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辺境魔女が旅巫女と別れるまでの譚

「冗談じゃねェや!!」
 狭い一室に、男の絶叫がこだました。
「もうすぐ祭りなのに値上げだァ!? ただでさえ高っけえのに!!」

 怒声とともに男は値札を指差す。
 いわく、そこにはこうあった。

<防腐薬 銀10 改め 銀15>

 椅子に座った老魔女は、あばた面を掻きながらうんざりしたように告げた。

「特別価格で5割増しだよ。雨季は気分が滅入るからね、薬の精製にも普段より労力がかかる──何度言ったら分かるんだい」
「去年は2割増しで済んでたじゃねェか!」
「去年は去年、今年は今年。今回の雨季は特にひどいからね、仕方ないのさ」
「だからって、これはよォ……」

 苦虫を噛み潰したような顔で、男は唸った。

「なァ頼むよ、もう少しまけてくれ! このままだと祭りに捧げる肉や麦がみんな腐っちまう」

「駄目だね」
 魔女はぴしゃりと言い放った。

「文句があるならヨソへ行きな。都に出ればもっと安く買えるだろうよ」それから、嫌味たっぷりにこうも付け加えた。「この雨のなか、山を三つ越えていく気力がアンタにあるならの話だけどね」

 男は、町長の倉庫番を務めている。かれこれもう数十年の付き合いで、金払いのよい上客だった。毎度のように駄々をこねるものの、結局はこちらの言い値で買ってくれる。より正確に言えば、買わざるを得ない。なんせ、この町の薬売りは魔女ひとりなのだから。

 果たして男は、頭をがりがりと掻きながら「わァかったよ!」と怒鳴った。「払えばいいんだろォ、払えば!!」

 叩きつけるように置かれた銀貨を確認してから、魔女は「毎度あり」と薬瓶を差し出す。途端、男の顔はますます険しさを増した。

「……おい、去年より量が少なくなってッぞ!?」
「不満かい? じゃあ金は返すから、さっさと帰りな」
「あァもう分かったよ、分かったって!」

 男は薬瓶をザックに乱暴に突っ込むと、荒々しい足取りで家を出ていった。

「強欲ババアめ──水神様のバチが当たるぞ!!」
「訂正しな! あたしゃまだ255歳だよ!」
「充分ババアじゃねェか!!」

 返答の代わりとばかりに、魔女は力いっぱい戸を閉めた。これだから人間のような短命種は嫌なのだ。森人を己の物差しに無理やり当てはめる、その傲慢さが嫌いなのだ。

 それにしても、今日は特に雨がひどい。こんな時は、身体の節々がいつにも増して痛むものだ。薬の仕込みもそこそこに、早く床についてしまおう。そう思った矢先のことだった。

 こんこんこん、と戸を叩く音がした。

 さては、さっきの男が戻ってきたか。舌打ちをして、魔女は再び戸を開き──そして、呆気にとられた。

「ごめんください!」

 そこに立っていたのは、旅装束に身を包んだうら若い女だった。尖り気味の耳からして、おそらくは森人と思われる。彼女はにこやかな笑みとともに一礼して、言った。

「ラワサガオ町へは、どちらに行けば宜しいですか?」
「……寝ぼけてんのかい、ここはもう町の中だよ。隅の隅だがね」

 どうやら客ではなさそうだ。魔女は、溜息とともに道を指差した。

「集落に行きたいなら、この道をまっすぐ行きな。一本道だから迷うこともなかろうて」
「分かりました! ご丁寧にありがとうございます」

 旅人は再び一礼して、小走りで去っていった。
 その背中を見送りながら、魔女は、はて、と首をかしげる。
 あの小娘、前にどこぞで会ったことがあるような──。

***

 数日後。

 雨が小降りになった頃合いを見計らって、魔女は市場へと赴いた。ひと月ぶんの野菜と日用品を買いこんで、荷馬車を手配したところで「それ」に気づいた。

 街路の倉庫を取り巻くようにして、人だかりができている。ほどなくして、その中から姿を現したのは、若い森人の女だった。間違いない。数日前に魔女邸を訪れた、あの小娘だ。

