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「身体」は詩的

 風呂掃除をした。
 パンツ一丁になって、タイルから天井から、ゴシゴシ磨いて、シャワーで流して。
 こびりついた汚れに奮闘するのは、案外嫌いじゃないみたい。
 昨日は昨日で、リビングのカーテンをブラインドに替えるべく、嫁と二人ニトリへ行き麻のブラインドを幾つか買って来て、付け替えた。
 付け替えた、と一言で言うのは簡単なのだが、これがなかなか大変で、カーテンレールにそのままつけれると書いてあったのでつけようと思い、カーテンのフックかけを半ば乱暴に、外す、というよりペンチでちぎったりしながらなんとか外し、さていよいよブラインドの取り付け金具を取り付けようとする段になって、カーテンレールの端、、、つまりブラインド取り付け金具を差し入れるための唯一の窓口が、壁とピッタリくっついているではないか!
 なんとか、重ねて留めねばならぬ金具の小さい方を、キリで狭い中滑り落ちそうになりながら、なんとか、なんとかカーテンレールの中に入れたが、作業が細か過ぎて、もう氣が遠くなった。ブラインドを5つつけるから、これをあと10回繰り返さねばならないと思うと地獄の沙汰だと思い、カーテンレールを取り外すことに決めた。
 ブラインドを買う段でも、半ば、本当につけれるのだろうか?と不安になっていた。なんせうちは古い家に住んでいるので、色々現行の規格に合わなかったりするんだ、、、。
 しかし、レールを外してしまえばもう無理にでもつけるしかなくなる。思い切って、40年弱の封印を破った。サビて砂のように、いや、化石のようになったネジを一個一個外して行った。
 ずーっと腕を上げた姿勢のまま、天井に向かいドライバーを扱うのはなかなかピアニストの腕や肩にとって苦行なのだが、案外嫌な氣はしなかったのは、もちろん嫁がその日の昼間に買ってきてくれた、ピアニストの女の人のエチケットのビールを飲みながら作業してたためだろうか。
 いや、それだけではない。
 作業自体が楽しかったのだ。
以前、色々アドバイスをもらっている霊能者の方(当人は霊能者という言い方を嫌うが)に僕は前世は楽器を作っていた人と言われていたので、ブラインド一個つけれた時には「前世は楽器職人だったからな!こういうのは得意なんだ!」と喝破しながら、ビールを飲みながら、楽しく気づけば終わる頃には三時間くらい経っていたのだが案外あっという間だった。
 三昧に入っていたのだろう。僕は結構、好きだなこういう、身体を使うことが。「身体を使う」って言うと、運動やスポーツをイメージする人が多いだろうけど、僕はそれらも含め、「身体を使う」にはもっと深い意味と喜びがあると思っている。
 昨夜、ブラインド取り付け終え、一服しに玄関に出ると、いつも一服しながら見る隣家の庭のバサナイ(バナナ)の樹の葉葉や、夜空に流れる雲などが、はっきりとクリアに明確に鋭利にみえたのだ。三昧の後は視界がクリアになる。このひと月ほど鬱期で、昨日は少し落ち着き始めていた頃だったのだが、やはり視界はモヤがかかったままだったのだ、日中は。ブラインド取り付けも、やる前までは、眠いしなんとなく疲れたと思っていたのだが。やり始めるとあっという間だったし、なんなら楽しかった。単調な作業と言えばそうなのだが、単調が故の喜びがあった。ただひたすら身体を使う喜びが。とぐろを巻いて寝ていた氣がようやく、起き、うねり始めた感じ。それで、今日なんかはかなり穏やかな、静かな喜びに浸りながら一日を始め、過ごすことが出来た氣がするのだ。
 それで、冒頭の風呂掃除の話に再び戻る。
 改めて、パンイチで風呂掃除をしながら、熱中する自分に気付いた。嫁と一緒になったばかりのころは、こういった「お家ごと」は芸術家には必要ないと思って、何度か嫁とぶつかったことがあった。
 嫁に怒られながら、お家ごとを、最初は怒られるのが嫌で、という子どもみたいな動機で始めていたのだが、この一年くらいだろうか、風呂掃除はもちろん、皿洗い、洗濯干し、味噌汁やカレー作り、またブラインド取り付けみたいな簡単な大工仕事は率先してやるようになった。僕は楽しかったり意味を自分なりに見出せないと基本動かない人間だが、そんな僕が率先してお家ごとをやるのは数年前は考えられなかった。
嫁はその楽しさに気づいてほしかったみたい。さっきは、明日用のカレー作りをお願いされ、喜び勇んでカレー作りに取り掛かった。作りながら皿洗いなんかしたりして。煮込む間には、玄関先で一服。作務の後のこういう無法地帯的時間は、感覚が変わる。風をいつもより心地よく感じたり、視界がクリアになっていたり。集中度も案外高いのが不思議である。作務は時間を超越する。お家ごとは一日に弾みをつけてくれる。緩急をつけてくれる。一日にリズムが生まれる。お家ごととお家ごとの合間の一服や読書などは集中出来たりする。逆に、お家ごとが無いと、その広大な手付かずの時間に圧倒されて、事が進まなかったりする。
お家ごとは三昧モードを作りやすい。普段創造的なことをやっているので、非創造的な、ある意味単調な、お家ごとをやることで氣が身体に降りていく感じがある。それが、創造的な時間の下ごしらえになったりする。
 お家ごとで金はもらえない。けれど、金がもらえるからやるのではない仕事の意味というのを考えるのは大事だ。昔の日本人は、こういった日々の暮らしの中の動作、作務を、静かな喜びをもってやっていたのだろう。『逝きし世の面影』という本にはそういう江戸時代の日本人の姿が、当時日本を訪れた西洋人たちの手記をもとに描かれる。僕はそこに幸福を読み取った。
 お家ごとなどのごくありふれた作務の中にそういった趣の幸福へのヒントがあるように思う。
 お家ごとは雑務ではなかった!金が発生するからやるのではない仕事。職業ではない仕事。職業以前の仕事。ただ存在していて、日々生きている上で当たり前にやる動作自体という仕事。ただ身体を使うという喜び。ただそうしていることが気持ちいい、という喜び。僕は音楽に日々向き合う中で、作務の意味がわかって来たのだ。歌というものに向き合う中で、歌つまるところ氣の舞踏という感覚にいたり、それから身体を扱うことに興味が出始めた。肉体を動かす背後に動く氣や空間。氣が動く時、存在そのものが動く。存在そのものは空間と繋がっている。空間を通して全ての存在が繋がっている。その状態は、究極的には、楽器に触れずとも、ただ当たり前に存在しているだけで作り出せるということに気付いたのだ。
だから最近作務が楽しい。
 で、今日風呂場の窓の桟を磨きながら、「今やっているこのこと自体が音楽だ」と思ったのだ。僕にとって音楽は、三昧や中今に生きることそのものだから。その境にあって、氣はいよいよ踊り始める。奏で始める。
 暮らしこそが創造だ、とどこかで聞いたことがある。その意味するところが、なんとなくわかる氣がするのだ。創造は、静かに行われる。内的時間の中で。目立たぬだろう。でも、その目立たず行われる内的な創造の仕事を軽視する世の中は、詩のない世の中だろう。僕はそういう世の中にはしたくない。それぞれの内的な時間を信頼し、彼ら自身にも己が内的時間を信頼して楽しんでほしいのだ。ライブでもレッスンでも、そのことを伝えたいというのが根本にある。

