現代の問題としてのアイヌ問題
アイヌとは北海道や樺太などのオホーツク地域一帯に暮らす先住民族だ。北海道アイヌ生活実態調査によれば2017年現在で13118人、北海道人口の0.244%をアイヌが占めている。しかしこれはあくまで北海道内の数字であり、実際にはもう少し多いと考えられるものの、彼らの人口は年々減少傾向にある。彼らはユーカラと呼ばれる口承文芸やウポポ(座り歌)、リムセ(踊り歌)、入れ墨などの独自の文化を有し、アイヌ語という文字を持たない独自の言語を話す民族だ。こうしたアイヌの文化は、ゴールデンカムイなどを通して近年広く受容されるようになってきており、その素晴らしい文化を後世にも伝えていかなければならないという意識が醸成されつつあるだろう。
その一方で、アイヌとの間の問題はあくまで近代史の中の一幕であり、過去のものであるという認識が一般的にあるというふうにも感じる。私自身多少そういう意識を持っていたのは否めない。しかしそうではないのだ。アイヌ問題とは現在進行形の問題であり、今後解決を目指していかなければならない問題なのだ。それにはETV特集などで放映された遺骨返還の問題もあるが、ここではもっと全般的な問題について論じたい。つまり、あまり知られていないアイヌ差別と経済格差の問題である。
以下ではアイヌの歴史について概観したのちに、そうしたアイヌの抱える問題について焦点を当てていきたい。
前近代のアイヌと和人
これからアイヌの歴史について振り返っていこうと思うが、これまでアイヌがたどってきた歴史は大まかに三つの時期に分けられる。第一にアイヌ社会の成立から江戸時代中期まで、第二に幕末から戦後まで、そして第三に1980年頃の国際的な少数民族・先住民族への関心の高まりに伴う、アイヌ文化の見直しの時期である。まず第一の時期についてまとめようと思うが、正直言ってここの節は読み飛ばしていただいても構わない。もちろん重大な問題のある時期ではあるが、この時期のアイヌの問題は現代におけるアイヌ問題との関連性は薄い。日本史の教科書でも読んでいただければすぐにわかるような内容だ。あらかじめそう断った上で江戸時代中期までのアイヌの歴史を振り返ってみよう。
旧石器時代、縄文時代、続縄文時代、一部の地域ではオホーツク文化期、そして、擦文時代を経て、アイヌ社会やアイヌ文化が成立したのは13世紀から14世紀にかけてのことだと考えられている。本州から北海道南部へと移住する者が現れ始めたのもこの時期である。1454年にアイヌと交易をしていた安東氏が南部氏に追われて、武田信広らとともに北海道に渡ってくるなど、15世紀には多数の和人が移住し、道南十二館と呼ばれる渡党領主の館が形成され、環日本海の商品流通に従事し、アイヌ民族との交流を行なっていた。
次第に和人領主たちはアイヌを圧迫し始めた。というのはアイヌには製鉄技術がなく、鉄製品を依存せざるを得なかったからだ。ある時、志苔の鍛冶屋とアイヌ青年の間で、マキリ(小刀)の質と価格を巡って口論が起き、アイヌ青年が和人に刺殺される事件が起こった。これを契機にして、翌年1457年にアイヌの首長コシャマインが蜂起し、十館を次々に攻め落とした。このコシャマインの戦いは、花沢館の蠣崎季繁とその客将・武田信広がコシャマイン親子を討ち取ることによって終わったものの、以後100年にわたる戦いの戦端を切ることとなった。
その後蠣崎氏は争いのなかでひとり勢力を保ち、青森の十三湊を拠点に日本海交易を支配していた安東氏に取り入って蝦夷の代官となり、蝦夷の和人勢力の支配者へとのしあがった。1593年には豊臣秀吉から朱印状を与えられ、蝦夷島の支配権を公認され、1599年には徳川家康に謁見し松前に改称し、1604年には松前氏は松前藩の藩主として黒印状を与えられアイヌとの独占的な交易権を許可された。その際、松前藩は渡島半島南部の和人地とそれ以外の和人出入り禁止の蝦夷地とを設定した。アイヌへの搾取が次第に強まると、1669年に東のアイヌ指導者シャクシャインが全アイヌの大同団結を呼びかけ、松前藩に対して一切蜂起した。このシャクシャインの戦いは松前藩が和睦を申し出、酒宴の席でシャクシャインを毒殺することで終わったが、この事件以降アイヌに対する和人の徹底的な搾取や非道行為が展開されるようになった。
その後松前藩は、藩が独占的にアイヌとの交易を行う商場知行制から、交易権を商人に委託し経営を請け負わせる場所請負制へと転換した。こうして知行主は運上金収入わや確保し、商人は利潤追求の保証を得ることができたが、例えば請負人の飛騨屋などにより虐使されたアイヌの不満は高まり、1789年に国後や目梨のアイヌが蜂起したクナシリ・メナシの戦いが起こった。
