴するところを感じたのだ。

初期の造形作品
黒ダライ児2010『肉体のアナーキズム』grambooks、p.420より

糸井の禅的ダダイズムと裸体のねらいは、自己の全てを投げ出して自然の舞いを獲得することにある。

また、糸井のメモには次のようなフレーズがある。

在ることこそ、ダダだ。/ダダにはほかに意味はない。/ただ詩的に、うたい手として、踊り手として、/狂った踊り手として

以上のことから推測される糸井の裸の行為の動機とは、まず、虚飾や自己主張を捨て去ったむき出しの、あるがままの自己を他者に差し出すことであり、そのような禁欲性や他者への奉仕、日常の生業のなかにも自然と生まれる「舞い」という表現への欲求である。そして、その結果として生まれる行為が、ダダにおいてそうであったように、狂的なもの、反社会的なもの、秩序紊乱にならざるをえないことを承知で、彼は禅的な自己放棄として裸になったのである。

同上、p.432

人間が生まれるずっと昔から存在していた、光と土。その2つがあってこそ、それぞれ写真と陶芸ができるのである。

そして我々人間自身も、それなしには生きていけない。

人間以外の森羅万象を敬い、自らを奉仕する。大人として生活しながら、無邪気の子ども心をつかみ取る。そうした本質的な気づきを得られた展示だった。


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