自分と他人を超える=自分も他人も無い
こちらの記事は、
・"意義"の追求が自滅を招く話
・真面目に楽しむドイツ人
・※真面目に楽しむドイツ人の補足
・プロテスタンティズムから離脱したいアメリカ
・意味とは
の続きです。
一応、『"意義"の追求が自滅を招く話』からスタートした”意味”・”意義”の話はこれで一旦、完結になります。
”意味”と”意義”について書く中で、改めて思ったことは『言葉』というものの魔力というか、力を感じたことでしょうか。
実際は、言葉に力があるのではなく、言葉をどうやって認識しているのか?という部分に力があります。
更に言うならば、自分自身がそうした力(バイアス)をかけていると言えます。
コーチング理論で言えば、自分の重要性によって言葉自体の使い方や読み方も、限定したり、応用させたりと、ある意味で自分勝手に使っていると言えます。
現代は、”意味”も”意義”も何となく使えば、ほとんど似たように使っていると思います。
「それやる意味ある?」という場合は、ビジネスの場合であれば「コストをかける必要がある?」ということになります。
他にも、趣味を楽しんでいることに対して向けられた場合は、「ただの浪費じゃない?」と、言われている事と同じだといます。
でも、実際はどちらも意味を問うのでなく、意義を問いかけていることを紹介してきました。
ビジネスにしても趣味にして意味を問う場合は、「どんな満足が得られるの?」となるでしょう。
しかし、その相手の満足度合いを聞いたとしても、聞いた人にとっては意義はありません(なるほどね、という感想だけが残ります)。
突き詰めていけば、あらゆるものに意味はある(あろうとできる)が、意義は限定された系の中でしか存在しないということが分かってくると思います。
大切なことは、人は意義だけでは存在できず、絶えず意味を持たせようとする存在だということです。
自分も他人も無い
”意味”は他人には評価ができません。
共感したり批判したりはできますが、その人の尺度ですから、正しい評価はできません。
一方で、”意義”については相手の尺度が存在すれば、相手にも評価ができます。
しかし、相手から”意義”を評価されたとして、それについて自分ができることは、相手にとってより”意義”深いものに改善する事と、そのことの意味付けをすることだけです。
何が言いたいのかと言うと、人が意味付けをする理由について知ることで、自分と他人という境界を超えることができるということです。
では、なぜ人は意味付けをするのでしょうか?
振り返りをするためでしょうか?
実は、意味付けをする理由は、意味を超えた先に「何もない」が待っているからです。
意味というのは、これまで書いてきたように、自分がどう感じたか?というこです。
喜怒哀楽で表せる言葉の先に、快・不快があり、それ以上にはなりません。
なぜならば、快・不快の先に意味を持たせることはできず、その存在を示すには意義が必要になるからです。
しかし、意味に意義を持たせることはできません。
その理由は、意味は人の数だけ存在するからです。
例えるなら、リンゴに対してリンゴの意義(価値や値段)は決定できますが、意味は食べる人・見る人など関わる人の数だけ存在するので、固定的な意味を付与することができません。
言うならば無限の解釈ができるので、ある人にとっては意味はあっても、ある人にとっては、意味が無いということになります。
そうなると、結局「どっちでもいいじゃん」となってしまいます。
いずれにしても、そもそも意味自体は意味を感じる存在があって、その意味を味わうから機能するのであって、どっちでもいいじゃんなってしまうのであれば、それは意味が不要なものであるということになります。
これが先ほどの『意味付けをする理由は、意味を超えた先に「何もない」が待っているから』ということです。
ちなみにこれを仏教的に言うと『空』です。
つまり、(意味が)有ると(意味が)無いが同時に存在した状態です。
Aさんがある出来後に意味を持たせる。
同時に同じ出来後にBさんも意味を持たせる。
解釈はそれぞれなので、確定的な意味は存在しません。
Cさん、Dさん、etcさんと続き、存在する人の数だけ意味が出来上がります。
一つの出来事に無限の意味が生まれる。
これが空想上の話のようですが、物理学的にはシュレーディンガーの猫に相当するといえます。
無限の意味が存在できるということは、自分と限りなく等しい人物も存在することになります。
