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【90年代小説】シトラスの暗号 end

※この作品は1990年代を舞台にしています。作品中に登場する名称、商品、価格、流行、世相、クラス編成、カリキュラム、野球部の戦績などは当時のものです。ご了承ください。
※文中 †ナンバーをふったアイテムは文末に参考画像を付けました。



1話から

Ⅶ.R.アーU.ユーO.オーKケー?!


 夏休みは何事もなく過ぎ去った。
 結局、プールへ行く相手は見つからなかったので、今年もわたしのワードローブに水着が加わることはなく、日焼けもしないままで9月になってしまった。
 毎度のことだからもう慣れたけど。「今年こそは」なんて思うほど、あさましい女じゃないのよ、わたしは。
 初世とは、あれから会ってない。あの朝、マンションを出た後で何度か彼女のPHSを呼んでみたけど、電源が切ってあるらしくつながらないままだった。相当濃い1日を、過ごしていたんじゃないかしら。
 それならそれで構わない。第一、あの時の話になれば、困るのはわたしの方なんだから。
 だって、BMW に乗った男のことを訊かれたら、なんて答えればいいのよ。
 もしも「うちの学校の先生だ」なんて言ったら、もう大変よ! 口の軽い彼女のことだから、たちまち「清香は学校の先生とやってる」なんて噂が広まっちゃう。
 他人ひとの迷惑なんてまるで考えないんだから、初世は。
 占いにだって書いてあった。『7月と9月は他人から身に覚えもない噂をたてられたり誤解されやすい非常に危険な季節です』って。当たってるじゃないの。
『何を言われても微笑みを絶やしてはいけません。笑いを失った時、奈落が待っています』
 スマイル、スマイル。気を付けなくちゃ。


「卵は良く溶きほぐして、少しずつ加えてくださいね。いいですか、少しずつですよ」
 家庭科担当の塚本†68ッチー晴江が、オペラ歌手みたいな声を張り上げて説明している。ミドルネームの由来はもちろん、某野球監督の奥方だ。
「少しずつって、どれくらい?」
 佐智子にお伺いを立てる。
「1モルくらいじゃない?」
 全然答えになってない。
 モルと言うのは、化学の授業に出てくる分子量の単位だ。仲間内でちょっとした流行語になっている。
「清香ちゃんて、ほんとお料理のセンスないわねえ」
 木曜日の3、4限は、2時間続きの家庭科。本日の課題はクッキー作り。
 いつもはサッチーの話なんてまるで聞いてない連中が、今日に限っては目をらんらんと輝かせて、小麦粉のかたまりと格闘している。
 どうしてかって? そんなの決まってるじゃない。「うまくできたら○○くんにあげよう」ってやつよ。
 佐智子はもちろん、織田先生に食べさせるつもりで、ハートの抜き型ばかりいくつも並べている。
 彼女は料理が得意な方らしい。天ぷらなんかもできるって話だ。
 わたしは家庭科は苦手。あんなもの、化学の実験と同じように、材料混ぜて本に書いてある通りにやればできるはずなのに、どういうわけか、ちっともうまくいかない。
 佐智子の言う通り、センスがないのかもしれない。
 そもそも、21世紀のキャリアウーマン(死語)を目指すこのわたしが、なんで今さらマフラー編んだり茶碗蒸し作ったりしなきゃならないの。
 実習の内容だって、もうちょっと考えてくれたらいいのに。
 どうせテストが終われば忘れちゃうんだから、今から老人食やら幼児食やら勉強するより、〈1週間で1キロ痩せるダイエット弁当〉の方が、みんな喜ぶと思うのに。〈便秘が治ってお肌ツルツルのヘルシーメニュー〉もイケてるかも。
 大体、男女雇用機会均等法が施行されているこのご時世に、いまだに女子だけに家庭科をやらせて、男子は体育をやってるっていうのが、納得いかないわ。
 もっとも、男子と一緒に週6単位体育をやれって言われたら、わたしはイヤだけど。
 ぶつぶつ言いながら、ボールの中身をこね回していたら、佐智子に怒られた。
「混ぜる時はさっくりとって言ったじゃない。もう、シュージにまずいって言われたら、清香ちゃんのせいだからね」
 ムカッ。おっと、怒っちゃいけない。スマイル、スマイル。
 今日も教室は汗臭いんだろうなあ。お弁当は美奈たちのクラスで食べようかしら。


「清香先輩、ちょっといい?」
 同じ中学出身で、1学年下の百合が訪ねてきたのは、採点用に提出した残りのクッキーと缶紅茶で、食後のお茶会を開いていた時だった。
 モデルみたいに背が高い彼女の後ろには、それよりさらに背の高い、よく日焼けした男の子が立っていて、教室の中を覗いていた。


