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「日本のいちばん長い日」(2015)感想

私たちには、当たり前の日常がある。しかし、その当たり前がどうして当たり前なのか、何を犠牲にして、誰のおかげで成り立っているのか。それについて考えを巡らせる人は少ない。しかし、一年に一度、そんなことを考える日があっても良いのではないか。

映画や小説などは、そうした「考えなくても良いこと」を考えさせる契機を与える。私は「日本のいちばん長い日」(2015)を見て、戦争について考えを巡らせた。

※本稿は筆者の個人的見解である


「日本のいちばん長い日」あらすじ

「日本のいちばん長い日」(2015)は半藤一利の『日本の一番長い日 決定版』を原作とした終戦の8月15日をどのように迎えたのかを克明に描いたノンフィクション映画。あらすじは、公式サイトより引用する。

太平洋戦争末期、戦況が困難を極める1945年7月。連合国は日本にポツダム宣言受諾を要求。降伏か、本土決戦か―。連日連夜、閣議が開かれるが議論は紛糾、結論は出ない。そうするうちに広島、長崎には原爆が投下され、事態はますます悪化する。“一億玉砕論”が渦巻く中、決断に苦悩する阿南惟幾陸軍大臣(役所広司)、国民を案ずる天皇陛下(本木雅弘)、聖断を拝し閣議を動かしてゆく鈴木貫太郎首相(山﨑努)、ただ閣議を見守るしかない迫水久常書記官(堤真一)。一方、終戦に反対する畑中少佐(松坂桃李)ら若手将校たちはクーデターを計画、日本の降伏を国民に伝える玉音放送を中止すべく、皇居やラジオ局への占拠へと動き始める・・・。  
(引用:松竹公式サイト https://www.shochiku.co.jp/cinema/lineup/nihonichi/)

1.阿南惟幾陸軍大臣(役所広司)の葛藤

作中では、阿南は葛藤を抱える男として描かれていた。本土決戦を主張する畑中少佐ら青年将校と戦争を終結させるという聖断を下した昭和天皇との板挟みにあった。それでも阿南は青年将校らにクーデターを起こさせないために表向きでは本土決戦を主張する一方、昭和天皇の戦争を終結させるという聖断を汲み取り、終戦へと向かうように尽力していた。自らを犠牲にして日本という国の未来を担う若者を守った姿に胸が熱くなった。

それでも、阿南が抱える葛藤は想像を絶する。それを象徴する場面が作中で洋楽が流れるシーンだ。突然流れた作中の舞台とはマッチしない洋楽。これはポツダム宣言を受諾し、日本が連合国に征服されて、日本文化が根絶やしにされるという阿南の不安が象徴されたシーンではなかろうか。戦時中の人々が何と闘ったのか。私たちは戦争を反対するだけでそれについて考えようとしない。まさにこのシーンは今を生きる私たちに戦時中の人々が抱えた不安というものを想起させる。

2.私たちに託されたバトン

そして、最後のシーンも印象的だった。玉音放送を最後まで流すことなく、映画はパタッと終焉を迎える。それは、私たちに玉音放送が流れた過去と、今映画を観ている私たちとの世界はつながっていることを私に痛感させた。平和を享受する現代の私たちはどこか太平洋戦争を戦った日本とは別の世界に住んでいる感覚がないだろうか。少なくとも、私にはあった。頭では日本で起きた戦争だと理解していても、感覚レベルでそれを分かっていないのだ。本作品は、私たちに戦争の存在を痛烈に印象付け、現在の平穏の世界があたりまえでないことを教えてくれる。

1945年8月15日、自決した阿南が横たわる傍らで妻が語りかけるシーン。彼らの背後に見える平穏な庭の風景が忘れられない。今、私たちが目にする平和は彼らの「生」を礎に成り立っているのだ。そのことは胸に刻まなければならない。

※本稿は、筆者の個人的見解である

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