アイヌ同化政策とその影響
さてここから第二の時期だ。ここの節からは現代アイヌ問題とも深く関わってくる問題なのでぜひ注意して読んでいただきたい。
松前藩はクナシリ・メナシでのアイヌの蜂起をすぐに鎮圧したが、そのわずか3年後の1892年にロシアの使節ラクスマンが通商を求めて根室に来航した。これは幕府を揺るがす問題だった。幕末はペリーの来航という象徴的な事件がフォーカスされがちだが、この出来事も大きな事件だった。それまでは各藩がそれぞれの領地を統治しており、日本というのはあくまでもその緩やかな紐帯に過ぎなかった。しかし強大な技術力・軍事力をもった外国がいざ目の前に迫ると、国を守らなければいけないという意識が高まり、ナショナリズムが高揚していく。そしてその時、それまでは緩やかで曖昧だった守るべき領域=国境もハッキリと意識される。幕府は対ロシア関係における辺地の安定を考え、1799年に東蝦夷地を、1807年に西蝦夷地を天領とし、アイヌは日本の国民だということをハッキリさせるために和服の着用など和人への同化政策を進めた。その後ロシアとの緊張緩和によって、蝦夷地が松前藩に返還されたり、再度天領化したりを繰り返したものの、これがアイヌへの同化政策の始まりだった。(写真は1899年、鳥居龍蔵の撮影した和装の千島アイヌ)
明治維新によって江戸幕府による支配が終わると、蝦夷地は北海道に改称され、場所請負制が廃止された。1871年に戸籍法が制定されると、アイヌは平民に編入され、家屋・農具が与えられたものの、独自の風習が禁じられ、日本語の使用が強制された。1872年に北海道土地売貸規則・地所規則が制定されると土地私有の観念のなかったアイヌたちの暮らす北海道の土地は、官用地などを除いて全ての土地は、民間の希望者に売り払われた。この売り払いの対象にはアイヌもなっていたものの、日本語がわかるものは少なかったこともあり、ほとんど利用されることはなかった。そんな中でさらに1876年にアイヌの創氏改名が布達され、アイヌの仕掛け弓猟が禁止、1883年には十勝川上流の鮭漁も禁止され、1889年にはアイヌの食料分として許されていた鹿猟さえも禁止された。こうして和人への同化が進められると同時に、生活基盤さえ剥ぎ取られ、困窮するようになっていった。そんなアイヌの窮状を見て、1899年に北海道旧土人保護法が制定され、アイヌに1万5000坪(5町歩)以内の土地が給与地として無償下付された。しかしながら、狩猟で生きてきたアイヌには農耕のやり方がわかっていなかったため、多くのアイヌが与えられた土地を小作地としていた。
第二次世界大戦の終結後、農地改革が断行された際、こうした給与地もまた小作人に売り払われた。1946年に発足した北海道アイヌ協会はマッカーサーに直談判し給与地を農地改革から除外するよう希望したが、成功はしなかった。
こうしてアイヌには幕末期に始まるナショナリズム的な意識の高まりとともに同化政策が進められ、独自の文化や生活が禁じられるようになっていき、その結果貧窮していったのである。これが第二の時期のアイヌの窮状であった。
アイヌ文化の肯定的受容へ
第三の時期は、アイヌの独自な文化に対する認識の見直しが進められた時期だ。それは1982年に国際連合先住民作業部会(WGIP)の発足など、1980年頃の国際的な先住民族への関心の高まりと軌を一にしている。1982年に北海道ウタリ協会(1962年に北海道アイヌ協会から改称)の総会でアイヌ民族の権利の保障を謳った「アイヌ民族に関する法律案」が採択され、北海道内地区のアイヌ古式舞踊連合保存会が国の重要無形文化財に指定され、さらに北海道大学医学部に納骨堂が造られ、毎年先祖供養としてイチャルパが行われるようになった。(画像上アイヌ古式舞踊、下イチャルパ)
また1987年にはWGIPにアイヌ民族ご参加するようになり、1992年に国連本部で開催された「世界の先住民の国際年」では当時の北海道ウタリ協会理事長の野村義一氏が日本の先住民族として記念演説を行なった。1989年には「独立国における先住民族および種族民に関する条約」が成立し、1995年から第一次世界の先住民の国際の10年が、2005年からは第二次世界の先住民の国際の10年が開始、2007年に先住民族の権利に関する国際連合宣言が採択され、2009年にはアイヌ古式舞踊がユネスコの無形文化遺産に登録、同時にアイヌ語が「極めて深刻な消滅の危機に瀕する言語」として認定されるなどの国際的な動きに伴って、アイヌに関する国内でも法制度の見直しが進められた。
