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※真面目に楽しむドイツ人の補足

さて、前回は『真面目に楽しむドイツ人』と題して、”意味”と”意義”のバランスの重要性について書きました。

日本とドイツという国民性の似ている部分が家父長制という家族構造にあることをエマニュエル・トッドさんの著書を紹介して解説してみました。

一点、お伝えし忘れたのが、家父長制による家族構造を持つことがなぜ、意義の追求をする国民性に通じているのか?という点についての自分の考えです。

家父長制度の歴史を調べたことが無いのですが、簡単に言えばお父さんが絶対という構造です。

今でこそ、母は強し!という感じや、サラリーマン川柳に見られるようにパパたちの存在の希薄さを笑いと共に嘆く風潮がありますが、昔は亭主関白という言葉があるようにお父さんの存在は大きかったと言えます。

では、そのような環境の中では何が問われるかと言えば、小さい頃からお父さんの役に立つことが第一優先という環境で物事を選択することになると考えられます。

つまり、泉谷さんの頭と心・体の話で言うと、自分の心・身体が喜ぶかどうかではなく、頭(=理性)、この場合で言えばお父さんの役に立つかどうかで心・身体を押さえつけるわけです。

より合理的に効率的になるように、工夫をこらす基準が自分の喜びにあるわけではなく、お父さんのために存在することになります。

ひいてはお父さんのためとは、家族のためでもあり、お父さんの社会的ヒエラルキーが高い場合によっては、地域や社会のためというように、自分の貢献が大きなものの役に立つという点で喜びはあるかもしれません。

他人の役に立つことが幸福であるというのは、とても抽象度が高い動機だと言えます。

しかし、それは本来、役に立つから喜ぶというレベルではなく、役に立かも分からないことで喜べることであることが前提と言って良いほど、重要になってきます。

つまり、自分の行い自体そのものがまず嬉しいということ(自分にとって意味あること)であり、それが何らかの形で誰かの役に立った(意義)というのであれば”意味”と”意義”のバランスが取れていると言えます。

しかし、お父さんの役に立つ(意義)ばかりでは、どこかで意義の追求が進み、いつしか自滅に至るというのは前々回でも書いたと思います。

なぜここまで”意味”を問うのかと言えば、意味が問われない状態になり、効率的であることが正義!のようになってしまうと、自分や他人の痛みよりも仕組みが大切ということに繋がるからです。

これって、まさに宗教的洗脳によるテロリズムの構造と近いと言えませんか?

自分が暴力をふるわれたら「痛い」、「悲しい」、「怒り」という感情が出てくることは当然の反応です。

しかし、”意義”が重視されて、”意味”の存在が自分にとって曖昧になるということは、感情のレベルが低下していきます。

つまり自分の感情よりも意義(=仕組み・システム)が大切だと思うようになるということです。

ここに更に「この世では苦しくても来世では良いことがありますよ」という、論理が入ってきて、それを信じてしまう人が誕生すれば、あとはその人をいかようにでも”使う”ことができます。

自分の幸せを他人が勝手に決めてしまうということです。

人の幸せが自分にとっての幸せという考え方はとても大切です。

しかし、そこには必ず自分の感情というものがあってこそです。

「人の幸せが自分の幸せ」という意義は、一見すれば素晴らしいのですが、あくまで自分の感情によるものが出発点になければ、意義を追求する結果になります。

自分の幸せがつまり、頭(=理性)よりも心・身体が正しく反応できるのであれば、意義を追求していても、自分の中の感情とそぐわなければ、いくら効率的でも意義ある選択をしないというブレーキの役割を果たすことができるでしょう。

最後になりますが、”意味”と”意義”のバランスを保つことは、自分自身が何をしたいのかを見定めることにつながります。

コーチングにおいて重要な自分が「~したい」という事をゴールにするためには、感情の部分として「~したい」と思う必要があります。

「~したい」が自分の本音ではない場合、ゴールに向かうエネルギーがわきません。

意義を基準にしてゴール設定をした場合、「なんとしても達成したい」とは思うことができないため、途中で創造的回避(クリエイティブ・アボイダンス)によりゴール達成ができなくなります。

その逆に心から「達成したい」ということであれば、自分がどんな状況であっても必ずゴールを達成することができます。

そういう意味でもマインドの使い方を学べるコーチングでも、”意味”と”意義”を正しく理解できると良いと思います。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

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