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脈絡のない話をいくつか

 タイトルの通り、頭をめぐっているいくつかのことについて、ダラダラと書いていきます。

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 いま読んでいる本のなかで、言葉の使いかたにハッとしてため息がでた。まずは引用する。

 かつて、この島国ジャポンに最初にやってきたザビエル神父は、ここに住む人の知性と礼節を絶賛し、こここそが、イエズス会が東インド管区でもっとも力を入れて布教すべき国である、と、しきりに力説していた。
——そんなことはあるまい。
 カブラルは、ザビエル神父の礼賛が、美しい誤解にもとづくものだと思っている。

『ジパング島発見記』山本兼一

 美しい誤解。
 こういうのを目にすると、まずはその選択になんともいえない息がもれ、そしてどこかくやしいおもいがする。つまり、自分ではこれまでその言葉同士を組み合わせようなんて思いつかなかったことに、感動しつつ歯ぎしりするみたいなことである。
 「美しい」も「誤解」も、ずっと以前から知っている語だし、とくべつ難しい意味を含んでいるのでもない。ごく日常的な言葉である。でもそれを組み合わせることも、またそんな場面に出合うことも、これまでなかった。場面はあったかもしれないけれど、とにかく思いもしなかった。
 これは小説であるし、実際のフランシスコ・ザビエルの生涯においてそれがほんとうのところ「美しい誤解」であったのか、そのあたりを知る術はほとんどないと言って差し支えない。私がもつフランシスコ・ザビエルについての知識はとてもささやかだし、これまでに触れた情報から、日本を含む東洋にまでキリスト教の布教にやってきた目的の、彼にとってのいちばん重要な点がどこにあったのかといったあたりについては、情報を得るごとにわからなくなってくる。
 聖人となるに相応しい信仰篤い人物だったようにも思われることがあれば、東洋の国々に対し征服者的な面が第一義だったのかもしれないと思うようなこともある。プラハのカレル橋にあるフランシスコ・ザビエルの銅像に表される彼の様子は実に尊大で、そこにはイエズス会が掲げる清貧なんていうものは見当たらない。
 こういった、どこか謎めいたというか裏のありそうなあたりが興味をひくのかもしれない。

 ところで、この例に限らず自分以外の人の表現に心を動かされることがたまにあって、そのたびに言葉というのはつくづく不思議なものだと感じる。服や家具調度などといったものも同様だけれど、組み合わせがうまい人というのはいるものである。料理をするなども同じで、そのものごとの対するセンス、才能があるかどうかということだろう。
 本を読んだり、映像作品を観たり、人と話したり、とにかくこれは数をこなすだけ、体験をするだけ、そういったものごとの数々のセンスが身についていくんだろうな。前にも書いたけれど、『千夜一夜物語(バートン版、大場正史訳)』も言葉の使いかた、組み合わせのすさまじさといったらない。これは挙げればきりがないしいちいち覚えていられない(それくらいすごい)ので書かないけれど、いやというほど何度も頭がクラっとする。だから巻数が多く中にはお話的につまらなかったり、意味が今ひとつわからないようなものもあるけれど、読む価値というのはじゅうぶんにあります。

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 12月がやってきた。一年のうちいちばん好きな12月だ。他にも好ましい月はあるけれど、12月に入ったとたん魔法にかけられたように頭がぼおおっとなってしまう。やっぱり好き、どうあってもそうおもってしまう。
 今年の11月はあたたかく、冬がくるという気があまりしなかったけれど、おとといの雨のあと急に気温が下がって空気が明らかに違っている。12月だ。
 こんなに好きなのに、12月というのは仕事も世間もせわしくて、その過ぎ去るスピードといったら悲しくなるほど早いのがせつない。たいせつに味わいたい。
 どうしてこんなに好きなのか、これはもう宿命というしかない。好きすぎてうまく説明できないです。

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 旅の予定が入り、いそいそと仕度をしている。今年はもう遠出はないかな、とおもっていたところだったので、うきうきしつつもつい先日決まったばかりなので、ゆっくり計画する時間はあまりない。ある程度は行き当たりばったりになるかもしれないけれど、それもたのしいだろうとおもう。
 昨年は、12月のなかばに津和野を経て広島へ行った。このとき、津和野に行きたいとおもったのは乙女峠に一度行ってみたいとおもう気もちがあったからだった。それはキリシタン弾圧の歴史から知った土地であり、それ以外に歴史などについての詳細な知識を持ち合わせてはいなかった。なんとなく心惹かれ、行ってみたいというそれだけだった。
 その日はとても寒くて、しかもしとしとの雨が降っていた。乙女峠マリア聖堂のほうは、駅のむこうの細い道をすこしのぼったところ、つまり峠道にあって、城下町よりもさらに冷たい場所だった。教会堂の建つ敷地の中には、拷問に使われた池などもあり、その景色には濡れた落ち葉と雨のせいでよけいに哀しみをもよおした。
 ことしに入って、遠藤周作氏の『女の一生』という一部と二部のふたつに分かれた小説をおすすめしてもらい、読んでみると、この一部のほうに津和野への流配の様子が描かれていた。訪ねたときのことがよみがえった。
 歴史のある城下町だけれど、人気スポットみたいなことはないし(たぶん。私が訪ねたときもひっそりしていた)、わりと行ったばかりの土地と、おすすめされなければ読まなかったかもしれない小説の中とがつながるなんて、めったにあることでもないだろう。偶然のひとことで済ませられもするけれど、やっぱり不思議である。
 こんどの旅先にはなにがあるだろうか。人と同じで縁のない土地には出合わないだろうというのが私の個人的な考えである。

↑昨年の津和野のこと

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今日の「ふしぎ」:さっきフランシスコ・ザビエルを検索したら、記念日(つまり亡くなった日、聖人の日)が12月3日であった。明後日だ。このように、本を読むなどして人物を調べたところ、たまたまいわれのある日にちが近いということもけっこうある。ふしぎといえばふしぎである。


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