おこられそうな法然上人考
いくつか前にブッダ(釈尊)のことを書いたけれど、同時期に少しかじった法然上人についておもったことを書く。
浄土宗をひらいた法然の生涯を伝える『法然上人行状絵図』(四十八巻伝)というものがある。そのなかに諸人帰依という、彼をとりまく人々が法然の説く「専修念仏」に心を寄せ、帰依していく様子がまとめられた箇所がある。その一部を、ごく簡単に書く。
第十九巻、法然に深く帰依したという九条兼実(平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿)の妻に対し、法然が念仏を勧める場面。そこではその妻(北政所)が質問した念仏往生について、法然が返事を述べる。法然はまず往生行として念仏がすぐれているとし、その理由を「阿弥陀仏が本願に誓われた行であるから」といい、善導の『観経疏』や『無量寿経』に触れる。
同じく第十九巻、聖如房(身分の高い女性とされる)の臨終に際し、法然が送った手紙が登場する。ここでは人の生死に関し、この世が夢まぼろしであるのだからとなぐさめ、阿弥陀仏の本願を疑わず、「自分はたとえどれだけ罪深い身であろうとも」一筋に念仏を称えるたいせつさを伝えている。
第二十巻、山伏の作仏房はある日熊野権現のお告げをうけ、法然を訪ねる。そして法然から念仏往生の教えを受けるとすぐに帰依する様子が語られる。作仏房は「人間に生まれた甲斐もなく、再び悪道に帰るはずの人びとを」阿弥陀如来が熊野権現として垂迹し伝えているのだと理解し、専修念仏行者となる。
第二十六巻に語られるのは、武蔵国の御家人甘糟太郎忠綱である。かれは念仏の勤めを怠ることなき武士だったところ、学僧を軽んじ悪道に走った。法然を訪ねた忠綱は、念仏行を心得ていながらも自身は武士であり、その二つの間で念仏往生に一心になれないことを打ち明ける。
法然は答えて「阿弥陀仏の本願は、素質がよかろうが悪かろうが、称える念仏の数にかかわりなく、またその身のきよらかさにも関係なく、念仏を称えさえすれば往生できる」といい、またどのような理由によって死ぬかということも関係ないため、武家のものが戦場で戦い、討ち死にするとしても、念仏を称えたならば往生できると、その本願について詳しく教えて諭す。
武蔵国の御家人熊谷次郎直実は、武名のある人だったが、源頼朝に不満を感じ、出家した。法然に自身の疑問におもうところを尋ね、その答えに涙を流したという。御家人として仕え、過去の戦や行いにより後の世を恐ろしいものと思っていた蓮生(直実)はこれ以後、専修念仏行者として法然に仕えた。
いろいろはしょったけれど、このように法然の教えに触れた人びとが帰依していくエピソードがたくさん書かれている。これらのエピソードを追ううち、彼らに対し法然が示した専修念仏について、その教えに帰依するほどの根拠となるものが私には感じられなかった。にもかかわらず、彼らはその教えを受け、専修念仏に帰依していくことに、違和感を覚え少しいらいらした。
ここにあげたエピソードに登場する人物たちは、当時の階層からいえば上位にあって、それぞれの地位的な立場と信仰心、専修念仏に対する不安を抱えているように感じられる。人が、その人間存在をうたがう、あるいは失うような体験をしたとき、それは自己存在や生への否定につながってしまう。これに対し法然がおこなっている教えは、「ありのままでいい」という承認のようにおもえる。本来それは人に与えられるものでなく、まず自分自身に対して与えられる必要がある(と、私はおもっている)。
おそらく法然のいう「一筋に念仏を称えればいい」という言葉には、「あなた方のままでいいから」という、人間存在を肯定するメッセージが含まれていたようにも考えられる。そうであれば、その教えに帰依する人々が続くことも理解できないでもない。けれど、それは宗教家というよりも、現代でいうセラピストかヒーラーのような仕事だとおもった。
だから、帰依した人々にたいして、信仰心を発するというよりも法然のそばにいることでなんとなく気分がよくなって悩みが晴れたんじゃないかとか、そんなような印象をもった。