 そうそう。最後に、身体について僕の所感を述べて終わる。
 僕は物理的な身体を、「身体」と表現し、それに重なるようにして動く内的身体を「からだ」と平仮名で表現する。おなじ身体でも二つを区別する。それぞれは互いに手を取り存在する。「身体」を離れると「からだ」も離れる。思考ばかりが増え、世界は灰色になる。「身体」は「からだ」への入り口。ピアノのレッスンでも歌のレッスンでも、そこを根幹に据えている。内的身体「からだ」が動くことをシンプルに言えば「喜び」に他ならない。
 瞑想、というと特別に座る時間、無になる時間と捉えられがちだが、生きていること自体瞑想で、その動きひとつひとつに気づいて意識的に向き合ってみると、「喜び」が静かに横たわっているのがわかる。
 僕は点数や結果ばかりが体育やスポーツだとは思っていない。今の僕が学生に戻り、体育の時間に参加したなら、もっと楽しめることだろう。僕は文と武を分けることにはあまり意味がないと思っている。誤解を増やすだけだ。さも、文には「身体」が存在しないという誤解を。僕は文にこそ「身体」が必要だと思っている。「身体」を入り口とせねば内的な「からだ」は感じられないからだ。知識や教養で云々するのが文の世界ではない。また、結果ばかり求めて機械のように肉体を扱うのが武ではない。今の学校の体育は、基本的に「身体」を機械のようにしようとしている。
 僕は文学も音楽も、芸術の土台には身体を育むという意味での体育が必要だと思っている。点数を競うだけが体育ではない。記録更新だけが体育ではない。
 「身体」こそ詩的なものなのだ。

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