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今日気付いたこととその経緯

今日は別々の人に同じことを2回言われました。
正確にいうと、note内の別々の方が同じことをおっしゃっているのを2回見ました。

それは「自分の見ている世界は自分が作っているもので、その世界も自分である」という内容。
これがすごいなんかよくわかるというか、割と腑に落ちる感覚なのです。その経緯を書いてみたいと思います。

まとまりのない文章&長くなってしまったので、少しでも読みやすくなればと目次をつけておきます汗

見てるとイライラする!

昨日は私、なんだか無性にイライラしていました。(新月の影響だと思いたい。)
家の中が散らかっている状況に対して、そして母が家事をしないことに対してです。

母が専業主婦なので、暗黙の了解として母が家事を担当しているのですが、本人は家事が苦手だし嫌いで、全力で逃避しながらやっているんですね。
主にスマホで歌い手さん?の配信やゲーム実況かなんかを随時チェックしてそちらの世界に逃避しているみたいです。

その結果、台所のシンクには食器が山積みになり、洗濯した服は干さずに放置され、掃除機は一体いつかけたのかわからないような状況です。

見かねて私が手を出すと、プレッシャーを感じるのか不機嫌になったりします。
なのでプレッシャーを与えないくらいにさりげなく、家事が溜まる前に私が少しだけやっておくことは以前からよくありました。

私は洗っていない食器が山積みになっていたり、洗濯物が生乾きのままカゴに放置されシワだらけで臭くなってしまうのが耐えられないタイプです。
ここ数日は私が自分のことに集中していて「気付かれないレベルのアシスト」をすることができておらず...。昨日はシンクの惨状を見てはイライラし、放置された洗濯物を見てはイライラしていました。

夕方になって、つい母に「まだ風呂掃除終わってないの?」と嫌味を言ってしまいました。
スマホで現実逃避をしていた母は「今やろうと思ってたしいつもこれくらいの時間にやってるけど?」と返してきました。

もうこれ、「宿題やったの?」「今やろうと思ってた💢」っていう親子の会話ですよね(笑)親子逆転してますけど(笑)

ここで食器洗いは私がやろうとしたんですが、手を出したら母が機嫌を損ねる予感がしました。なので、私は部屋の壁を拭くという、大掃除でも数年に一度しかやらないようなことをしてそっちにイライラをぶつけたのでした。

この「母が家事をやらないのに手を出すと不機嫌になる問題」は私と妹の間でもよく議論になっていたものの、なかなか出口が見えませんでした。

遅れてきた反抗期

親に対して無性にイライラする感じは、もしかしたら遅れてきた反抗期なんじゃないかと壁を拭きながら考えました。

私は思春期に親に反抗した記憶はありません。
かといって親の言いなりというほどでもなかったですが、親もどちらかというと放任だったので学校に呼び出されるようなことを起こさなければ口出ししないという感じでした。

当時、自分がなぜ親に反抗しなかったのか。
いま考えてみると、幼少期に植え付けられた無力感が原因かなあと思います。
反抗しようがしまいが、親にとっては私はどうでもいい存在だと思い込んでいたのです。本当にただの思い込みで、ちゃんと親なりに大事にしてくれていたのだと今では理解しています。
反抗してもしなくても同じなら、無駄なエネルギーは使いたくない。そう思って親とは一定の距離を保っていました。

反抗するって、親に対する甘えのひとつの形なのかなあと勝手に思っています。
怒られるようなことをしてもこの人は自分を見捨てたりしないのかという試し行為だったり、親に見てもらいたいために問題を起こしたり。
当時の私からしたら、私はすでに親から見捨てられているので(笑)、甘えられなかったのです。
注目を集めるために問題を起こさなかったのは、根が真面目なんでしょうかね。
それもあるかもしれませんが、問題を起こしたら本当の本当に見捨てられる、取り返しがつかなくなると怯えていたのでしょう。無駄に想像力がたくましい。

今になってこうして反抗できるようになったということは、私自身がその時の無力感を克服しつつあるということでもあると思うのです。
そういう意味で自分自身の成長を感じ、嬉しくなりました。

感情の浄化とインナーチャイルド

最近になって、イライラしたり嫌なことがあった時は心の中で悪態をつくようになりました。
以前はそういう人を呪うような感情が自分の中にあることが許せなくて、「相手にも事情があったんだよ」と自分を無理に納得させていました。というか、納得させると見せかけて感情を抑圧していました

でも私だって人間であって、そういう感情もあってしかるべきで、そういう部分も含めて自分を認めて受け入れることこそ健全な在り方なんじゃないかと気付きました。

昨日も心の中で「ムカつく〜もうあいつとは喋りたくない」と悪態をつきまくりました。

こうした悪態は、私の場合、なんとなくインナーチャイルドの声と重なる感覚なのです。
10歳くらいの口が達者な私が、「あいつまじムカつく!」って言っているのを感じます。10歳なので、何がムカつくとか相手にどうして欲しいとかは二の次で感情を吐き出してくれます。
こうやって、抑圧せずに感じ切れば感情はそのうち消化されます。

気が済むまで吐き出してもらったら大人の私に戻って、その出来事から得る気付きについて振り返りました。

今回の件では、「相手は変えられないってめっちゃ難しいルールだなあ」ということについて思いを巡らせました。

「相手は変えられない」ってどういうことかしら

相手は変えられない。変えられるのは自分だけ。
よく聞く言葉です。

私は母に家事をこなしてほしい。私が求める水準で。
これは無理な話です。相手は変えられないのだから。

私自身は家事は好きで、というか私にとって家事は暮らしを整えることで心を整える瞑想なので、すっきりするために積極的にやっていきたいことです。

だからこの状況は、私が家事に取り組む格好の機会を与えられているのだとまず解釈しました。
そうすると「母の至らなさ」というところからフォーカスが外れ、楽しく家事をして瞑想で自分を整えるというイメージにシフトできました。

これで目下直面している私のイライラについては解消したな〜と思いつつ、頭の片隅で「状況が用意される・機会が与えられる」ことについて考えていました。
考えるというほど理性(言語)は使っていないのですが、イメージで思い描くというか...。

卵もニワトリも自分の世界

家事をしない母が先に存在しているのか、瞑想をしたい私が先にいるのか、卵が先かニワトリが先かみたいなことをイメージしていて、唐突にそれって結局どっちも私がつくった世界で起きていることじゃないかと思ったのです。

家事をしない母を「家事をしない母」として存在させているのは私です。
私がそのように認識しているという面でも、私がそのように母を存在させているという面でも。
認識と存在はどちらが先かということは“卵とニワトリ”と同様で、「どちらが先か後か」という時間軸の問題ではありません。ただ“どのように在るか”です。

最初、母に対してイライラしている自分がいました。
それが瞑想(家事)をしたい自分に変わりました。
これはいかようにも変えることができます。

私が私の世界を作り、勝手にイライラして自作自演の一人相撲をしていた。

そうやって私は世界をつくり、認識しているのですね...?となんとなく掴みかけていたところ、noteを徘徊していたら冒頭にも書いた内容に行き当たったというわけです。

自分の見ている世界は自分が作っているもので、その世界も自分である」。

完全に身体感覚として一体化するレベルまでには到達していないのですが、なんとなくのイメージと、言葉で表すとこうだよっていうのはわかりました。

まとめ

まとまりのない話になってしまい突然終わりますが、イライラした出来事から気付きを得たプロセスとして、参考になったりしますかね...?笑

自分自身の整理と、誰かの何かに役立てばと思ってアウトプットしてみました。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。


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