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短編小説 『せめて、人間らしく』 後編

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〈2017年〉

「ユキオは寒がりだから、マフラーにしたんだ。バーバリーだよ」
 ナナオは、オレンジ色のタータンチェックのマフラーをユキオの首に巻いた。「部屋の中じゃ暑いよ」と笑いながらユキオがそれを外すと、「えへへ」と嬉しそうに笑った。
 何かの記念の日、ユキオの体質のせいで二人は外で祝うことが出来ない。今年で二十回目のクリスマス。二人で過ごすのは、驚いたことにもう七回目だ。周りの友人たちはその長さに驚きながら、なぜそんなに続くのかと疑問に思っていた。
 おそらく、ナナオは幼い頃からの純粋さを、痛々しいほどに残している。自分を救ってくれたのはユキオだと信じてやまないが、この年にもなればそれはいいかげん、依存、という病にまで到達する。そして世話焼きな性分と、世話のかかるユキオの体質が噛み合い、病的な程に母性が疼いていることも依存する要因の一つだろう。そうした羨望と、承認されている快感が、幼少期の傷を優しく包んでいる。ユキオがいなくなってしまうと、彼女は全てを失い、傷口が綺麗にパックリと割れてしまう。
 ユキオにとってナナオは、ショートケーキの最後にとっておいた苺、ほどの存在でしかなくなっていた。あれほど悩まされていた飢えは、ヨシダから提供される色々な商品のおかげで満たされつつあった。労働のご褒美として高級な寿司やステーキを食べるかのように、バイトで貯めた金を使って買ったソレを、誰にもバレないように、ユキオは大切そうに口運んで咀嚼した。
 あとはただ一つ。それは、ずっと恋焦がれているナナオの血。しかし、それが手に入ってしまった時、もう楽しみは残らないのではないかと思うと、ユキオは怖くて夜も眠れなくなった。
 ナナオと、そうやってちょうどいい距離を保ちながら、ユキオはアガタとの関係を続けていた。アガタはユキオに無償で自分の分泌物や排泄物を供給し、ユキオは、彼女の言うままに、彼女の身体と心を痛めつけた。
「学校はどう?」
 ユキオが尋ねると、「ユキオがいないと心細いけど、なんとか頑張ってるよ」とナナオは笑って見せた。
「ユキオは?学校、私がいなくても大丈夫?」
「うん。俺は全然平気だよ」
 ユキオがそう言うと、ナナオは黙って立ち上がり、ユキオの隣に座り込んで、肩に頭を乗せた。
「心細いって言ってよ」
「嘘だよ、俺もすごく心細い」
「ユキオ、覚えてる?」
「何を?」
「冬に咲く花の話」
 忘れかけていた。いつの日かに交わして、果たせないままでいる約束。あの時は、こんなに先の未来まで、二人の関係が続いているとは思わなかった。二人は今、ナナオが思い描いた未来の中にいる。
 こんなこと予想していなかった。自分たちはこのままこの先も、一緒にいるのだろうか。人はこれを、愛と呼ぶのだろうか。
「年が明けたら、見に行こう」
 ユキオが、ナナオの頬に手を置いて言った。
「約束だよ」
 ナナオの言葉に、ユキオは頷いて見せた。