しかし、与える意味は限りなく等しいですが、異なる意味として存在します。AさんとA'さん程度の違いでしょう。
言葉というレベルで見た場合は、文字上は同じだけれども、それを語る背景が微妙に違うという感じです。
つまり、自分と他人は決定的に違うがどこまでも連続している存在になります。
重要性によって解釈することがほんのわずかに違うだけですが、その実、ほとんど同じとも言えますし、全く違うとも言えます。
一人一人の重要性の違いでしかありません。
この一人一人に重要性があること、重要性を持たせていることを、仮に観るということで、仏教では『仮観』といいます。
自分と他人を超える
意味の先には何もないこと=『空』であり、空観と言い、何も意味のないものに『仮』の重要性を持たせることを仮観と言います。
空であると知り、仮の役割を持たせてバランスを取って観ることを『中観』といいます。
楽しいことでも、辛いことでも、その出来事を都合よく解釈すること=より良く生きる為には、中観の視点を持つことがポイントになります。
楽しければ深く意味を持たせて、「また体験したいな」というゴール設定をしたり(中観)、「ほかの人にもこの楽しい体験してもらおう」というゴールを設定すれば意義が生まれます(仮観)。
辛い出来事であれば、その出来事に意味を持たせても良いし、持たせなくてもどちらでもOKとする(空観)。
誰かの役に立つなら、その辛い出来後をシェアして同じことが起こらないようにしようとする(仮観)。
意味を持たない出来事(空)に意味を持たせようというゴールが生まれる(仮)ことができますが、それをどうするのか?どうしたいのか?と選択できる視点を中観といいます。
このように、空観・仮観・中観を自分がより良く生きる為に使うことができます。
では、自分勝手にご都合主義でいけばよいのか?というと、そうではありません。
他人という存在を無視するならば、それはすべては『空』であるというただの空観です。
自分と他人は連続している存在であり、同じようでもあり、別の存在でもある、有るようで無いということを正しく見れば、他人はどうなっても良いと考えること=自分のこともどうなっても良いと考えているということになります。
なぜなら、自分も他人も連続しているということは、関係し合って存在しているからです。
さて、なぜここで仏教の用語を持ち出し方といえば、これほどシンプルに的確に表している言葉を知らないからです。
”意義”と”意味”の言葉を理解するだけでは、文字通り意味がありません。
言葉を駆使して、正しく使おうとしても、言葉の解釈が無限にある以上、意義を深めることには限界があります。
意義を深めていこうとすることに執着するとどうなるかという典型として、差別やヘイト運動、左右の思想による争いに発展する可能性があります。
執着するのではなく、自分のゴールに対して有効に使うことが大切であり、自分のゴール影響が他人に及びその他人の影響が自分に及んでいることを知ることで、初めて自分にも他人にも有効な選択ができることになります。
長々と書いてきましたが、結論はシンプルです。
自分と他人のゴールの達成に必要な分だけ力を注ぐということでしょうか。
このほど良い感じに一旦たどりつけば、極端に尖がってみることもできるでしょう。
”意義”と”意味”という言葉をどう使うか?という視点は、このほど良さを伝えるのに適しているなぁと思って書きました。
最後に、これをビジネスにあてはめた上で、昨日紹介したジェイ・エイブラハムの『ハイパワーマーケティング』を読んでみると、なんて当たり前なことが書いてあるんだと思うでしょう。
でも、その『なんて当たり前なんだ』の前に、現代はテクニックを使って意義(売り上げや顧客獲得など)を深めようとするから難しいと思ってしまうんだと思います。
『なんて当たり前なんだ』で十分である、という視点に立ってみると、意外なほどゴールが近くにあることが分かると思います。
まずは現代は複雑な状況にあると思いがちですが、根っこはシンプルなのだと意識するだけでも全然違うかもしれません。
長々となりましたが、以上です。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
P.S.
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