 その夜、わたしは織田先生に2度目の電話をかけた。
「はい、織田です」
「こんばんは、水木です」
「本日の営業は、全て終了いたしました。またのご利用をお待ち申し上げます。じゃ、そういうことで」
「ちょっと先生、バカなこと言ってないで」
「バカとか言わないで、傷付いちゃうから。アホにしてくれる?」
「バカじゃないの」
「ひどっ!」
 この人と話してると、ムダに疲れるのは気のせい?
「そうそう、今日の実験どうだった? わかった?」
 今日の授業で、先生は木材と下敷と分度器を使って、摩擦係数の測定をさせた。
「大丈夫。わたしはわかったよ。簡単で面白かったし」
「そもそもあれって、三角関数わかってないと計算できないんだよなー。実験は簡単でも、数学できないやつらは問題外だよね」
 これが理系負の連鎖。
「物理の平均点が低い原因は、この辺にあるんじゃない?」
「君、天才だな」
「アホとは違うんですよ、アホとは」
「今度わからないことあったら、水木先生に教えてもらおーっと」
 ……頼りない。
「ねえ、クッキー食べた?」
「クッキーって、あの嶋崎さんが持ってきたやつ? 一応は食べたけど」
「おいしかった?」
「斬新な食感て言うか……。あ、でも俺甘いもの好きじゃないから、よくわかんない」
 歯切れが悪い。
「あれ、わたしも一緒に作ったの」
「あ……、どうりで……」
「どうりで、何?」
「いや、なんでもないです。ところで何? もうお願いは聞かないよ? 次は君の命をいただかなきゃいけなくなる」
 やはり悪魔か。
「恋愛相談、ていうのはダメ?」
「僕は18歳未満お断りです」
「先生のことじゃないから!」
「えー、やっとちゃんと告白してくれるのかと思ったのにー。つまんなーい。何よ、話してみなさいよ。聞いてやるわ」
 なぜそこでオネエになる?
「今日ね、後輩に男の子紹介されたの。良かったら付き合ってみない? って言われたんだけど」
「『まずはお友達から』ってやつ? 『ごめんなさい』したいの? 背が低いとか、顔が悪いとか?」
「顔は普通。カッコイイよりはかわいいタイプ。背は先生より高いよ」
「俺より高い!? 77あるんだけど?」
「85だって。サッカー部でキーパーやってるんだ。堂本くんて言うの」
「あらそう。いいわね85センチ」
「わたしと並ぶと身長差すごいんだけどね」
「そうよねー。アタシくらいがちょうどいいわよねー。じゃ何? 頭悪いの? 性格悪いの?」
「頭は、まあ普通みたい。性格はバッチリだって。それだけは後輩が保証するって」
「じゃ何が問題なんだよ」
「それがね、その子2年生なのよ。後輩の紹介だから、当然なんだけどね。でもわたし、年下って、どうも苦手で。なんか、ガキんちょって感じするじゃない?」
「君ほどじゃないと思いますよ」
「え?」
「ほら、くまちゃんと寝てるでしょ?」
「パジャマもくまちゃん柄なの」
「はあ」
「後ねえ……」
「まだあるの?」
「うん。占いに書いてあったの。『9月に出会った男は獣です』って」
「占い……」
 ため息が聞こえた。
「男なんて、みんなケダモノだよ」
「うそお!」
「本当です。俺以外は全員」
「ひどい! 堂本くんは違うもん!」
「じゃあ付き合ってみればいいでしょ。人生は常にトライ&エラーだ。占いなんて非科学的なものよりも、物理の先生の言うことを信じなさい」
「エラーだったらどうするの?」
「付き合ったけどうまくいかなかったなんて、当たり前にあるだろ。たとえ傷付いても、それも大事な人生経験だよ。怖がってるだけじゃ前に進めない」
「そっか。当たって砕けろ?」
「いや、砕けない方がいい。君、相当アグレッシブだから。あと、わがままは控えてね。嫌われるよ」
「えー、先生はわたしのこと嫌いになった?」
「いや、俺は心が広いから大丈夫」
「じゃあ、わたしのこと、好き?」
「そりゃもう。かわいい教え子ですから」
「んー、でもねえ、わたし、25歳以上はお断りなの」
「はあ!?」
「ゴメンネ」
「いや、ちょっと、待ってもらえる? そういうんじゃないし、それヤバいからちょっと!」
 まだ何か言いたそうだったけど、長くなりそうだから、
「わたし、堂本くんに電話しなきゃ。またね、先生。オヤスミ」
 一方的に通話を終了させちゃった。
 今日もわたしの勝ち!

 勉強机の引出しから、学校帰りに輸入雑貨屋で買ってきたコロンを取り出した。4711。
 あれ以来、このコロンがわたしのスペシャルアイテムになっていた。HPはもちろん、MPだって全回復しちゃう、魔法の水。ラスボス攻略には必需品よ。
 わたしはまだ、何も許容できてないと思う。自分のことすら、許せないことがある。
 大嫌いなこの世界。でも、わたしも、大好きなあの人も、この世界の一部なんだ。
 それならいつかは、わたしを取り巻くこの世界全部を、愛せるようになるかもしれない。
 いつかきっと、わたしがもっと大人になったら。
 わたしはコロンを左手首に吹き付けて、みずみずしいその香りを確かめると、今日PHSに登録したばかりの電話番号を呼び出した。



野村沙知代。元プロ野球監督野村克也の妻


※作品中の占いはすべて、PHP研究所発行のPHPスーパーワイド『大開運’97後半』によるものです。

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