1997年には「北海道旧土人保護法」や「旭川市旧土人保護処分法」などのアイヌを旧土人とする差別的な法律が廃止され、アイヌの文化に焦点を当てた「アイヌ文化振興法」が新たに成立し、公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構が設立された。2008年には衆参両院で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で可決され、2019年には「アイヌ文化振興法」が廃止になり、新たにアイヌ民族が日本の先住民族であることを明記した「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」(いわゆるアイヌ新法)が成立した。そして白老市において2020年に民族共生象徴空間(ウポポイ)・国立アイヌ民族博物館が開業し、アイヌの歴史や文化についての国が主体となる学習施設が整備された。
このように1980年代から現在までアイヌ文化に対する見直しが図られてきた。実際に2013年に行われた世論調査によれば、重要だと思うアイヌ関連政策として、51.3%の人が「アイヌの歴史・文化の知識を深める学校教育」、31.3%の人が「アイヌ文化継承のための人材教育」、27.1%の人が「アイヌ文化の更なる振興」を挙げるなど、アイヌ文化に関する事項が上位を占めており、関心が高まっていることが伺える。
未回収の問題
ここまではアイヌが辿ってきた歴史について確認してきたが、いよいよ本題へと移ろう。この節ではアイヌの歴史とこれから論ずる現代のアイヌの問題の橋渡しができたらと思う。さて確かにここまで見てきた通り、アイヌに対する和人の理解は良い方向に向かいつつあるのは事実だろう。しかしだからと言って全ての問題が解決に向かっているわけではない。
ではどんな問題があるのか、それはアイヌの人々は、和人と比べて経済的困窮に陥ってしまっているという問題である。
この問題については、アイヌの近代史の時点ですでに見てきた。つまりアイヌは幕末から明治期、戦後にかけて、同化政策が進められる中で、①独自の文化・生活を禁じられ、②それに伴い生活基盤を失い、困窮していた。しかしながら現代において省みられてきたのは、失われつつあったアイヌの文化についてが中心であり、1974年に開始された北海道ウタリ福祉対策などいくつかの例はあるものの、ほとんど支援はなされていないのが現実だ。文化振興に特化したアイヌ文化振興法が廃止され、アイヌを先住民族と明記したアイヌ新法が成立したものの、だからと言って先住民族としての権利保障については何も記されていない。それは先ほどお示しした国際調査で、アイヌの職業訓練や教育の充実の項目の関心が低いことからも窺われるだろう。
しかしながら本当に現代でもアイヌは経済的に困窮し続けているのだろうか?確かに明治初期や敗戦直後なら事実としてそうだろう。しかし明治維新から150年、敗戦から70年以上が経過した現在でもアイヌが生き続けているのであれば、その年月で(たとえそれが悪いことでも)和人と同化した経済の営みが根付き、和人とアイヌとの間で経済格差はほとんどなくなってきたのではないか?そう思われるかもしれない。
しかし実際には戦後から長い間アイヌが経済困窮に陥っていたという現実がある。それはアイヌの年収の低さからも窺える。2008年北海道アイヌ民族生活実態調査によると、全道のアイヌ世帯の年収については200万円以上300万円未満が19.5%と最も多く、また全道のアイヌの平均年収は355.8万円であり、その年の北海道平均の440.6万円からは100万円近く、全国平均の566.8万円からは200万円以上の差があるのだ。ではなぜアイヌは経済的に困窮してしまっていたのだろうか?それは北海道におけるアイヌ差別と密接に関係していた。次節ではアイヌ差別と経済困窮の関係について論じていく。
アイヌ差別と経済格差
そもそもアイヌ人に対する差別なんて存在するのだろうか。本土に暮らす和人からするとアイヌ差別というのは想像しにくいものかもしれない。実際2016年に公表された「国民のアイヌに対する理解度に関する世論調査」によれば、アイヌ差別があると考えている国民は17.2%とかなり少ない。(下表参考)
それに対してアイヌの人々に行った調査によると、アイヌ差別があると感じているアイヌは72.1%にも上っているのだ。(下表参考)
ここからして、国民とアイヌの間には相当な差別や偏見についての認識のズレがあることは確かだ。
