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パララックス・ヴュー

 カメラを覗き込めば、そこは真っ暗で、ただ窓からわずかに斜陽の差し込む部屋の一隅を写し続けている。窓にはカーテンは全くない、外の様子が曇りなく覗ける筈であり、同時にこの部屋の殺風景も誰かが容易に覗き込むのだが、逆光のせいで格子状に貼られた枠のほかは一面の白、いやそれほど強烈ではない、陽は傾いてややオレンジがかって、やわらかい。その陽差しが、何にも遮られることなく、白木の床板に、いくつもの平行四辺形を作っている。
 誰もいない部屋、いや本当にそうなのかはわからない。カメラに映るのは、ほんのひと隅で、映し出されているのは白い塗装が所々剥げた木の面を剥き出しにした椅子が一脚、陽光にかかるかかからないかのところにあり、もう少し時間が経つと、四つの足のうち二つは丸々光の中に入るだろう、それはこの光が斜陽であるという推理からの帰結であり、映し出された壁には時計もかかっていないのだから時間はわからず、もし曙光だとすれば椅子の脚はますます光から遠のくであろう。時間がわからないということはもちろん映し出す方角もわからない、もう少し時間が経てばおおよその推理は立てられようが、一向に時間は流れようとはしない。
 もしかしたらこの部屋は、人工に作られたセットに過ぎないのかもしれない、だから陽の光は常に一定の方向から差していて動こうとしないのだ、と考える方が合理的かもしれない。二つの少し黒っぽい白い壁2つが交差する一隅の他には壁はなく、広いスタジオの中にあり、たくさんのカメラがそこに、その一角をうつし続けるカメラを写しているのだろう。あるいは、この写し出されたものは、映像ではなくて、写真なのかもしれない。そう考える方が、馬鹿みたいに壮大に何もない部屋を写すカメラを写すというということよりはあり得そうだ。しかしそれだって確実にそうだとは言えない。カメラからはカメラは見れないからだ。壁に鏡がかかっているわけではないのだ。せめて陽がカメラの後ろから差してくれていれば、カメラの朧げな姿を影を通してみることはできたろうが、それも叶わない。むしろカメラ自体が一個の鏡ではなかったか?
 モニターはない。それはカメラには写っていないというような話ではなく、単純にそのカメラが写す映像なり写真なりを映すためのモニターはどこにもないということだ、カメラが写したものはカメラの中にだけある。それを他の誰かが盗み見ることは、決してできない。そのことは請け合ってもいい。カメラの写したものの真実性を担保するのは、今のところはカメラしかなかった。誰もカメラのレンズの奥の闇の中を覗き込むことなんてできない。せいぜいできるのは片方の壁にある、窓から、馬鹿げた風景をひたすらに写し続けるカメラを盗み見ることぐらいだ。しかしそれはどうにも避けられそうにない。
 しかしカメラの写すものなどに真実性など果たしてあるのだろうか、というのはカメラはこの部屋のこの一辺だけしか写しとることができない。それが時間なのか、時間の断片なのかも定かではないし、そもそもその光が斜陽なのか曙光なのか、あるいはもっと別な人工的な光線なのかわからない、この部屋が部屋なのかも。カメラの真実性はこの画角の中での真実性であり、たとえばそのカメラをもっと後ろの方から写し取ってみれば違うものが見えるだろう、あるいはほんの20°ほど右に、三脚の中心を軸に回転させるだけでも大きな変化が生まれそうなものだ、それが三脚に乗ったカメラだとすると。そう考えてみると、カメラを写すカメラという当初のくだらない思いつきも、案外面白いものだったかもしれない。やってみる価値はありそうなものだ。何もない部屋をひたすらに写し続けるカメラがある、しかしそこは部屋ではなく、屋根もなく壁も二面しかない、野外に仮設されたプレハブで、ひたすらに写し続けるカメラを嘲笑うが如くもう一台のカメラがそのカメラを写し続ける、そのもう一台のカメラの配置された野外の広場は実はスタジオの中に作られたセットであり、それを腕を組みながら眺める数人のスタッフもろとも広いスタジオの全体が写るようにさらにもう一台のカメラがスタジオの隅にセットされている。しかしこうしたことがかろうじて面白みがあるように感ぜられるのはせいぜい三台目か四台目のカメラまでで、そこからはワンパターンにしか思えない。だいたい四台目にもなれば初めの部屋を写すカメラはずいぶん小さくなり、ほとんど豆粒くらいにしか描かれないだろうし、実は初めのカメラがもっと小さな対象を写しとっていたとしても、四台目のカメラにそれはわからないのだから、外に行けば行くほどそのカメラが真実を写しているとも言えなくなってくる。
 あるいはもっと別の仕方もある。実はカメラが写し撮っていたのは、部屋の形をしていたカメラなのだ。馬鹿げているようだが、これには一定程度の真実味がある、なぜなら初めにこう書かれた。「カメラを覗き込めば、そこは真っ暗で、ただ窓からわずかに斜陽の差し込む部屋の人隅を写し続けている。」何がカメラを覗き込んだというのか。カメラ自身はカメラを覗き込むことはできない筈だ。にもかかわらず、カメラ自身は自分のことをまるで見ているかのように話しているではないか。いや、話しているのはカメラではないのだろうか?では一体誰がカメラについて話しているのか?それは紛れもなくカメラのことを外から眺めている誰かだ。しかしそんなことはありえない。世界にはカメラの写す黒味がかった白い壁と、白木の床板と窓しかない。カメラの中にしかない、カメラが見たものしか存在していない筈だ。そしてそれ以外にあるものといえば、それらを写すカメラ自身に他ならないが、少なくともカメラ自身にとってはカメラ自身は影のように直接みることができないものだ。それをあたかも現に見、そこに確かにあるもののように語られている。
 いよいよ混乱してきた。誰が混乱しているのかもよくわからない。カメラが語り手でないとすると、現にいま語っている、そう、「現にいま語っている」とちょうど今語ったこの語り手は誰なのか?種明かしをしよう、私は壁だ。壁に耳あり障子に目ありというが、当然壁にも眼もある。そしてこの私を、カメラがじっと見ている。瞬きもせずに。そしてそのカメラを私も見る。カメラとは誰なのか、何を考えてカメラは見ているのか。そんなことを考えているうちに、私は私になった。私はカメラに覗き見をされているということを通して私になったの。カメラはきっと私が、あなたを見ていることなんてわかっていない。不思議な感じ。

 そんなことをカメラは妄想していた。およそカメラが妄想するなどということはあり得るのだろうか。しかし事実そうなのだから、仕方がない。これは本当のことなのだ。カメラは壁を見ることによって、光が鏡に反射するみたいに、自分のことを認識する。まず初めにカメラがあったわけではないのだ。カメラが写し通した、壁を通してはじめて、カメラが現実の中に浮かび上がってくるー
 そのとき、パリンと小気味良い音を立てて窓を破って部屋の中に野球ボールが入ってきて、何度か跳ねながら画角の外に転がっていった。砕けたガラス片は陽の光の中に散りばめられてキラキラと光っている。カメラはほんの一瞬、赤い縫い目のあるボールを捉えたが、画角の外に出てしまったそれを決して追いかけるようなことはしなかった。

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