動物病院でトラブルになった話

動物病院へ猫を連れ開店の少し前に着いた。
入り口前のベンチに一旦置いた猫用キャリーケースを両手で持とうとした瞬間、突然蝉が私の頭に激突した。

思わず手に力が入り、キャリーケースの格子に指が入ってしまった。
両手の10本中6本が犠牲となった。
指が抜けず、豆腐小僧のポージングで猫を抱える悲惨な状況となった。
しかも頭には先程の蝉まで停留している。

絶望の淵の最中、近くにいた小学生くらいの少年と目があった。
この状況を打破できるのはこの少年しかいない。
しかし、声かけを一歩間違えば事案が発生してしまう。口下手の私には障壁であった。 
まだそんなに暑くもないというのに、汗が出るほどに緊張が走った。
もし少年が虫が苦手でなかったら是非頭の蝉を取って頂きたい、その思いで私は彼を驚かせぬよう慎重に語りかけた。

「少年…私の頭の虫についてどう思う…?」
少年の目に、頭に蝉を乗せ発汗し息遣い荒く妙な質問を投げかけてくる不気味な大人が映った。
なんなら蝉も私の頭上で
「ジ……ジィ……」
と、ジャブ打ち程度に呟き、この不気味な問いかけに加勢している。
「虫は苦手です」などと返答を一歩間違えれば「ならば虫になれ」と謎の力で頭の二匹目の蝉にされそうな雰囲気が出てしまった。
不審者か怪人の類いか、どちらの線も捨てきれぬ存在となった。
少年は瞳に警戒の色を滲ませ、こちらを振り返りながら走り去った。
防犯教育が行き届いているようで何よりである。私はその背中を蝉と共に見送った。

ややあって開店時間となり、動物病院のドアに掛かるロールカーテンが上に上がった。
その瞬間、看護師は頭に蝉を携え真顔で立ちすくむ不審者と目が合う事態となった。
看護師の動きが止まった。

しばし間が開いた後、看護師がドアを僅かに開けた。
自宅に知らぬ人が来訪した際、チェーンを付けたまま応対する時のドアの幅であった。
「何があったんですか……」
と、声を振るわせながら訊ねられたので、説明しようとした矢先蝉が本気で鳴き出した。

何故このタイミングなのだろうか。
私も泣きたい気持ちになったが、看護師は既に半泣きであった。
とりあえず頭の蝉を取る為、私はそのままドアの前で待機し、看護師が獣医師を呼んだが
「先生、やーこさんに…虫がたかってます!」
と、何か嫌な誤解を招く発言がなされた。
私が獣医師ならば「丁重にお帰り頂いて」
と申している。

獣医師はもう嫌な予感がしていたのだろう。
既に若干震えながら奥から顔だけを覗かせた。
「今度は何があったんですか……」
と再び問いかけられた。私は「蝉に被弾し指が挟まった」と己の身の上を話すと
「今……行きます……」
と声を振るわせながら、その言葉とは裏腹に一度壁の向こうに引っ込んだ。

すると、先程の少年が虫取り網を持って現れた。装備を整え救出に来てくれたのだ。
何と心優しき少年であろうか。
蝉の捕獲に取り掛かった際、網に反応したのか蝉は飛び立とうとした。
しかし私の髪が足枷となり、蝉は予想外の動きを見せ、我々はパニックとなった。
「ジジジジジジジジジジジジジジジジジジ」
と頭付近で荒ぶる蝉。全く関係ない所に向かい網を振り回す少年と、叫ぶ看護師。蝉に髪を引かれ猫を持つ汗まみれの飼い主。
見ようによれば、私が髪で蝉を操り、看護師と少年を襲っているようにも見える。
獣医師はようやく精神を落ち着け出てきたがタイミング悪くその光景を見てしまった。
後に彼はその時の事を強めの悪霊退治の光景のようであったと語った。
客が私だけで本当に良かったと思う。

【追記】
その後、半泣きの獣医師により蝉は私の髪から解放され空高く飛んでいった。
ようやく猫の診察が始まったが、猫の爪切りよりも先に私の指を抜く作業が行われた。
まさか今日の開院最初の作業が人間の指になる事とは思わなかった事だろう。

キャリーケースを診察台に置き、落ち着いて指を抜く作業にかかったが、先程から猫が私の指を舐めている。
そのうえ抜こうとすれば指を軽く噛み奥へと引っ張っている。
ラスボスはここにいた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?