温かみへの憧れ、人の愛し方を学ぶ
昨日、オーストラリアで一緒に住んでる家族と夜ご飯のときに恋愛の話してて「初めて彼氏ができたときも親に言わなかったし、今の彼氏も親は知らない」って言ったらすごいびっくりされて、びっくりした。
隠してるとかじゃなくて、あんまり自分のことを親に話すっていう発想ない。聞かれたら答えるだろうけど。いや、聞かれたらちょっと面倒臭いかも。みんな親とどこまで話す?てか何話してる??何聞かれたらウザい???(どんな質問)
オーストラリアの家族と住んでて、うちと全然違うな〜と思うことがよくある。今の仕事(オーペア)は何かと自分自身や自分の家族について考えさせられる。日本での知名度ほぼないけど、奥深い仕事だと思う。異文化の他人の家に家族のように一緒に住むのは貴重な経験です。
私にとって家族は、もうちょっとなんか、なんとなく所属しているコミュニティという感じがする。愛着はあるが、世間が言うほど近い存在でもないという違和感は何となくある。もっと他人な感じ。でも目の前でうちのオカンと友達のオカンが相撲取ってたらうちのオカンを応援すると思う。何の話。
オーストラリアにいると、親子の愛情のやり取りが見えやすくて時々羨ましいときがある。そいや私はずっと「温かみ」みたいなものに憧れがあるなぁと思った。温かみとはなんぞや、という話になるんですが、私には情緒的なコミュニケーションやケアがそれに当たる。いろんな愛情の示し方があると思いますが、私と親の間に欠けてたものがここではよく目につく。
そういえば、オーストラリアの子どもたちとの関わりで一番困ったことが、そういう情緒的なコミュニケーションの仕方がわからないこと。例えば、学校で嫌なことがあったとか、絵が賞に選ばれなくて悲しいみたいな話をされた時にどう関わればいいのかわからない。相手が大人だとそんなことないんですけど、なぜか子供になると「正解の対応」を求める自分がいる。そういう経験してこなかったし、どうすれば自立を促しながら安心させられるんだろう、とかも考える。
私は子供の頃からネガティブな感情を外に出すことが滅多になかった(メリットがないという感覚がある)ので、子供たちがそういう感情を私に伝えてくれた時に「そっかー、でも私に解決できるものでもないからな」とか咄嗟に思ってしまう。言わないけど。これを言うのがうちのオカン。反面教師。笑
話は聞くし、その子にとってネガティブな感情を吐き出せる大人の一人であれていることは嬉しい。でも対応の仕方がわからん。安心できる大人でいたいのに、大人に安心した経験が少なくて困る。だから、調べたりママの対応を参考にしてる。以前よりはしっくりくる対応できるようになってきました。共感できないのに共感してるフリしてると言われたらそれまでですが、今の私なりの愛ではある。
相手が子供となると、自分のその子に対する言動がその子の人格や人生に大きく影響すると思うとすごく責任を感じる。その子が持つべき責任を奪うようなことはしたくないですが。自分がこの子のためにどうあるのが正解なのかをよく考える。第二言語だからの大変さもあるけど、母国語でも大事なことなので。たまに考えすぎだと思うけど。
今の子たちは一緒に住んで、いろんなことを乗り越えたり、ママ(里親)も仕事で家にいないことが多くて私が半分オカンみたいな役割なので尚更考えすぎてしまう。実母とも離れて暮らしてるので下手したら私は一番、一日で共に過ごす時間の長い大人だ(一般的なオーペアはここまでではない)
話が逸れました?が、温かみに憧れるとはいえ自分を冷たい人間だとか、親に愛されなかったとは思っていない。思ってたことはある。でも親には親の価値観や考え方があり、彼らが私に与えたいものを与えることで、私に必要だったものが与えられなかっただけ。こんな風になりたくない!もっとこうしてほしかった!と否定的だった時もあったけど、その思いが強すぎるとまた新たな苦しみを生むな、と思った。私が子供を持つかはわからないけど、持つなら、私の母まで繰り返されてきた極端ものをできる限り自分の代でゆるやかにしたいなぁと漠然と思っている。その気持ちが極端になったりして!笑 てかどんな人間が生まれてくるのかもわからないし、どんな人間と育てるのかもわからない!しらん!なんちゅう体験や、、、
とはいえ、私の母も母なりの信念がある。彼女の生き方も、彼女の生きてきた時代からすれば革命的だった。女性の社会進出、仕事や自己実現と育児の両立に最前線で立ち向かった世代。信念が強い人なので相当風当たり強かっただろうと思う。控えめに言って気の強さエグい。今や同世代の一般的なお父さんより地位と稼ぎがある。逞しい。親戚にはよく育児放棄とかネグレクトって言われてたけど、母はベストを尽くしてくれたと思う。それが私を強くしてくれたと同時に苦しめてる。こればかりはどうやっても正解がない。完璧がないのなら、本当に大事なことってそんなに多くないのかも。いいこと気付いたかも。
親との関係で十分に得られなかったり、教われなかったものも、人生で出会ったいろんな人々との関わりの中で教わってきた感覚がある。
例えば「人の愛し方」なら、それは誰かにされて嬉しかったことかもしれないし、誰かを好きになった時に初めて生まれたかもしれない。人を傷つけたり傷ついた経験かもしれない。海外で出会う異なる文化で育った人々からも学んでると思う。そりゃ親にしかできないこともあったと思いますが、親だけでなくいろんな人からいろんなカタチの愛をもらったことは、私を豊かな人間にしていると思う。もちろん今の人間関係からも。言葉だけじゃなく、やってくれたこと、やらないでくれたこと、色々。今の私が気付いてないものも沢山あると思うし。
今でも「こういう優しさもあるな」みたいな新しい気付きある。海外に出ないと出会わないものもある。外国人扱いされないことの優しさとか、個人的に大事な経験だなと思う。こうやって想像力が鍛えられていくんだな。
私たちは、人と出会ったり仲良くなったりしながらお互いにいろんな愛を教え合っているのかなあ。世界に誰一人同じ人はいない意味をまた見つけた気がします。
なんか真面目。ではまた〜!