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服装、いで立ち…学校で教えたほうがいいんじゃない?

私たちが幸せになるってどういうことなのか?

誰もが幸せになりたいと願いながら、幸せというものについて「こうだ」と言われてもしっくりこないことが多い。

とくに結婚や愛については、学校で習うこともなかった。

大事なことであるのに、保健体育でちょびっと触れられるだけだ。


愛もそうだけど、ほかにも、とても実際的で、大事なことを、私たちの学校は教えてくれていない。

そのことが、職業に貴賤を作りだしているような気がしてならない。

例えば「装い」に関すること。
むしろおしゃれは、ほとんどの学校で禁止されている。

ルックスの良しあしで、生涯年収が二千万違う…とかいう話は抜きにしても、見た目の良しあしではなく、マナーとして身なりを整えることは、人が生きていくうえで実践的な知恵だと思う。

身だしなみと、マナー、立ち居振る舞いは、たいてい比例しているものだから、立派な人格を育てたいと思ったら、見た目を整えることも必要なはずだ。

少なくとも、論語でいう「礼」というのは、仁という人格的高みに近づくために、身なりや態度を整えることは大切だよ、という考え方のはずだ(中島敦の『弟子』を読んで、私は「礼」をそういう風に理解している)


基本的人権の観点からも、「出るとこ出たときは、バシっと決めまっせ」という自信はとても大切だと思う。

そもそも職業に貴賤はないのは当然だけれど、

「わたしは普段作業着ばかりで、公の場に出たことがないし、人前で話したこともないから、自信がなくて発言できません」と、及び腰になる人は多い。

ひょっとしたら、投票率の低さにも影響しているかもしれない。

職業に付随する身なりが、「わたしは、人を選んだりできる立場の人間ではない」と自分を不必要に卑下する人を、作り出していないとは言えないと思う。

主張できることも主張できないで、損をしている人が、21世紀になった今も少なくない。そういった人が、静かに、黙って、不景気という水に沈んで溺れ死んでいっている。

そういった状況に人を追いやらないようにすることも、教育が果たすべき、大切なことだと思う。

主張すべきことを、主張できるように。
自分の権利を主張することは、人の権利を侵害することになんかならないってこと。
そういうことを、学校は教えていない気がする。


「分をわきまえろ」
「学生らしく」

と、抑圧することばかりしている気がする。

違う。

どちらかというと、エゴをまき散らしているのは、どっちかっていうと、社会の上のほうにいる立場の人たちだ。

先日、リーマンショックを映画化した『マネーショート』を観たけど、あれだけの人災を起こしておいて、逮捕されたのが一人だけ。

政府も銀行も無責任でめちゃくちゃなことをして、しかも世界中に迷惑をかけたにも関わらず!

割を食ったのは、事態の加害者でも何でもない、むしろ銀行に騙され、家を奪われた移民や貧困層だ。


スキンヘッド、入れ墨、ひげ、タンクトップでいかつい体形…トラックの運転手かな?という出で立ち。いかにも「貧困層らしい」「労働者階級らしい」服装で、一見暴力的で、粗野に見える人たちは、ただの被害者だった。

服装は、大事だ。
装いを学校教育で教えるべきだと思う。


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