顔はいつだって決定する。
顔ってなんなんだろう。
それはかんたんです。
薄皮表皮一枚に、色が貼りついたものです。
その色彩は地球上のひとの数だけあります。
たとえば、赤、黒、茶、黄、白、青、原色とか。
それらの色の配合で、その些細な強弱加減で、千差万別のさまざまな顔色が作られるのです。
出来上がった色味は、ときにたいそうな扱いで、まるで精神性などは入り込む余地もなく、なぜだか人間性まで判断、評価、そしていつだって決定されるのです。
そして、差別や偏見が、不条理が、ほら、始まるのです。
すべての差別の、偏見の、だれがどうやっても抜けなかった、抜けないふとくふかい根っこは、思想の違いなんかではなく、もしかしたら、ほぼ、顔を一例とする、出発点は「見ため」からの派生なのではと、厭なことをふと思うのです。
仮にもみんな、おんなじ顔だとします。
なぜだか額には記号やら印やら番号がついていて、それで個人、他者、個性を識別するのだったら、すべての優、可、劣のあらゆる感情は、いやはや、きっとすくないでしょう。
犬や猫の世界は白黒の世界らしい。
あゝあゝはたしてすばらしきモノクロの世界かな。
顔ってなんなんだろう。
顔面(質、色、位置、大小、濃淡、陰陽、全体像など)に好みがあるのは、当たりまえの当然です。
わかっています。
しかしながらいまさらながらに、ノーマルってなんなんだろうと時折に考えてしまいます。
だってもしも緑色が標準の顔色だったら、それが普通で当たり前になるわけでしょう。
すべてかたまりきった思いこみかもしれません。
顔ってなんなんだろう。
ひょっとしたら・・・忘れてない?
顔面1ミクロンうす皮はげば、みな同じです。
ひょっとしたら・・・忘れてない?
誰もが偶然にこの世界に生まれてきたことを。
そこには何一つの理由などないことを。
世界中、おかしなことだらけです。
とはいえ、悟ったようなことを言いながら、やっぱり少なからず、好きや嫌いを顔で判断しているわたしがたしかにいるのです。
死ぬまで、顔面に執着している自身がいるのです。
これは子孫を残すために、かみさまが、あたまの中にかってに埋め込んだ、なにかの仕業なのです。
結局、これもまた、分からずじまいです。
普通やら標準の価値は、先人たち、過去の膨大な遺伝子が脳内にインプットされてしまった、そう、理由なき、引きつぎなのかも知れません。
顔ってなんなんだろう。
エレファントマン、怪人、ばけもの、カジモド、カラフルエレファントを口ずさみながら。
お笑い芸人の、もう顔すてたろか、のギャグが冴えわたります。
そう、そう、みんなで顔をほかしましょう。
でも、でも、やっぱり、みんなのわらい顔、よろこび顔、そしてやさしい顔が大好きです。
顔ってなんなんだろう。
努力をしてなったわけではない美しき人たち。
おもいやり、やさしいこころ。
んん、ああ、ふと、むかし読んだ、安部公房の「他人の顔」を思い出した。
ぞっとした。
*昨日、友人とオペラ座の怪人を観劇しました。
とうぜんにコンプレックスを抱いて生きているわたしには、深い嘆きがやるせなく、心のなかにはまり込み、そして愛おしくも感じました。
影響もあってかなしか「顔」について、すこし書いてみました。
*横尾忠則さんの迫力ある画を使わせていただきました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?