道内の5つの地域で行われたアイヌに対するインタビュー調査によると(参考)、学校で経験した差別が最も多く、次いで恋愛や結婚のタイミングで、職場での差別は意外にも少ないということがわかっている。
もちろん地域や時代的な背景などもあろうが、学校で経験した差別の結果、アイヌの高校・大学への進学率は低くなってしまっている。実際インタビュー調査対象者の最終学歴の分布を見てみると、高校進学をしなかった人は48.3%にも上っている。(下表参考)
また、インタビューでは、学校で経験した差別について、次のような証言も出ている。
こうした証言からしても、学校で経験した差別がアイヌの進学を妨げていたことは明らかだ。
ここで主題であるアイヌの経済困窮についても目配せをしておこう。しかし進学が阻害されたから、それほどいい職場を選ぶことができず、アイヌが経済困窮に陥っている、というよう単純な話でもない。『現代アイヌの生活と意識』のなかに収録された野崎剛毅「教育不平等の実態と教育意識」によれば、最終学歴別の平均個人年収を見ると、小学校卒だと168万円、中学校卒だと244.1万円、高校卒だと250.1万円、専門学校卒だと235.3万円、短大・高専卒だと220万円、大学卒だと273万円、大学院卒だと216.7万円となっている。つまりアイヌにおいては最終学歴のが高くても、年収としてはそれほど変化がないのが実態なのだ。
ではどうしてアイヌは経済的に困窮しているのだろうか。ここで再びインタビュー調査に目を向けると、ある一つの可能性が浮かび上がってくる。
まず確認しておきたいことは、先ほどのインタビューの結果では職場での差別は比較的少なかったが、それは差別をするのは無邪気な子供だけであり、大人の社会ではそうした差別がなかった、ということではないということだ。それは恋愛や結婚のタイミングでも差別があることや学校での教師からの差別の事例からもよくわかるだろう。ではなぜ、職場での差別が少ないのか。それは就職の時点でアイヌは差別され、爪弾きにされてしまっていたからだ。インタビューでは次のような証言が上がっている。
こうして差別を受け、爪弾きにされたアイヌたちの就職先は必然的に限られてきた。そのことは次のような証言からわかる。
このようにアイヌの人々はアイヌに理解ある人やアイヌ民族の人が経営するアイヌ固有の職場、言うなればアイヌ労働市場に就職していくしかないのである。そしてそうした職場は不安定であったり低賃金であったりすることも多い。実際北海道大学の調査によるとアイヌの人々は24.5%が「技能工・生産工程にかかわる職業」に、27.5%が「農林水産的職業」についているなど、低賃金・不安定な職業に偏っているのだ。
最後に
こうして現在まで続くアイヌ差別とその延長としての経済困窮について見てきた。これはある意味、かなり意外なものだったかもしれない。しかしこれこそが生活者としてのアイヌの実態なのである。こうしたことを知らなかったのは、アイヌについて、教科書やテレビ、新聞などを通してしか知ることができなかった以上仕方のない側面もあるだろう。
しかしだからと言ってこうした生活者としてのアイヌの苦しみに目を向けなくても良いのだろうか。北海道のアイヌの多く暮らす地域で、アイヌと地域住民に行ったアンケート調査のよると、「アイヌ政策として重視するもの」として、地域住民「差別のない社会をつくる」(66.5%)ことや「アイヌ語・アイヌ文化を守る」(42.6%)こと、「正しい理解の提供」(50.2%)を多く挙げる一方で、「教育支援の充実」(18.8%)や「雇用対策の充実」(21.4%)への関心は低く、25.1%の住民は「特別な政策を行うべきではない」としている。その一方でアイヌは、「差別のない社会をつくる」(57%)や「アイヌ語・アイヌ文化を守る」(30%)、「正しい理解の提供」(40.6%)への関心も高い一方で、それ以上に「教育支援の充実」(60.3%)と「雇用対策の充実」(59.7%)を重要視しているのである。
私たちはアイヌ文化の文化財的価値ばかりを見て、実際に生きているアイヌの人々から目を背けてきたのではないか?もちろんアイヌ文化の素晴らしさを発見することによって、アイヌへの差別が和らいだ側面も大いにあるし、今後ももっと良くなっていくかもしれない。そうすればアイヌの経済格差の問題も解消に向かっていく可能性もある。しかしそうした楽観的な姿勢でいるのではなく、今現実的な問題としてある、アイヌの困窮に対して、取り組んでいく必要がある、私はそのように感じる。
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