原稿用紙と間違えられたチリ紙その9

立川談志、という噺家がいた。

私は生前、落語は見たことなかったがテレビではその存在を知っていた。

その後落語を好きになって立川談志という人の落語や人間を知ることになる。

立川談志という噺家は「なんとなく好き」とか「なんとなく嫌い」とか曖昧な線引が難しい人だと思う。

「大好き」か「大嫌い」のどっちかだと思っていた。

しかし私は談志のCDも持っているし本も買っているのだが、所謂「談志信者」にはなっていない。

「噺家」として他の噺家と同じカテゴリーなのだ。

古今亭志ん生も桂米朝も三遊亭圓丈も桂歌丸も、或いはそれよりも若い人たちもみーんな同じ「噺家」なのだ。

ただその中でも特殊なのはたしかである。

私は立川談志の生前語っていたり文章に残していたりしていた価値観、了見に対しては満場一致で賛同はできない。

しかし「これはたしかにそうだな」とか「これは今の時代、落語以外にも通ずるな」ということもある。

立川談志のようになりたいとは思わない。そもそもあんなめちゃくちゃな人になれっこない。

ただアンチ談志は全てを否定している(実際そういう文章を何遍も見た)が私はアンチではないので心のどっかに「立川談志の了見」というのがこびりついている。

だから聴いてしまうのだろうなあ。

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