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2050年にもう一度観たい。『竜とそばかすの姫』を考える

 『竜とそばかすの姫』を観てきた。大規模のプロモーションが打たれ、私の友人も数多く観に行っていた。観賞前においては、個人的に賛否両論が分かれている印象が強く、なかには鋭い批評をTwitterやnoteなどのSNSで目にすることも多かった。ただし、その批評のほとんどすべてが作品の主題を基にするものであり、その一方で作画や音楽などは絶賛されている。事実、私自身、視聴し終えた感想としては「非常に面白い作品」だったと言える(何様)。

 「面白かった」と言い切ったうえで、さらに皮肉的にこう付け加えさせてほしい。

「2050年に見たら、もっと感動するだろう」と。

 というのも、私は本作に対して、「面白い」という感情だけでなく、胸に迫る閉塞感や圧迫感から、

スクリーンの前から逃げ出したかった

のも事実であるからだ。そこを起点に本作に迫っていきたい。

舞台は「いつ」なのか?

 そもそもの話であるが、本作の舞台は「いつ」なのかを考える必要がある。明確な描写を見逃していたら申し訳ないのだが、街並みの様子、そして今と変わらぬ高知駅の姿から、きっとそう遠くない未来、もしくは「現在」である可能性が高いように思える。

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⇧高知駅の写真(こんな描写が作中にもあった気がする)

 その一方で、アプリケーション〈U〉は、AIの顔認証システムなどの技術を集結させ、生身の人間と同じような生体を持った分身を〈As〉として作り上げる。

「〈As〉はもう一人の自分」

作中にもこうしたセリフがあるように、生身の身体を持つ「私」と〈As〉は密接につながり、ほぼ一体化している。まさに、現代社会の技術を超えたSFの世界観。つまり、この技術に関しては、現代社会とは明らかに違うのだ。今のネット社会(主にSNSだろうか)においては、生身の人間性は全く存在しないだろう。

つまり、登場人物たちが生きる舞台は現代社会とほとんど変わらないのに、技術については未来的。SFでありながら、SFになりきれていない。

もしかしたら、こうした要素が細田守監督の醍醐味であるのかもしれないが、本作に関して言えば、このある種の矛盾を覚える世界観がどうしても許せなかった。

オブラートに包まず言うなら、それは気持ち悪かった

 舞台は現代、その一方で〈U〉の技術は未来(※ここではシンギュラリティ後の2050年くらいをイメージしよう)。そんな矛盾を孕む世界で、17歳の女子高校生・内藤鈴(すず)は、「ベル」という〈As〉となり、歌姫として世界を席巻していく。自分に自信が持てない人がネット社会を通じて、自己承認欲求という危うさを持ち合わせながらも、強く成長していく姿はなかなか共感できた。

 そんな鈴が、物語のクライマックスで「竜」を救うべく、「ベル」を殺して「アンベイル」することを迫られ、最終的にそれを選択する。

周囲の友人、合唱隊のお姉さま方も「アンベイル」の瞬間を目撃し、それをそこにいる全員、そして〈U〉にいる〈As〉までもが、美談、または「正義」として消費するのだ

私は「アンベイル」を選択したこともさることながら、周囲がそれをこのような形で消費したことに心底気持ち悪いと思ってしまった。

 もし、本作に舞台が2050年で、仮想空間と身体を持つ「私」とのつながりが限りなく一つになりつつある世界なら、

「ネット世界の「私」と現実の「私」を接続することは普通であり、賞賛されることなのかもしれない」

と思うことができた。匿名性よりも、身体を持つ「私」という存在の同一性が尊重される世界を希求しているんだなと消化できたかもしれない。

 しかし、舞台は、少なくとも2050年と言うことはできない。

 現在と限りなく地続きにある世界で、自身が「アンベイル」を選択すること、そしてそれを周囲が賞賛することは非常に考えにくい。少なくとも、今のネット社会に生き、作中に現代のネット社会を投影していた私からすれば、理解しがたい描写だったのだ。