 覚えず、魔女は旅人をじっと見つめていた。やはり、その容姿には見覚えがあった。だが、いつどこで会ったのかが、とんと思い出せない。喉元に魚の小骨がひっかかったかのような心地悪さを感じつつ、なおも旅人を凝視していたところで、

「よう婆さん。どうしたァ、こんなところで突っ立ってよ」

 背後からの声に振り向くと、倉庫番の男が立っていた。両手に野菜籠を持っているあたり、彼もまた買い物の帰りらしい。

「……あの騒ぎはなんなんだい」
「あれかい? 家の倉庫に魔法をかけてもらッてんだよ。なんでも、水気を取り除いてくれるんだとよ」
「はぁ? 魔法だって?」
「あの旅人さんなァ、見習い巫女らしいぜ」

 話はこうだった。
 あの雨の日、彼女はうまいこと男に追いついたらしく、そのまま町長宅へと案内されることになった。町長は食事と寝床を用意して、旅人をもてなした。その厚遇にいたく感激した旅人は、町で「恩返し」をしてまわっているのだという。

「俺は魔法のことは分からんが『見習い』にしては腕の良ェほうなんじゃないか? あんたンとこの薬は買ったけどよ、あの人にウチの蔵も頼もうかと思ってんだ」
「ああそうかい、ちなみに返品は受け付けてないよ」
「しねェよ、もう町長んとこの蔵に使っちまったしな」

 がははと豪快に笑って、男はつづけた。

「とはいえやっぱり見習いなんだな。魔法をかけてもらった倉庫にお邪魔したんだけどよ──この道ひとすじ20年の倉庫番として言わせてもらうなら、湿気の取れ具合はあんたの薬のほうが上だぜ」
「そらそうさ、へっぽこな魔法に負けるわきゃないね」
「でもな、その差は素人にゃ分からねェよ。見習い魔法も湿気取りにゃ充分だ。そのうちごっそり客を取られちまうぜ?」

 魔女は痰を吐き捨てて、馬車に乗り込んだ。そうして車窓越しにもう一度、巫女を眺める。町人たちに囲まれて、柔和な笑みを振りまく彼女。そのさまは、どこか伝承で語られるような聖人を思わせる。

 気に入らないね、と魔女は胸の内でひっそりと呟いた。

***

「商売敵」の影響は、予想していたよりもずっと早く表れた。

 かき入れ時であるはずの雨季のさなか、魔女の店には閑古鳥が鳴いていた。どうやら倉庫番の男の見立て通り、常連客たちはこぞって巫女のほうへと鞍替えしたらしい。魔女が製薬業を営むようになっておよそ100年あまり、このような事態は初めてのことだった。

 とはいえ、魔女はそれほど気にも留めていなかった。除湿剤や防腐剤といった季節の品が売れないのは確かに手痛いが、そこは腐っても薬屋、売り物は他にだってある。

 何よりも魔女としては、あの小娘と関わり合いにならないことのほうが大事だった。

 そんなある晩、魔女邸の戸を叩く音がした。久々の来客に向けて、笑みを浮かべようとした魔女──しかしその面持ちは、即座に苦々しげなものへと変わった。

 姿を見せたのは、誰あろうあの見習い巫女であったから。

「人を探しておりまして──」
 笑みとともに一礼して、彼女は続けた。
「私によく似た、きれいな人なのですけれど」

「ここは薬屋さ、案内所と間違えてんじゃないよ」

「案内所の方から、あなたを頼るよう言われまして」

 いわく、案内所の人間にはまったく心当たりがなかったようで、それならばと魔女を指名したということらしい。

「あなたは、この町でいちばんの年長者と伺いました。もしかしたら何かご存知かもしれない、と」

「さぁ分からないね。それなりに人の出入りはあるし、いちいち気にもしてられないよ」

「そうですか……」

 しばし逡巡した様子の巫女であったが、やがて、意を決したように再び口を開いた。

「ここに居させてもらっても、宜しいでしょうか」

「他をあたりな。住み処なら町長に言やぁ幾らでも融通は利くだろうさ」

 自ら「綺麗」と称するあたり癪だったが、実際のところ巫女は見目麗しい。こういう顔立ちの娘を、町長は──といっても先々代の話だが──たいそう好んでいた。頬に接吻のひとつでもしてやれば、早々と手玉にとれることだろう。