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法然は自らの信仰に対し、阿弥陀仏の浄土(極楽)への往生を目的とし、その方法に「専修念仏」を用いた。そしてそのような実践に至った内容は、著書『選択集』において明らかにされているとする。法然は道綽が示した教相判釈より、聖道門と浄土門それぞれを定義し、そこに曇鸞の思想をとりいれ、浄土門の修行を善導の『観経疏』によって説明する。『選択集』ではこの他に、釈尊やその他の諸仏も極楽往生への実践として称名念仏を選び取っていることなどが述べられている。
阿弥陀仏がなぜ、易行(容易な行)である称名念仏を選択したかについて、その前提に平等な救済がおかれてあると法然は考えた。人間に備わる能力や出生、職業などで区別することなく、すべての衆生を平等に扱うこととし、浄土宗を開いたとされる。この「平等思想」は、法然がその生涯で既存の価値観の体験(比叡山に学ぶ)を経て得たとされる、彼の教えの大事な精神であるといえる。これに基づいた教えが浄土宗である。
この「平等思想」は、法然が自身の内面における対話姿勢の結実として、彼の思想が成立したとされる。法然は、その思想のもとに人々に接し、教えを説き、救済をもたらしたとされている。
しかし、法然の生きた時代の貴族社会においては、最澄や空海のもたらした密教が重用されており、その背景には人生における精神的支柱を失った貴族たちの不安を除くものとして、仏教が利用されたともみることができる。貴族たちは呪術的手法による不安解消を期待した。つまり、貴族社会においては「自身の内面と向き合う」ことから意識をそらすものとして、仏教が用いられたともいえる。
法然は、民衆の中で「平等に」教えを説き、専修念仏によって救済をもたらしたとされる。先述したとおり、自身の内面との対話の結果、思想を打ち立てた法然の実績は疑うところもないけれど、法然の教えの本質ともいえる実践方法そのものでなく、自身が得た「答え(専修念仏)」を教え説いたことは、残念におもわれる。
どうしてかというと、専修念仏のみでよいとする教えもまた、「自身の内面と向き合う」ことから意識をそらすものとなった可能性が感じられるからである。
人間の能力、性別、生まれなどに差がないとする考えは、多くの社会で理想とされているけれど、実際には様々なレベルの身分差が存在しているのが現実である。
人間が平等である、というとき、その生命に関していえばその通りかもしれない。だけど、社会で扱われるときに何でもかんでもが平等でなければならないとしてしまうのは、大きな問題である。望ましいのは公平な扱いなのであって、平等性に関していうならばむしろ「平等でないことを認める」態度が必要なんじゃないだろうか。
自分がどのような能力や性別を持ち、どのような立場にいるかなどを見定め、認めたうえで、どう生きるかを設定する、それこそが釈尊や法然がとった道なのであり、得られた結果のみを教わって実践するのでは、法然の教えの価値が半減している気がする。そして、ほんとうの意味での救済につながる可能性も低くなってしまうのではないか、とおもってしまう。
法然がその生涯において、自身が救われたように人々も救いたいと願う心は尊いものである。法然が教え説いた専修念仏によって、救済を得られた人、教えの本質を見抜いた人もあったかもしれない。だけれども、苦難というものは体験を伴わない限り本当の意味での克服は難しい。
さきに法然について、宗教家であるよりセラピストのようだと表現した。こうした教えの説き方に人々を安心させる優しさを感じるのであるけれど、それのみでは根本的な救済に至らないのではないだろうか。
ブッダ(釈尊)や法然がその生命をかけて獲得した「答え」が、結論のみの教えとなってしまったかもしれない。だとしたら、実に惜しいことである。
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