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「ぼくはさっき感じたズルズルと愛のようなものに自分が浸っていく気持ちを大事なもののように感じていたのだが、ズルズルがズルズルと一人で勝手に土俵に割っていったような気持になった」 保坂和志『草の上の朝食』

 思いっきり芝生に飛び込んだシンをにこやかに眺めて、リュウはゆっくりと芝生に腰を下ろした。昨日まで降り続いていた雨も昼頃にはすっかり乾いていたが、芝はまだ少し湿っていた。こんなふうに芝生の上でブルーシートも何にも敷かずにまったりするなんて、おとなになって一度もなかったなと素直に思った。

 晴れやかな太陽のかがやきにあおむけになったシンは、五月の大気を肺いっぱいに吸い込んで気持ちよさそうにしている。僕も寝そべろうかと思ったが芝生の湿りを気にしてそうせずにいるとき、リュウはそういうことにいちいち頓着しない、おそらくそんなこと考えにもないシンのことをうらやましく思った。

 数週間前はまだ冷たかった空気もこの時期には十分暖かくて、長袖のワイシャツでは少し汗ばみ、そこをさわやかな風が通り抜けて気持ちがよかった。風に揺られた鮮やかな緑の葉は心地よい音を立てている。枝には小鳥がとまっていて、おそらく奥のこんもりした森にいるであろうほかの鳥たちと啼きかわしていて、その鳴き声はこのあたり一帯をみたしてひびきわたっていた。リュウはここまでの道で飲んでしまいほとんど残っていないビールの缶を口へと運んで、残りを一気に飲み干した。

 頭の後ろに手を組んで枕にして、片膝を立ててあおむけになっているシンは、この五月の気候みたいに明るい、一昔前にはやったポップスを口笛で吹いている。リュウはそれが何の歌だかは思い出せなかったけれど、横目でそんなシンの様子を見ているのは心地がいい。

「なんかゴキゲンみたいじゃん」

「ん?まぁねぇ~」

と呑気そうにいってシンはリョウの顔を見て快活に笑った。つられてリョウもはにかむ。

 ふと、リョウの頬を一筋の涙がつたって落ちた。それを見てシンはびっくりした顔をするが、それ以上にリョウのほうが驚いている。二人の間に少しの沈黙が流れる。さわやかに吹く風の音だけがリョウの耳に入ってきた。

「あの娘、いい子だったよな…」

「うん…」

「ぼくが今までに会った中で、一番いい娘だったよ…。たぶんこれから会う女の子のなかでも、三番目くらいには入るんじゃないかな」

そういったリョウは笑顔をつくった。シンもにっこり笑ってくれた。リョウはシンのこの笑顔に、何度救われてきただろうと思って、それから自分ものこったビールの缶を一気に飲み干した。

「でもね、あの娘も、ぼくに男らしさだとか、女の子を自分のもとだけに縛り付けておきたい嫉妬心みたいなのを求めるんだ…。どうしてそういうふうにしないと、わからないんだろう…。」

シンはリョウのほうを見つめながら、黙ってその話を聞いていた。

「ぼくはただ、自由に楽しく生きていたいだけだったんだ。誰からも強制されずに、だれも強制せずに。ただ好きな奴らと好きなことをして、それで笑って、そうした空間の中に、ぼくがあの娘と過ごす時間もあればいいなって…」

そこまで言うと涙がとめどなく流れ出して、嗚咽でリョウはしゃべれなくなってしまう。シンは起き上がってリョウの肩を抱いた。シンの撫で付けた髪からはポマードの匂いがした。

 リョウが落ち着くと、シンはそのかたをポンと一回叩くと、立ち上がって真っ青な空に向かって大きく伸びをした。リョウがシンのほうを見上げる顔もにこやかだ。シンはリョウのほうに向きなおって、

「ま~だ、飲みたりねぇやぁ。おれんちにビールあるからさ、行こうや!」

といってにっこり笑って手を差し出した。リョウはその手につかまって立ち上がるが、少し酔いが回っているのか、二人でよろけて倒れそうになった。それから二人は顔を見合わせて、馬鹿みたいに笑った。それからまた互いに肩を抱き合って、大声で歌をうたいながら歩み去っていく。

こちらは保坂和志さんと湯浅学さんの共著というか対談本である『音楽談義』という本の中に載っている、保坂さんがデヴュー前にサーフィンの雑誌に掲載していた、文学作品をサーファー風に描いたブックレヴュー(?)のオマージュです。それで保坂さんの『草の上の朝食』でやってみようとしたんですけど、まあ保坂さんが書いた村上春樹の『羊をめぐる冒険』のブックレヴューとほとんど同じになっちゃいました(笑)。ただそのブックレヴューでは、舞台は何日も続く熱帯夜の砂浜で、最後も「もう一軒いこう」って慰めあうような、ちょっと暗い感じなんですけれど、『草の上の朝食』は全然そんな話じゃない。恋愛小説っぽく読まれることもあるけれど、恋愛みたいなものが、もっと自由な、すべてを肯定してくれるような愛の共同体に組み込まれていっちゃう。そうした明るさを、5月の風の爽やかさと優しい日差しの中で表現できていればと思っています。

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