 しかしながら、巫女は首を横に降った。
「ここが最適なんです」

 魔女の邸宅は、ちょうど町の入口に位置していた。店番でもしていれば、通行人の往来は嫌でも目に入る。「その人」が帰ってきたならばすぐに分かるはずだから──そう彼女は言った。

 魔女は内心うんざりしていたものの、一方で人手を欲してもいた。やりたくなくともやらねばならぬ、そんな物事は日常に掃いて捨てるほど溢れている。頭の中で損得の天秤を揺らしたのも、束の間のことであった。

「言っておくがね、給料なんざ出さないよ」
「もちろんです」
「音を上げたら、すぐに叩き出してやるからね」
「どうぞお構いなく」
「まずは掃除からだ、ほれさっさと動く!」
「はい、喜んで!」

***

 結論から言えば、巫女はたいへんな働き者だった。

 指示をすればきびきびと動くし、物覚えもよい。一通りの家事や作業を経験させた頃には、魔女が口を動かすよりも先に仕事が終わっているような有様だった。

 依然として「恩返し」に勤しむ彼女は、たびたび集落へと出向いてもいた。当然のように町人からの受けも良く、すっかり町中で評判となっているらしい。謝礼の金銭のみならず、穀物や野菜をいっぱいに抱えて魔女邸へと戻ってくることも、すでに日常の一部と化していた。

「今日もまた、会えませんでした」

 一日の締めくくりに、そんなお決まりの台詞をつぶやくのもいつものことだ。しかしながら、その口元は相変わらず笑みに彩られている。

「本当にいいコだな、ありゃ。性根の良さってのは、ああいうふうに顔に滲み出るもんなんだなぁ」

 時たま魔女邸を訪れる倉庫番の男──もはや唯一の客といっても過言ではない──は、そう評した。町人たちの間では「笑顔の絶えない娘」として人気を集めている、とも。

「どうだかね?」
 ふはっ、と魔女は鼻で笑った。
「あたしゃ気味が悪くてかなわないよ」

 それは、率直な本心だった。実際、あの巫女が笑っていない場面など見たことがないのだ。怒鳴ろうが嫌味をぶつけようが、ぴくりとも眉を動かさない──それを本人に指摘したことだって、一度や二度ではなかった。

「その顔は仮面かい」
 じっとりと魔女は睨めつける。
「笑うことしかできないなら、そりゃあ無表情と変わらないってもんだよ」

「『あの人』もそうだったんです」
 小首を傾げて巫女は微笑む。
「彼女はずっと笑っていましたから、私もそう在りたくて」

 お決まりの会話は、魔女の舌打ちによって打ち切られるのが常だった。

***

 ──ほどなくして、町に異変が訪れた。

 雨季の真っ只中にも関わらず、日照りが続き始めたのだ。
 ラワサガオの町は一転して、深刻な水不足に見舞われた。

 魔女が売る季節の品──除湿剤と防腐剤は、今度こそ全く売れなくなった。一方の巫女はといえば、以前にも増して町人たちから頼られるようになっていた。理由はいたって単純で、彼女はその手に水を生むことができたからである。

「たいした魔法ではありませんよ」

 にこやかに、こともなげに巫女は言う。家々を回っては人々の乾きを癒やし、田畑を巡っては田畑を潤した。町人たちが彼女に注ぐ眼差しは、親愛から畏敬のそれへと変わっているようだった。

「傲慢なものだよ」
 これ見よがしに溜息を吐いて、魔女は続けた。
「神にでもなったつもりかね」

「『あの人』のようになりたいだけです」
 照れくさそうに、巫女ははにかむ。
「彼女は誰にでも平等に、分け隔てなく接していましたから」

 魔女は無言で、顔のあばたをぼりぼりと掻きむしるばかりであった。

***

 ──続く日照りは、やがて町に干害をもたらした。

 巫女に送られる金品と食物は、段違いに増えた。荷馬車を駆り出さねば運べぬほどに膨れ上がったそれらは、巫女の仕事ぶりと町人たちの期待を雄弁に物語っていた。

 巫女の顔には、日増しに疲労が色濃く滲むようになった。

 まもなく魔女の邸宅には、人々が連日のごとく押しかけるようになった。むろん、彼らの目当ては巫女である。しかし、彼らの口から紡がれるのは、感謝ではなく不満ばかりであった。

