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退屈だからなんだというのだ

 父のマガジン#27のなかで、私の感想としてケニー・バレルさんの演奏を「退屈」と書いたんだけど、そのことについて。

 私にとっての音楽というのは、わりと遠いところにあるというか、基本的に熱心に聴くとか新譜が出たら必ず手に取るみたいなアーティストはいないし、音楽番組を定期的にチェックするといったこともしない。学生時代からいまにかけて、きちんとお金を払って音源を購入するといったことも、あまり記憶にない。
 店(両親がやっていた喫茶店)にいれば父が愛好するジャズのレコードがかかっていたし、家に帰れば兄の好きなうるさいロック(スラッシュメタルとか)や、姉が惚れ込んでいるDREAMS COME TRUEを各自好きなように流しているとかそういうふうで、私はというと「これが好きなんだ!」という音楽を特に持たなかった。
 社会人になってから自分でCDプレイヤーを買って部屋に置いていたこともあるけれど、ある時期に必要ないなとおもって以来、部屋にプレイヤーの類はひとつもない。
 車を運転するときや、通勤なんかで乗り物を利用する場合には音楽を聴くけれど、そういうのはどちらかというとただ流しているだけとか、まわりの雑音を耳に入れないためといえそうである。

 前置きが長くなったけれど、つまり音楽に関してはほとんど何も知らない、幼稚園児みたいなものなのである。

 そんな私が、このマガジンをやろうとおもったのは、ひとつには父が聴いてきた音楽にちょっと寄り添ってみたいとおもったのがきっかけだった。というか、父が愛好し続けてきた音楽を通して、父という人間を僅かなりとも知ることができるかもしれないといったおもいがどこかにあった。
 だからこのマガジンの連載をすることも、父以外の人の知識をもらいながら、ちょっとずつ本を読んだり気になったミュージシャンの演奏を聴いてみるなどということも、ひとつの流れというか積極性みたいなものを持って続けているところである。

 いまひとつは『意味がなければスイングはない』という村上春樹氏の本を読んでいて、その中で彼はウィントン・マルサリスの退屈さについて一章を書いている。
 昨日の晩にその部分に差し掛かって、自分が書いたコメントをおもいだした。そして「退屈」という言い方をした自分があまりにも浅はかというか雑というか、そういうおもいがした。
 だいたい退屈という言葉にはネガティブなイメージがあるとおもうし、それをあんなふうに書いてしまうというのは良くなかった。実はあの記事の公開後にKさんがそっとフォローをしてくれたのだけれど、私の幼稚園児並みのアタマはそれを受けとめ損ねていたようだ。
 今朝はそんなことをぼんやり考えながら身支度をしていたら、眉がいつもより濃くなってしまった。

*

 先日、F市のバーであったライブに連れて行ってもらった。こぢんまりした店内の壁にいくつかのレコードジャケットがかかっていて、順に眺めていたら端っこにケニー・バレルさんのジャケットがあった。あ、どうもこんにちは、とおもわず目を伏せた。
 バーでのライブだけれど、まあ下戸だし私がメニューのなかから選んで注文したのはコーヒーだった。しばらくして、2、3度会ったことのある女性(オオトモさん、仮名)が見えてあいさつを交わす。私がコーヒーを飲んでいるのを見て、オオトモさんがアルコールは飲まないの? と言った。飲めないんですよ、と言ったら「ええ~! 人生の8割くらい損してるね!」と返された。・・・8割かあ。

 ウィントン・マルサリスの退屈さについて書かれた文章を読みながら、このときのことを思い出したりした。まあ、つまりオオトモさんからすると酒も飲まず(記憶をなくすほど酔っぱらったりせず)、楽器の演奏なんかもしない私の人生みたいなものは、退屈ということになるのかもしれない。
 その気もちはわからないでもない。結局私たちというのは、経験からものを言うというか、経験からしかものを言えないのだ。だから自分が「イイ」とおもうものがイイんだし、善だし、それ以外の経験していない物事というのがうまく想像できないんだろう。
 だけど実際はそうではない。私は私にとってのいい人生の過ごし方を選びとっていて、それは振り返ってみて色々あったにせよ、いまは幸せだし、おおかた満足している。退屈というのは(他のあらゆる物事と同じで)視点を定めて判断するようなものではないのだ。

 それをおもうと余計に、ケニー・バレルさんの演奏を退屈と言い放った自分が恥ずかしくなってきた。いや、退屈であること自体が悪いことではまったくなくて、だから私が退屈だと感じたならそれはそれでいいんだけれど、ただそれがどのような種類の退屈さかというところまで説明可能にしておいたほうがいいんじゃないかとおもったのだ。そうでないとあまりにも失礼な気がする。