現代のネット社会で…

現代のネット社会は、ネットにおける「自己」と現実における「自己」を切り離して考えることが許容されている。

それがネット社会における一種の「優しさ」だと私は考えていた。Twitterで複数のアカウントを所持して、現実の「私」とは異なる「私」をそこでは演じ、新しい関係性や「自己」を紡ぎだす。

平野啓一郎が「分人」という概念を提示したように、多元的な「自己」があっていいと認められることは、特にネット社会では当たり前になりつつある。

 しかし、本作における「アンベイル」とは、鈴のもう一人の「自己」であったベルを殺し、たった一人の、現実に生きる「自己」だけが許容された。そして、それを大多数の〈As〉が賞賛した。現実世界から逃れて〈U〉にいる人も多くいるはずなのに、なぜか現実の鈴を見て涙するのだ。

果たして、ネット社会は鈴が得たような「救い」のために存在するのだろうか?そして、現実の「自己」を多くの人が認められるほど、強く、美しいものなのだろうか?

 何度も言うように、これが2050年の世界で、今とはネット環境を取り巻く世界も異なると言うなら、分かる。きっと、今より強く、美しいネット社会ができているんだなと、遠い目をしながら言うことができる。

前半の鈴に共感するか、後半の鈴に共感するか


「アンベイル」すること=正解

⇧のようなクライマックスは、それこそ現実の「自己」に自信のある人にとっては、感動的なカタルシスをもたらしたかもしれない。まるでそれは、強く現実に生きる人たちが、鈴に対して手を差し伸べて、自分達の世界へ迎えることができたようなものかもしれない。「鈴、お前は仲間だ」。そんなセリフが聞こえる。

 ただその一方で、前半の鈴に共感した、自分に自信がなく、ネット世界を逃げ場にしている人にとっては、「現実を生きなさい」と周囲を包囲されたとてつもない閉塞感と圧迫感を覚える。マイクに囲まれた鈴の描写があったが、まさにそれだ。

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 私は明らかに後者であったので、辛かった。そして、この二つが賛否が分かれる原因ではないだろうか?

そして、ネット社会の否定へ

「〈U〉はもう一つの現実、〈As〉はもう一人の自分」

 そう言っておきながら、最後は結局、現実の自分で本当の現実を救う。

私にとってこの事実は、痛切なまでのネット社会の否定に感じられた。

 というのも、ネット世界にはネット世界なりの救い方があると信じていたから。例えば、一見するとベルと同類のような「初音ミク」をはじめとした「ボーカロイド」(通称:ボカロ)。

 しかし、彼女たち「ボカロ」の存在は情報空間でのみ完結し、そして彼女たちの歌声は、多くの人に勇気や希望を与えた。

「ボカロ」を使って表現することで人を救い、救われ、楽曲を聞いて救われる。

ベルの救い方は、初音ミクたちとは正反対、地球の裏側、そのまた銀河系の果てくらいまで遠くに位置すると私は思う。

(もちろん、そこに横たわっていた問題(児童虐待)をネット社会で解決することは難しいことは理解している)

もしかしたら、僕はただの「懐古厨」

 まとめると、匿名性の高いネット社会で救われてきた人と、その匿名性を非難し自信を持って現実世界を生きてきた人との分断が鮮明になる作品に私は思えた。

 ただ、もしかしたら私が思うネット観がもはや古臭くて、懐古厨になってしまっているのかもしれない。それでも、私も現代のネット社会に生きる人としての自負がある。だから、いまここに書いたネット観が時代遅れ、老害になりうる「2050年」に見たら、きっと私ももっと感動して、泣ける気がする。タイムマシンに乗り込んで、2050年の自分と本作について語らいたいものだ。


 冒頭でも示した通り、作画、音楽、脚本の精度など、全てにおいて最高の作品であったことは間違いない。そもそも、この怪文書を描くのに約6時間。ここまでの熱を注ぎたくなる作品なんて、そうない。とても良い作品だった。

※2021/7/21の日記に代えて

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