 いわく「余所の家よりも水を少なく渡された」。
 いわく「隣の畑よりも水を多くやってほしい」。
 いわく「一体いつまで待たせるつもりなのか」。

 そのたび、巫女に代わって魔女が説教をする羽目になった。

 魔力とて無限ではないこと。一日に使える魔法には限りがあり、使い手の気力を消費すること。その日の体調に魔法の出力が左右されることだって、何も珍しくはないということ──。

 それでも町人たちは、魔女の言葉を信じようとはしなかった。なお悪いことに、巫女も巫女で、依頼をなかなか断ろうとはしなかったのだ。

 そうこうしているうちにも、巫女の顔色は日増しに悪くなっていく。業を煮やした魔女は、最後の手段を講じた。ある晩のこと、寝台に眠る巫女を台座ごと縄で縛り付けてしまったのだった。

***

 翌朝、様子を見ようと寝室へ赴いた魔女は絶句した。
 巫女の姿が、どこにもない。残されたものは、寝台にぐるぐると巻き付いたままの縄と、井戸をひっくり返したかのごとく水浸しになった床であった。

 やられた、と魔女が毒づいたそのとき、店の扉が開いた。

「除湿剤を買いに来てやったぞ、婆さん」

 入ってきたのは、倉庫番の男である。その意気揚々とした面持ちは、しかし、店内の惨状を目のあたりにしてしかめ面に変わった。

「あんた、こりゃどういう──」
「なんもないさ。あんたこそ、どういうわけだね」
「どうもこうも、これから雨が降るんだろ? あんたが除湿剤の値を吊り上げる前に、買い込んでおこうと思ってな」
「……何の話だね?」
「……あんた、嬢ちゃんから何も聞いちゃいないのか?」

 巫女の「順番待ち」は今や数百人にも上るらしい。ひとりひとりを相手にさせるのは時間もかかるし、効率も悪い。平等に、手っ取り早く水を行き渡らせるにはどうすれば良いか──そこで、町人たちは巫女にこう依頼した。いわく「町に雨を降らせてくれ」と。

「というわけでな、広場じゃァ今ごろ準備で大忙しだろうよ」
「──あんたの車に乗せな」
「はッ?」
「あたしを、そこに連れて行きな!」

 特急運賃だよ、と前置いて、魔女は除湿剤の瓶束を男の胸に押し付けた。


 荷馬車は駆ける。

 往来の人々を跳ね飛ばさんばかりの勢いで、街路をひた走る。向かうは町の中心部。碧空に垂れ込める暗雲、その収束地へ。

 果たして、広場の真中に彼女はいた。
 両の腕を天に掲げ、あたかも雲を抱え込むかのように祈りを捧げている。
 その周囲には、固唾をのんで遠巻きに見守る町人の群れがあった。
 
「──止めさせな!!」

 馬車から身を乗り出して、魔女は叫ぶ。
 だが、それよりも早く、まばゆい光が一帯を覆った。
 徐々に明瞭さを取り戻していく視界のなか、魔女は見た。
 
 ──空から降り注ぐ、幾万もの雨粒と。
 ──地に崩れ落ちる、巫女の後ろ姿を。

***

 巫女が目を覚ましたのは、それから数日後のことだ。
 起き抜けで呆然とした様子の彼女に、魔女はことの仔細を語った。

 巫女の「儀式」が成功し、今に至るまで雨が降り続いていること。気を失った彼女を、治療と称して魔女の邸宅へと連れ戻したこと。おそらく単なる過労であり、特別な処置は必要ないであろうこと。

「……あんた、ヒトじゃないだろう」

 魔法を扱える巫女は、そう珍しくもない。湿気を取り除くこと。反対に、大気中の水分を集約させること。そこまでならば、自分も取り扱った経験がある。

 だが、天候を操るともなれば話は別だ。少なくとも「見習い」程度の腕前で扱える代物では、到底ない。もっとも、邂逅した当初から、この娘は奇蹟に等しい力を発現していた。ヒトならざるものが、ヒトをかたどる能力。流れるような金髪、珠のごとき肌、そして身に纏う衣服に至るまで、それらは「水」でできている。

