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「一般的」な方程式じゃ表せない、複雑でノンバーバルな存在。それが、私たちだから。

「女の人にしか分からない」というフレーズに、この頃どきっとすることがある。

私は心も体も女性だと認識しているし、女性であることに嫌悪感がある訳ではない。でも、女性=分かるという方程式が立てられる様子を見ていると、どことなく心に雲がかかる気がしている。


先日、ある映画を観た。映画の名前は『グリーンブック』

白人の運転手と黒人のピアニスト2人の交流について、1960年代の実話をもとに描いた映画だ。

※この先、若干ネタバレの要素があるので、気になる人はぜひ先に映画を観て欲しい。吹替版もあります。
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07Y6NYMPR/ref=atv_dp_share_cu_r




当時、アメリカの中でも特に黒人差別が色濃かった南部を2人と演奏仲間が演奏旅行をするのだが、何度も胸が苦しくなる場面に出会う。

黒人禁制のとあるレストランのオーナーは「(黒人が利用できないのは)個人的な差別ではなく、ルールなので」と言い、街中のテーラーは「(黒人の)試着は困ります、買ってからサイズは見るので」と言う。

そんなルール、どこに根拠があるんだと、画面に向かって言い張りたくなる。

中でもピアニストの言葉で印象に残っているものがある。

「黒人でもなく、白人でもなく、それに男でもない※1。教えてくれ、トニー※2。私はいったい何者なんだ?」
※1:劇中で同性愛者と見受けられる場面がある
※2:運転手の名前

いわゆる黒人のような白人のもとで働く生活はしていない。けれど、白人と同じルールのもとで生きられない。そんな自分は何者なのだろうと、彼は訴えているのだ。

少なくとも私は、この感覚に陥ったことはない。社会的な枠の中でどこに収まっているか、もしくは収まっていないかによって、自らのアイデンティティが揺らいだことはない。そう思っていた。

けれど思い返してみれば、それは思い込みだったのかもしれない。自らをなんとか社会の枠に当てはめて、自分が何者かであることにする。本当は無理をしているとしても。


何者でもない苦しさは、どこからやってくるのだろう。彼の訴えの源は、どこにあるのだろう。

それはきっと、誰かが立てた方程式だ。〇〇=▼▼というような、たとえば女性=ピンクのような方程式が、私たちの周りには多く存在する。

方程式は、決して悪者ではない。むしろ、言わなくても伝わる文脈を補うために必要なものだ。いわゆる「一般的」と言われる価値観を方程式の形で示してくれる。

ただ、その方程式があることで私たちの心に雲がかかることもある事実は、否定できないだろう。

「一般的」に言われていることに納得がいかないとか、そうじゃないとか、私は違うという反対項を生み出すのも、方程式の定めかもしれない。

そして、その方程式は気づけば私たちの当たり前として生活に馴染んでいるから、たとえ方程式の存在が心のモヤの原因になっていたとしても、そのことに気付きにくい。


私たちは何者なのか。「一般的」な答えは、方程式が教えてくれる。でも、方程式なんかじゃ表せない、もっと複雑でノンバーバルな存在。それが私たちだ。

「一般的」を示す方程式、それは社会システムとして私たちを取り巻いている。そのシステムをどう潜り抜け、自らが何者なのかを示せるようになるか。これが、心の雲の源であり、映画の2人が気づかせてくれたことだろう。

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