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自己肯定感とニーチェ

 通俗的なテーマではあるが、自己肯定感とか言うものについて云々しようと思う。自己肯定感とは心理学の用語なのだろうが、そうした学術的な意味から外れて、かなりポップに、そして奇妙な形で受容されている気がする。以下では、おそらく自己を肯定することにかけてはピカイチの哲学者、古典文献学者であるニーチェを、やや自己啓発本チックにキャッチーに読みながら、通俗的な自己肯定感理解を検討していく。

自己肯定感をめぐる奇妙な言説

 では自己肯定感をめぐる通俗的な言説とはいかなるものであるのか。それは「自己」肯定であるはずなのに、「褒められる」「けなされる」と言った他者との関わりの中で、高まったり低まったりするものとして語られていると言うことである。
 例えばこう言った言説だ。「私は幼い頃から否定しない教育で育てられたから自己肯定感がハンパない。」「前の職場では上司が厳しい人だったから怒られてばっかで、自己肯定感がゴリゴリに削られた。」とかとか、
 もちろん自己も環境世界に浸った存在である以上、他者との関係が全くないと言うわけではない。そういう意味では上記のような言説は奇妙でもなんでもない、むしろごく自然だとさえ思われるかもしれない。しかし自己肯定感が他者から「褒められ」たり、「けなされ」たりすることによって変化するものであるならば、それは他者からの評価を内面化しているに過ぎず、本当の意味で自己を肯定しているわけではない。

道徳の後で

 そうであるならば、本当の意味では自己肯定とはどういうものなのだろうか。ここで登場するのが、かの有名なフリードリヒ・ニーチェである。ニーチェもまた、「神は死んだ」などのフレーズによって、自己肯定感という言葉と同じようにキャッチーに受容されてきた哲学者である。ニーチェを利用した自己啓発本もたくさん記されている。一方で私はそうした状況を苦々しく思うとともに、そうした自己啓発本の著者がニーチェを題材に本を書きたくなる気持ちがよくわかる。ニーチェは我々に勇気を与えてくれる、圧倒的な自己肯定の思想家だからだ。
 それは例えば最晩年にニーチェが記した自伝的作品である『この人を見よ』の目次を見ればよくわかる。「なぜわたしはこんなに賢明なのか」「なぜわたしはこんなに利発なのか」「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」。もう笑ってしまうくらい自信に満ち満ちた章題だ。ここからしてニーチェは自己肯定の哲学者であることが伝わってくる。
 さて具体的なニーチェの議論を見ていこう。ニーチェは「よい good」ということに関して二つのあり方、つまり「善悪」と「よしあし」とを厳密に区別して考えた。前者はルサンチマン(怨恨)を抱く人々の道徳的な観念だ。それについてニーチェは『道徳の系譜』で次のように述べている。

ルサンチマンの人間が思い描くような<敵>を想像してみるがよい。ーそこにこそ彼の行為があり、彼の創造がある。彼はまず<悪い敵>、つまり<悪人>を心に思い描く。しかもこれを基本概念となし、さてそこからしてさらにその模像かつ対照像として<善人>なるものを考えだす、ーこれこそが彼自身というわけだ!

要するに、善悪とはまず「○○は悪い」という道徳を創設することによって、そこから遡及的にそうではない自分を善いと考えるものなのだ。
 その一方で後者は、高貴な人間がもつ、内発的なよいという感情だ。

貴族的人間は<よい>(優良)という基本概念をまず守って自発的に、すなわち自分自身から考えおこし、そしてはじめて<わるい>(劣悪)という観念をつくりだすのだ!

これは読んだまま、自発的なよいの概念からそれから外れるものを悪いと考えるということになる。
 ニーチェはキリスト教をはじめとする道徳というものの起源を辿る中で、もともとは「よい」という感情を持った高貴な人間がその基準で生きていたが、そうはなれない弱いものがルサンチマン(怨恨)から、悪という普遍的な(?)概念を立てて高貴な人間を非難し始めたことにはじまると見てとった。
 これは今日の自己肯定感の論説ともピタリ一致する。自己肯定感が低いと言われる人は、他者からの評価ーそれは宗教なり共同体なりの道徳から演繹的に導かれるだろうーに拘泥し、自分を悪しきものとして認識してしまう。しかし、真に自己肯定感を抱くということは、そうした善悪の道徳評価をさておいて、自分の中の良い感情に従って生きることのはずだ。これは別に道徳を知らないことを意味しない。むしろ善悪の評価において、「自分にはこういう悪いところがあるよなぁ」と認識しつつも、「まぁでもこれはいいことだよね」と自分の価値をしっかり持って生きるという、圧倒的な自己肯定なのだ!