 水を司りし精。またの名を、波の乙女。
 この辺境の地にて「水神」として呼び習わされし者。

「そうだろう、見習いの巫女──いやさ、精霊ウンディーネ」

 一息の間を置いて、彼女は微笑とともに口を開いた。

「……ご存知だったのですね」

***

 彼女が“発生”したのは、山奥の沼底でのことだった。

 しかし、生まれ出たそばから彼女を災難が襲った。山崩れによって、土砂が沼を覆い尽くしてしまったのだ。成熟した精霊であれば、地中をつたって水脈へと身を寄せることもできようが、そこは未熟な幼生のこと、なすすべもなかった。

 このまま枯れゆくかと思われた矢先、沼は再び日の目を見ることとなる。どこぞからやってきた人間の一団が、沼を掘り起こしたのだ。いかつい男たちを先導していたのは、凛々しき森人の女であった。

 彼らは上流の小川から水を引き、沼から集落へと水の流れを整えた。移動する術を得た彼女は、ときおり集落へと流れ、川面越しに人々を眺めた。笑い合う人々、その中心にはいつも、あの森人の姿があった。

 ──いつかは、貴方がたのもとへ。

 年月とともに成熟した彼女は、ヒトの姿を借りて集落へと降った。

 より広き世界を見聞するために。
 かつての恩義に報いるために。
 あの美しき森人と、いま再び相見えるために。


「──けれども、『あの人』はもう居なくなっておりました」

 巫女の口元に笑みはなく、寄せられた眉根には皺が見て取れた。

「たった数年のことなのに、誰も何もご存じないようで……それでも、いつかは戻ってくるやもと」

 今にも泣き出しそうな巫女を傍目に、魔女は深い溜息をついた。
 これだから精霊は苦手なのだ。時の感覚が、あまりにもヒトとは違いすぎる。彼女は数年といったが、ヒトの尺度に置き換えるならばそれは数百年を意味するわけで。

「──そういえば、指輪を沼に捨てた男がいたね」
「……えっ?」
「忘れたかね。沼を再び水で満たした、あの日。小舟に乗った、人間の男と森人の女。男の求婚に女は応えなかった、そんな夜のことさ」
「……憶えています。けれども、なぜ」
「そりゃあ、知っているともさ」

 見覚えはあるが、会ったことはない。妙な既視感の正体に気付いたのは、市場で巫女の姿を目にした時だ。ぴたりと重なるのは、かすれかけた記憶のさらに奥、鏡の中の姿だった。

「黙っていたのは、気に食わなかったからだよ」
 自嘲めいた笑みを浮かべて、魔女は言った。
「あんたのことが……昔の自分が、疎ましかったからさ」

***

 魔女が「巫女」であったのは、もう200年も前のことだ。

 かつて、彼女は旅をしていた。
 まだ見ぬ風景に出会うために。
 どこまで行けるか試すために。

 この地に立ち寄ったのは、ほんの出来心だった。当時はまだ村と呼ぶのも憚られるような新興の集落であったが、ゆえにこそ彼女は心惹かれたのだ。

 巫女は、村長の屋敷の一室を与えられた。路銀を稼ぐため、また自らの修行のため、彼女は魔法をもって集落に貢献した。沼を拓き、治水を整えたのも、そうした「開拓」の一環だ。

 感謝されることが嬉しかった。人々のためならば、と幾らでも力を行使できた。募りゆく疲労も、無用な心配をかけまいと笑みで覆い隠すのが常だった。

 ほどなくして、巫女は「雨乞い」を請け負った。再出立を控えての、最後の大仕事。実力に見合わぬ、一か八かの大博打。魔法の酷使で積み重なった疲労。そうした諸々のツケは、落雷となって彼女を襲った。

 その日、巫女の旅路は幕を下ろした。美貌と魔法を引き換えに彼女が得たものといえば、全身にわたる大火傷、それから慰謝料代わりの一軒家であった。

 ──それが、かつて巫女と呼ばれた魔女の顛末だった。

「あんたの旅路も、報恩の営みも否定はしないがね──どちらにせよ、しっかり考えな。『続ける』ためにどう在るべきか、道半ばで倒れないためにどうすべきかを」

 あたしかい?

