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好きだよ、ナッちゃん

 冬の柔らかな日差しがそそぐ砂利交じりのアスファルトのプラットフォームの上をぼくは今歩いている。東京で暮らし始めていたから、高校に通うために使っていたこの駅に来るのは本当に久しぶりだけど、そのころにそうだったみたいにプラットフォームの一番奥の、列車の最後尾の車両の停車位置に立つ。そこには薄いトタンの屋根はない。だから雨の降る日には傘をさしてそこまで歩いた。きっかけは些細なことだ、車掌室越しに曲がりくねる列車道が見える。山がちなところだったから何度もトンネルをくぐるし、ちょっとした傾斜を避けて何度もくねる。走ってきた道はすぐに見通せなくなる。それが何だか面白かった。けれどずっと乗っていると、さすがに毎日それを眺めるわけではない。

 高校二年の秋にそのまちに引っ越した。だから学校には山の反対まで列車で迂回していかなければならなくなった。ナッちゃんに会ったのはその車両の中だった。一年のころには同じクラスだったけれど、ほとんど話したことはない。おとなしい感じの子だった。ナッちゃんは海に面した座席に腰掛けていた。風が冷たくなってきていたからマフラーを巻いていて、それで軽く浮きあがった髪に陽が射して茶色く透けていた。黒縁の眼鏡越しの視線は制服のスカートの裾のある膝のあたりに注がれていて、そこには文庫本が開かれている。列車は動き出して、ぼくは手摺に寄りかかりながらそちらのほうを見ていた。文庫本の背が見えて、遠藤周作の『深い河』だった。列車が長いトンネルを抜けて途中の停車駅に着くと人が動いた。ナッちゃんの隣が空いたからそこに座った。それで「遠藤周作、すきなの?」と聞くと、ナッちゃんはびっくりして顔を挙げて、まんまるな目でぼくを見て、それから軽く微笑んで「これ、難しいね」と言った。

 それからナッちゃんと行き帰りの列車の中や、それを待つプラットフォームでよく好きな本のことを話すようになった。「だれが好きなの」と聞くと三島由紀夫とか山崎豊子とか、なんだか難しそうなのばかり読んでいて、それでぼくもなんとなく格好つけて、大変に読んだ。クラスはずっと違ったから学校では話さない。それでもナッちゃんと同じクラスの友達のケイタと話をしにその教室に行ったとき、自分の席で本を読んでいたり女友達と話したりしているナッちゃんは気づいてこっちに視線を送り、にっこり微笑んでくれた。

 ずっと話していると、ときどきお互いに黙ってしまうときがある。別にそれが気まずいわけでもなかった。二人とも少し帰りの列車を待つ、小高いところにある駅のプラットフォームから夕日の沈むまちを眺めていた。そのとき、ピィーと遠くから警笛聞こえた。貨物列車が地面を揺らしながらやって来る。貨物列車はこの小さな駅を通り抜けてどこかのまちへと荷物を運んでゆくのだ。ナッちゃんは「貨物列車ってなんだかこわいんだよね」とつぶやいた。「なんかスーッと知らないうちに、飛び込んじゃうんじゃないかって感じがするんだよね」といって笑った。その笑顔につられて、なにそれ、と笑うけれど、少しわかるような気もした。ぼくもたかい展望台なんかにのぼったとき、自分がふーっと手摺から身を乗り出して、落っこちちゃうんじゃないかってたまに思う。もしかしたら、もっと真面目な感じに返事をするべきだったのかもしれない。

 貨物列車は猛スピードで駅を通り抜けていく。冷たい空気が顔を打ち、息もつけないくらいに感じる。プラットフォームへ下りる階段のそばの、3人の男子学生は、ただでさえ大きかった声をさらに張り上げてしおしゃべりを続けた。ぼくはまちと夕日のほうを見つめながら小さく「ナッちゃんはかわいいね」とつぶやいた。長かった貨物列車が通り抜けた。ナッちゃんのほうをみると、列車で初めてあったときのように目を丸くして、それからものといたげにぼくの眼をのぞき込んだまま黙り込んでいる。ただ風がそんなふうに聞こえたのか、それともこの人がそうつぶやいたのか。ナッちゃんはそれがつきとめられず、そわそわして、口を隠したマフラー越しの頬は真っ赤になってかわいらしかった。それからナッちゃんが薄明かりの空を見上げて、「また貨物列車、こないかなぁ」とわざとらしく言うのをぼくは黙って聞いていた。その日は次の貨物列車が来る前に、ぼくたちの乗る列車が駅に着いた。