自己肯定は自己満足なのか?

 これで一応は自己肯定感なるものがどんなものなのか確認することができたと思う。しかしここにはひとつ厄介な問題がある。それはつまり自己肯定とは結局のところ単なる自己満足なのではないかという問題だ。人は他者とのやり取りの中で、変化をしていく。しかし他者からの善悪の評価に耳を傾けなくなってしまっては、現状の自分に満足しているに過ぎず、よりよい自分に変貌する可能性を絶ってしまうことにはなりかねないだろうか、ということである。もちろん今の私は間違いなくよいものだ。しかし私たち自身は絶対的によいものであるところの神ではない死すべき人間なのだから、よりよい自分があり得ないとは限らない。自己肯定によって他者との交わりという弁証法の過程を停止してしまっては、そのような危険性があるのは否めない。
 ここでもう一度、今度はもっとディープにニーチェに踏み込んでみよう。ニーチェの肯定する自己、私、つまり主体については、ニーチェはどのように考えていたのだろうか。近代的な主体の意識の祖といえば、やはりデカルトだろう。「我思う故に我あり」。あらゆるものを方法的に懐疑した上で、疑っているという以上、それをする主体が前提とされる。そしてデカルトは全てを基礎づけるものはその主体であると主張した。実はニーチェはそんなデカルトの方法的懐疑の不徹底ぶりを、ちょっと変わった形で批判した哲学者でもあるのだ。
 ではデカルトはいったい何を疑わずに前提としてしまったというのだろうか。それは言葉、もっと言ってしまえば文法だ。再び『善悪の彼岸』を引用してみよう。

以前にはひとは、文法と文法上の主語を信ずるように<霊魂>というものを信じていた。そのいうところによれば<我>は制約するものであり、<考える>とは客語であって制約されたものである。ー思考というものは一つの働きであって、それには原因としての一つの主語が考えられなてはならない。今日ではひとは、おどろくべき執拗さと狡知とをもって、この網からぬけでられないものかどくかこころみてる。ーまた、もしかしたらその逆が真理ではないか、つまり<考える>というのが制約するものであって<我>とは制約されたものではないか、したがって<我>とは、思考する働きそのものによって作られる一個の総合物に過ぎないのではないか、と試してみている。

つまりどういうことか。デカルトは「思う」という働き(動詞)がある以上、働くもの(主語)が必然的に存在すると考えたためにコギトが絶対的だと考えた。しかしニーチェはそれでは文法を懐疑していないと非難する。ただ確かにあるのは諸々の働きだけ(動詞)で、主体というものがあるとするならば、それは諸々の働きの総合物としてあるのであって、決して世界を基礎付けるものとしての不動の主体なのではない、というのだ。
 こうして長々とニーチェの主体論について見てきたが、本題に戻ろう。自己肯定とは自己満足に過ぎないのだろうか。答えはもちろん、NOである。我々の肯定する自己とは不動の確固たる内閉した自己ではない。それは絶えず動き続ける働きの集合物としての自己であり、我々が肯定するのは我々が変化していくそのベクトルをも内包した自己なのである。我々はいま、まちがいなくよいものであり、これからますますよくなっていくのだ。これがニーチェの自己肯定である。なぜわたしはこんなにもいい文章を書いてしまっているのだろう!

参考文献

○ニーチェ『道徳の系譜・善悪の彼岸』
他にもいろいろ引用しようとは思ったが、結局本論ではここからの抜き書きで事足りてしまった。よく最初にニーチェを読むならと、この2冊が挙げられるが、そんなに容易い本ではないと本論でお分かりいただけたと思う。


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