 旅を続けようと思えば、できたのかもしれないね。
 けどね、あたしはここで生き続けることを選んだ。
 後悔も未練もとっくのとうに忘れちまったけどね。

 ただ……今でもね、夢に見るんだよ。
 かつて見た、世界の景色を。
 そして、見たことのないどこかの風景を。

***

 それからひと月も経った頃──
 巫女、もとい精霊は町を発っていった。
 新たなる土地へと旅立つために。

 町の者たちはみな、彼女との別れを惜しんだ。
 ただひとり、魔女を除いては。

「家が広く感じられて結構なこった」
「ンなこと言って、本当は寂しいんだろ、なぁ?」
「ちっともだよ、元に戻っただけさね」

 へいへい、と倉庫番の男は苦笑する。例によって除湿剤と防腐剤を買いに来たという彼は、商品棚の値札へと目を移した。

「しっかしまぁ、相変わらず高いな」
「そっちはまとめ買い用だよ。ひと瓶ならこっちだ」

 魔女の指摘に、男は目を丸くする。よくよく見れば確かにその通りで、値札の余白には、蟻のごとき細かな文字でその旨がひっそりと書き足されていた。おまけに、ひと瓶の値段は数ヶ月前の三分の一になっているではないか。

「……どうしたんだい、婆さん」
「こうでもしないと客が来ないからね、あの小娘のおかげで客の目が肥えちまった、やりにくいったらありゃしないよまったく」

 ぶっきらぼうな手つきで、魔女は品物を渡した。男は怪訝そうな面持ちでそれを受け取ったかと思うと、いっそう不思議そうな調子でつぶやいた。

「……なあ、前より量が増えてねェか?」
「なに言ってんだか、別に変わっちゃいないよ、そんなに言うなら減らしてやろうかい!」
「おっと、そろそろ帰らねェとな」

 そそくさと退散しようとした男は、ふいに「ンあ」と間抜けな声を上げた。その視線は、窓の外へと注がれている。先程までの晴天はどこへやら、いつの間にか雨が降っているのだった。

「今年はいつも以上に降るなァ、気が滅入るぜ」
「そうかい? 雨季もそう悪くはないもんさ」

 潤いゆく景色をガラス越しに眺めながら、魔女は言う。

 雨がふるたび、彼女はあの精霊を思い出す。

 初めて出会った昼のこと。
 共に過ごした日々のこと。
 そして、彼女が去った夜のことを。

「お別れの挨拶にまいりました」

 夜遅くに帰ってきた精霊は、魔女と顔を合わせるなりそう告げた。なんでも彼女は、朝から挨拶回りをしていたらしかった。町長に頼み、町中の人々を集めてもらい、全員に等しく感謝の言葉を伝えたのだという。

 精霊は、魔女をその場に呼ばなかった。
 魔女と二人どうし、最後の時間を過ごすために。
 その理由を、彼女は「えこひいき」だと語った。

「わたしのための、あなただけの魔法です」

 精霊は笑みとともに、魔女のささくれた額へと接吻をした。
 瞬間、魔女は確かに見た。
 ふわりと霧が咲き、天へと昇っていくさまを。

 みていてほしい、と。

 最後に耳へ届いたのは、そんな一言だった。


「──あたしだけの魔法、か」

 目を開けて、魔女は天を仰いだ。

 降りしきる雨に映し出されたのは、壮麗なる白亜の宮殿だった。どうやら“ここ”が、今日の精霊の旅先ということらしい。それが視えるのは、魔女を除けば誰一人としていなかった。

 精霊が旅立ってからというもの、魔女は数え切れないほどの雨景色を目の当たりにした。

 ある時は、活気に満ちた市場や、閑静な街並みを。
 またある時は、緑豊かな大地や、澄み渡る大海を。
 そこに住まう種々の動物と、異国の人々の往来を。

 最初の頃こそ、かつて旅した記憶と重なる場所もあったが、今となっては未知の景色ばかりである。目まぐるしく移ろいゆく光景は、さながらはしゃぐ幼子のようであった。

「まったく、仕方のない娘だね」

 魔女は、ぽつりと呟いた。かつて巫女だった頃とは似ても似つかない、心からの笑みを浮かべながら。


<了>

Illustration:山本すずめ(超水道)

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