 もう一度『’Round Midnight』を聴いてみよう。
 私は下戸というのもあって、そして愛好する音楽がなかったこともあって、一日の終りに酒類を嗜んだり、部屋を暗くして音楽に耳を傾けるということをしない。本を読むときにも進んで音楽はかけないし、寝るまえに音楽を聴きたいということもなく、どちらかと言えば静寂を好む。
 でもそうだった、こういうことを通して父を理解してみようという試みをおもいだしてみると、父とそのまわりの情景が浮かんでくる。

 (めったになかったけれど)仕事が終って遅い時間に店に向かう。店のある2階を見上げると、暗めの照明が見える。他にお客はいないようだ。階段を上がって店のドアを開けるとやはりお客はいなくて、椅子に父が腰かけている。この曲が(あるいは他の静かなジャズが)流れている。

 父の文章ももう一度読んでみよう。

FMラジオから流れてきたケニー・バレルが奏でる’Round Midnightは、エモーショナルかつソフィスティケートさを存分に味わわせてくれる音色で、聴き惚れた。それからは彼がクレジットされているアルバムを探すほどに気に入ってしまった。
このアルバムは全体的によく締っていて、深夜であってもやや大きめの音量にして、優しい音色に包まれる感覚になってしまうのです。

心癒すJazz|#27

 父はこんなとき、なにをおもっていたのだろうか。そういうことを考えだすと、自分が書いた「退屈」という言葉が暴力に近いような気さえしてくる。おもわずマガジンに書いたコメントをひっこめたくなるけれど、でも自分への戒めのためにもそれはしないでおこう。
 私が浅はかにも「退屈」と書いてしまったこの音楽がもしほんとうに退屈だったとしたら、こんなに何十年もたくさんの人たちに聴かれ続けたり、演奏し続けられるなんてことはないはずなのだ。そんなこともわからずに軽率な発言をしたりしたらいけないのだ。
 改めて聴いてみて、そしてこの音楽を含めたある情景をおもってみると、それはぜんぜん退屈ではなかった。ある時点の、どこかの誰かの人生に寄り添える音楽というのは、その誰かの人生にとっても、その音楽にとっても、たしかな幸福なのかもしれないとおもった。
 退屈さの種類の説明ができるようにしておきたいなどと言ったけれど、参りました。降参です。ごめんなさい。

*

 音楽とのかかわり方というのはいろいろだ。
 このところ、楽器を演奏する色んな人たちと会う機会があって、いままで足を踏み入れたことのないような場所に行くことも増えた。プロではなく他に仕事を持って趣味的に演奏をする人たちとも出会うわけだけれど、そういう人たちからすると私というのは異物に見えているらしいのをなんとなく感じる。
 楽器を演奏するわけでも、酒を飲むわけでも、歌うわけでも愛想がいいわけでもない私は、そのような(ライブであったりセッションのような)場所ではたしかに異物かもしれない。でも演奏ができないからといって音楽を楽しめないわけではないし、曲名を知らないからといって演奏を聴いてはいけないみたいなこともないだろう。音楽には正しい聴き方なんてものも、優劣などというものも、ないはずである。
 もしくは彼らは、同じ言語で話したいのかもしれない。同じ言語でコミュニケーションができれば、楽だし時間も手間もかからない。けれど、私の持つ音楽の言語みたいなものはとても少ない。ちょこちょこっと言葉を交わし、私がその言語を理解しない種類の人間だというのを察すると、彼らはもう興味をなくしてあっちに行ってしまう。それは別にまったくかまわないんだけれど、態度がすごくあからさまなのがけっこう可笑しい。
 私にはできない言語があって、もしくは相手にはできない言語があって、それでもコミュニケーションしたい場合に、どうにか他の方法をつかって分かり合えるということもある。それはそれで、すごくワクワクする体験ではないだろうか。

*

 こういうふうに書くと、私が父のことを慕っているというか、仲がいいんだろうとかそういうことを思われるかもしれない。でもそうではなくて、どちらかと言えば父に対してはとてもひとことでは言い尽くせない感情を抱いているし、何を考えているんだかわからない部分がすごく多い。そういう意味合いで言うと、父と私の言語というのもまたお互いに理解し合えないものであるのかもしれない。
 だからジャズをはじめとした父が愛好してきた音楽を通して、何か理解してみたいとおもうのかもしれない。

水とジンジャーエールと私のコーヒー

 音楽の言語を増やす努力をしつつ、他のいくつかの方法で伝え合う努力もしてみたいなとおもった。

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