 それからナッちゃんは「貨物列車がすきだ」というようになった。警笛がきこえて、遠くのまちに向かって進んでいく少しさびたコンテナを乗せた列車。「なんだか旅をしたくならない?」と言って笑う。「ケルアックでも読んだの?」と答えてぼくも笑った。少なくとも僕の知る限りナッちゃんはケルアックが好きなタイプじゃない。けれど次の日の朝にぼくが列車に乗り込むのをチラリと見ると、ナッちゃんがわざとらしく伸びをして本を持ち上げると、ケルアックの『オン・ザ・ロード』だったのでぼくは思わず笑ってしまった。

 月日は四季の移り変わりだけを示しながら、なんの変化もなく過ぎていった。プラットフォームに着くと二人は本の話をする。そしてしばらくすると二人とも押し黙り、何かを待ちわびるみたいになった。貨物列車が通り過ぎるたび、ぼくはその音に紛れて「ナッちゃんはかわいいね」といい、ナッちゃんはそれを恥ずかしそうに下を向きながら聞いていた。とうとう高校の卒業の日がきた。ひとしきり友達との別れを悲しみあって、写真を撮ったりすると、みんな卒業式を見に来た家族の車で帰って行ったけれど、二人は示し合わせたみたいに駅のプラットフォームに立った。「今までありがとね」と俯きながらナッちゃんは言う。「ぼくも楽しかったよ」と答えると、ナッちゃんは黙ったまま、ぼくがさらに何かを言うのを待つみたいに僕の目を覗き込んだ。そのまま、しばらくの間、ゆっくりと沈黙の時間がそこで流れる。まちの方から遠くの山へと飛んでいくカラスの喧しい声が聞こえる。そうだ、そこにあの大きな警笛が鳴り、貨物列車が駅に入り込んできた。ぼくはナッちゃんの方を向いてから、ほんとうにほんとうに小さく「好きだよ、ナッちゃん」とつぶやいた。するとナッちゃんの顔は真っ赤になってしまって、ぼくはそれがたまらなくかわいらしいと思った。そのまま貨物列車は二人のいる駅を通過して、どこともしれないまちへと走っていった。

 それからもう随分と経った。あの頃と変わらないプラットフォームに、トンネルを抜けてきた列車が入ってきて、ドアが開いた。ぼくはそれに乗り込む。すでに人がたくさんで、ナッちゃんのいつも座っていた座席には、あの頃の僕のような黒い学生服に身を包んだ男の子が浅く腰掛けて、前屈みになって参考書を読んでいる。ぼくはあの頃のように手摺りに寄りかかって立った。ナッちゃんがどこの大学に行って、今はどこで暮らしているのかは知らない。二人ともそう言う会話はなかった。だからもしかしたらナッちゃんと会うことはもう無いのかもしれない。

 列車はゆっくりとスピードを上げながら走りだした。ぼくはこうしてあの日々と同じ列車に乗っているとなぜだか、ぼくたちはまた会えるだろう、という感じが不思議と少しずつしてくる。あの日と同じ座席に座って本を読み、ぼくが乗り込むとすぐそれで気づいて顔をあげてこちらへ微笑みかけるナッちゃんに。ナッちゃん、君は今どこでどうしているのかな?ナッちゃん?

アントン・チェーホフの麗しい小品「いたずら」をオマージュして書いた短編です。沼野充義訳『新訳チェーホフ短編集』松下裕訳『子どもたち・曠野』などに収められた作品です。あの人間への優しいまなざしに溢れた作品をうまく真似できたかどうかはずいぶん怪しいですが、チェーホフ的短編の実践として読んでいただき、興味があればチェーホフのもとの作品も手に取っていただければ幸いです。

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