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明日死んでも積読する

学ぶことがあるって幸せですね。学ぶことがあるなんて当たり前なんですけど。じゃあずっと幸せじゃないか、、、、!!

本をよく読む、勉強熱心だ、とよく言われるけど「読む」という行為は元々得意ではないし昔から本の虫というわけでもない。むしろ昔は読書が嫌いだった。大人って何かと「本を読め」って言うじゃないですか。大人に「やれ」って言われること全部やりたくないみたいなとこあったと思います笑。

学校でも読書週間とか今月の目標、○冊読もう!とかあったけどあれ嫌でした。毎日の15分間の朝読書は、仕方なく適当なページ開いたまま前の席の人のつむじ凝視して瞑想してました。(それはそれでウェルネス)

当時は、本を読むことをテストの勉強みたいに思ってました。何で読まなきゃいけないのか聞いても「将来役に立つ」「何かしらのスキルが身につく」ばかり言われるから。なんとなく拒絶してた。将来のために今楽しくないことするのムリ。そんなことより一輪車の立ち漕ぎの練習をさせろ!!!(何を目指していたのやら)

たしか、算数の文章題の問題の意味がわからなくてパニクった時に初めて「本を読んだ方がいいかも」と思った。
え?Aさんが時速◯kmで歩くBさんを分速◯mで追いかけてる?どっちが先を歩いてるんだ?どっちが分速?へ?みたいな。日本語がわからない!アセアセ
お父さんに、どうすれば良い?って聞いたら「本を読むと良いよ」って言われたからその時はちょっと読んだ。(そしてつまらなくてすぐ辞めた)



知的好奇心は強い方でした。子どもってそうだ。読めと言われなくても、読みたくなる環境さえあれば勝手に読むし必要になるタイミングだってあるだろう。勉強も読書も「何かわからんけど役に立つらしいから頑張ろう」ができたらいいけど、私には難しかった。


年を取るほど「面白いな」「知りたいな」という欲求に真っ直ぐになっている。忘れかけた時期もあるけどあの頃の自分には戻りたくない。
ジャンルは、世界の本質っぽいことやより良い自分になるためのこと、、もう地理でも歴史でも何でも知りたい。

役に立つ立たないは別として「知らなかったことを知る」ということ自体が喜びで幸せなんだと思う。良くも悪くも自分の中で満足してしまうのでアウトプットまで及びづらいのですが、時々意図せず誰かの役に立つときもある。そんな時は、知的好奇心が満たされるときとは違う種類の、もっと温かくてじんわりとした幸せが生まれる。

人が本を読む理由はたくさんあるだろうけど、私はだいたい知的欲求を満たしたり、たのしい言葉に触れるための手段に過ぎない。
おそらく考えさせられたい欲求が強い。感じたものを言語化するのも好き。それが満たされれば小説やエッセイなどジャンルも問わないし、必ずしも読書である必要もない。Youtubeでもいいし映画やドラマ(メッセージ性の強いものが好き)でもいい。その辺に貼ってある標語やキャッチコピー、誰かの話でもいい。自分のペースで言葉をゆっくり味わうことが好きだから、必然的に本になるだけかも。


地元の本屋さんはディズニーランドよりワクワクするし、ブランド品より広辞苑のほうが幸福感が長持ちします笑


本がたくさん並んでいると、この未知で不思議な世界に思いを馳せてしまう。絶景を見ると「自分ってちっぽけだな」と思うように、たくさんの本を見ると「自分って何も知らないな」と思う。たまらなく嬉しいんですそれが。何を知らないのかわからないけど、世界は知りたいことで溢れている。

積読は「私にはまだまだ知らないことがある」っていう幸せを可視化しているようなもの。部屋に地球儀を置くのも、世界地図を張るのもそう。月や星がよく見える位置にベッドを置くのもそう。この気持ちはおばあちゃんになっても忘れたくない。

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