薬師丸ひこうき

秋田で生活している人です。 雑多なことを書きます。

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最近の記事

原稿用紙と間違えられたチリ紙その11

創作意欲というものが小さくなったのは 今年の3月に精神がクラッシュしてからだった 脳にモヤというより 深く濃い霧が立ち込めている感じである もうダメかもしれない 何もかも終わりか… そう思っていたのだが まだ終わらずにいる 今度ひとりでギターを持って スタジオにでも入ってみようか

    • 原稿用紙と間違えられたチリ紙その10

      いつの間にか月1のペースになっている。 仕方がない。書くことが見当たらないのだ。 書くことが見当たらないということを今書いている。 今、私は何がしたいのだろう。

      • 原稿用紙と間違えられたチリ紙その9

        立川談志、という噺家がいた。 私は生前、落語は見たことなかったがテレビではその存在を知っていた。 その後落語を好きになって立川談志という人の落語や人間を知ることになる。 立川談志という噺家は「なんとなく好き」とか「なんとなく嫌い」とか曖昧な線引が難しい人だと思う。 「大好き」か「大嫌い」のどっちかだと思っていた。 しかし私は談志のCDも持っているし本も買っているのだが、所謂「談志信者」にはなっていない。 「噺家」として他の噺家と同じカテゴリーなのだ。 古今亭志ん

        • 原稿用紙と間違えられたチリ紙その8

          現在、療養中である。 四六時中頭にモヤがかかった状態。 それでも幾分かは良くなってきた。 明日のことなど、誰にもわからぬ。 そうして寝るだけなのだ。

        原稿用紙と間違えられたチリ紙その11

          原稿用紙と間違えられたチリ紙その7

          頭の中がこんがらがって もう何がなんだかわからなくなると 人間は涙が出てきてしまう 今、まるで 悪い夢を見続けているような そんな感じである 私だって 喚き散らしながら 大声で大泣きしたくもなる

          原稿用紙と間違えられたチリ紙その7

          原稿用紙と間違えられたチリ紙その6

          年が明けた 2024年である そしてもう1月が終わろうとしている そしてそして何やらいろいろ騒がしくきな臭い 自分の芯がブレてしまいそうだ 惑っている 心が惑っている私がいる アンダーグラウンドを原点とした私がいる 地下芸人 地下が私にはお似合いかしら 潜れっ

          原稿用紙と間違えられたチリ紙その6

          原稿用紙と間違えられたチリ紙その5

          この数週間 ずっとお笑いのことを考えていたら お笑いの分析をし始めて あっ これは 考え過ぎてわからなくなるパターンだ そう思って 一旦考えるのをストップしたら 水曜日のダウンタウンの スベリ-1グランプリが 観たくなった

          原稿用紙と間違えられたチリ紙その5

          原稿用紙と間違えられたチリ紙その4

          恥ずかしい時 穴があったら入りたい という言葉を使うけれども その穴は勝手に空いてるのではなく 自分で掘らないといけない そして 自分で掘ったその穴のことを 墓穴と言うのだろう 詰んでる

          原稿用紙と間違えられたチリ紙その4

          原稿用紙と間違えられたチリ紙その3

          やり場のない感情を 表すことができる言葉 そんなものがあれば とっくに言語化している 言葉にならない 妥当な言葉が見つからない そんな感情が湧いてきたら どうすればいいだろう とりあえず 言語化する作業の前に 湧いてきた感情を 抱きしめることができたら そう思います イチニョッキ

          原稿用紙と間違えられたチリ紙その3

          原稿用紙と間違えられたチリ紙その2

          ご自由にお書きください。 とnoteを開くと表示されている。 しかし自由とは果たして何を指しているのだろう? 自由とは言いつつも なかなか自由にできないものだ 自由は難しい うーんうーんうーんと 考え込んだら それは自由の思う壺 自由に縛られてしまう 難しいネ くるっくるーのやっほっほー

          原稿用紙と間違えられたチリ紙その2

          原稿用紙と間違えられたチリ紙

          頭の中で 何か考えがあって それをまとめようとしたら こんがらがって 絡まりを解こうとしたら 余計に複雑にこんがらがって ぐるぐるになって 頭の中からゴトンと 音を立てて 鉛のような塊が 転がり落ちてきた こんがらがり過ぎて もはやなんだかわからない ダークマターを 瞬間接着剤で塗り固めたような 小学一年生の男子児童が 謎の情熱で作り上げた ピッカピカの泥団子のような よくわからない「ソレ」は 排水溝を通って どこかに出かけた 頭の中

          原稿用紙と間違えられたチリ紙

          等身大

          等身大のありのままの自分を感じた時に、 ああ自分は才能もクソもない まるで石ころのように 何も持っていない何者でもない チッポケな物体じゃないか と思い心の底から絶望した。 心がおかしくなった。 でも何故か今は逆に 石ころならば 石ころなりに この人生を 如何にして楽しむか そう感じるようになった。 等身大のありのままの自分を受け入れる。 まだ時折うぐぐぐぐとなるけど 前よりは大丈夫。 石ころのようなチッポケな何者でもない自分。 それってボブ

          カップ焼きそばゴーイングマイホーム

          今日、お昼ごはんを買いに近所のスーパーマーケットへ行った。 最近カップラーメンや弁当が多かったのだが あ、久しぶりにカップ焼きそばにしようかな そう思ってカップ焼きそばを買った。 久しぶりに食べたカップ焼きそばはとてもジャンキーで美味しかった。 なんで最近買ってなかったのだろう。 お湯を捨てるというわずかな手間をめんどくさがっていたのだろうか。 そう思いながらまた今度もカップ焼きそばを食べたいと後片付けをしながら考えていた。

          カップ焼きそばゴーイングマイホーム

          さよならようちえん

          私が通っていた幼稚園が今年閉園した。 理由は様々あるみたいだった。 何が決起になったのかは私は当事者ではないので知る由もない。 既に解体工事が行われていて、昨日見たらほぼほぼ取り壊されていた。 はっきりとした記憶が少ないとは言え自分が通っていた場所が無くなってしまうのはやはり寂しい。 物心がつく前からどうやら私はひとり遊びが好きだったようで 母から後で聞いたのだが ひとりで遊んでいた私を先生が可哀想に思ったのか みんなが遊んでいる中に「こうちゃん(愛称)も入れ

          さよならようちえん

          切ない気持ちぶらさげて

          最近、俗に言う懐メロというものを聴くことがたまにある。 私にとっての懐メロは1990年代から2000年代にかけてのJポップなどのヒット曲である。 単純に好きだというのとノスタルジックな気持ちに浸りたいという感覚が好きなのである。 しかし最近新しい感覚が出てきた。 私が懐メロを聴いていた学生時代のことを思い出す。 学生時代はとても明るい華やかな青春とはかけ離れていたように思える。 その当時考えていたのは「この学校というところから抜け出せばきっと少しはマシな未来があるはず

          切ない気持ちぶらさげて

          秋田にいたマネカタッ

          マネカタッ この単語でピンと来る人が秋田で何人いるだろう。 マネカタッとはバンドの名前である。 今はすでになくなってしまったバンドである。 誇張無しで、私が秋田の地元バンドのなかでトップクラスに好きだったバンドである。 そのバンドについて少し書いてみようと思う。 これは評論なんかではない。ただのファンであった私の思い出である。 マネカタッとは マネカタッは当時呑んだクレイジーというバンドをやってチャーン・クレイジーさん(ベース、ボーカル)が中心になって活動して

          秋田にいたマネカタッ