「クリスマスはどうだった?楽しく過ごせた?」
 ユキオがシャワーを浴び終えると、アガタはいたずらっぽく笑いながら尋ねた。「楽しかったよ」とユキオが答えると、彼女は鼻で笑った。
 アガタはベッドに全裸で仰向けになった。青い血管が見えるほど白く細い体。
「クリスマス。君は、いつになったらその日を私と過ごしてくれるの?」
「それは、ありえないのかもしれない」
「私はずっと、クリスマスに憧れてるんだよ。『シザーハンズ』、知ってる?」
「もちろん。ティム・バートンだよね」
「その映画の最後の方でね、恋をした相手のキムを、エドワードが抱きしめるシーンがあるんだけど、全部の指がハサミで出来てるエドワードは、彼女を傷つけないように、優しく抱きしめるんだ」
「有名なシーンだね」
「あんなふうに、私を抱きしめて欲しいんだ。エドワードは、生まれながらに人を傷つけてしまう体だけど、人を傷つけたくない優しい化け物。こんなに分かりやすくて、素敵なメッセージがあると思う?」
「お前は、それじゃダメなんだろ?」
「うん。抑えられないリビドーに駆られて、どうしても傷をつけてしまうその手で、どうしようもなくぐちゃぐちゃに抱きしめられたい。もしあの映画がそういう結末だったら、私それ観てるだけでイッちゃうかも」
 アガタの欲求は、会うたびにエスカレートしていった。それはもう、ユキオには応えてあげられないところまで行っていた。フェチシズムを超えて、彼女には自殺願望があるのではないかと思えるほどだった。
 はりつけにされて、フックと重りのついた鎖を肌に刺されて、その重みで皮膚が悲鳴を上げる。そういうものは、どこか創造性があると感じ、ユキオは容認しかけていた。
 だが、最近は、殴る蹴る、切る、抉る、焼く、剥ぐ、など、その行為はただ、命を削る行為としか思えなかった。
「ユキオくん。こんなものを用意したよ」
 アガタはベッドから起き上がり、ショルダーバックから異様なものを取り出した。革製のグローブの一本一本の指先部分に、ナイフのようなものがくっついている。まるで彼女がさっき言っていた、『シザーハンズ』のエドワードの手のようだった。
「ユキオくんに、すごい似合うと思うんだ。君は性格もエドワードに似ているところがあるし。ねぇ、付けてみて」
 ユキオはそのグローブに指を通した。ナイフがついているからか、思ったように指が動かない。
「君が、クリスマスをアキさんと過ごしてる風景を想像すると、悔しくて悔しくて。でも、それがなんだか気持ち良かったんだよね。まぁいいや。それより、今日を私たちのクリスマスにしようよ」
 アガタは膝立ちになってユキオに抱きついた。
「抱きしめて」
 ユキオは、ナイフがアガタの皮膚を切らないようにそっと腕を回した。アガタは鼻息を荒くしながら、恐怖と好奇心で顔を歪めている。
「強く抱きしめて。あぁ、どんな嗜好を凝らしたプレイよりも、こういうシンプルなのが一番ドキドキする」
「無理だよ」
 アガタの表情が、ゆっくりと冷たくなっていく。
「最近のお前、怖いよ。俺には、人を傷つけるシュミなんてないんだよ」
「君は、本当にエドワードなんだね」
 アガタはユキオの手を掴み、自分の頬に当てた。ユキオの指先のナイフが、アガタの顔にめり込む。
「やめろよ」
 ユキオの言葉を聞く間もなく、押し付けた彼の手をスッと引く。アガタの皮膚の上にできた四本の線がゆっくりと開き、玉になって溢れ出た血がダラダラと流れ落ちる。彼女は、ユキオのもう片方の手を掴んで、自分の首筋に彼の掌をそわせた。
「やめろ、アガタ。本当に死んじゃうよ。それに、今のお前、ちっとも気持ちよさそうじゃない」
 アガタは、自分の首からユキオの掌を離した。
「どうしよっか。今日、泊まりでとっちゃったね」
 彼女はヘタっと座り込んだ。ユキオも座り込んで、グローブを外した手のひらで彼女の頬に流れる血を拭った。それでもとはどくどくと溢れ、首筋を伝い、胸と腹を流れてベッドにシミを作った。
「ベッド汚れちゃった。このホテル、パブに来てる人のもので良かったね」
 アガタは笑った。その笑顔がどこか痛々しくて、ユキオは不安に駆られた。
 ユキオは、手のひらにべっとりとついた彼女の血を少しだけ舐めとった。酸っぱくて甘いが、その奥に臭みがあった。
 二人でシャワーを浴び直し、アガタの血が止まるまで、ユキオはアミニティのタオルを彼女の頬に抑えながらベッドに寝ていた。二人で横になって向き合っていた。
「最近ね、何も感じなくなってきたの。それでどんどんエスカレートしていっちゃって」
「アガタは、早くから自分の欲望に忠実すぎたんだ。このままじゃ、本当に、危ないよ」
「どうすればいい?」
「分からないよ。足を洗って、人並みの幸せを享受する努力をしろ、なんて無責任なことを俺は言いたくないし」
「もし私がおかしくなっちゃったら、私の全部、ユキオが食べていいよ」
「そうしたいのは山々だけど、遠慮しておくよ」
「アキさんのことなら食べられる?」 
 ユキオは黙った。
「やっぱり、アキさんなんだね」
 その時、何かが腑に落ちたかのように、アガタは少し目を見開いて固まった。
「どうしたの?」
「いや、別に」
 アガタはそう言って笑い、安心したように眠った。ユキオはずっと、彼女の頬を抑えていた。

『今日、ユキオの家に行ってもいい?』
 そのラインに気がついたのは、塾講師のバイトが終わった直後だった。もう二時間以上前のことだ。『ごめん、今終わった』と返事を返しても、既読をつけはするものの返事は返してこない。これまでも、小さないさかいをすることは何度かあった。そんな時、ナナオはラインを無視することが度々あった。何か怒らせることでもしただろうか。ユキオの通う病院の裏山の公園に行く約束はまだ先だ。その前に何かあっただろうか。
 電話をかけても応答しない。これは、相当怒っているかもしれない。何度も何度も電話をかけた。しつこすぎるとわかっていながら、七回目の電話をかける。しばらくコール音が続いてから「…もしもし」と弱々しい声でナナオは応答した。その声の背後には風が吹く音がする。外にいるのか?この真冬の夜に?
「ナナオ?もしかして、俺の家の前にいる?合鍵は?」
「入りたくない」
「は?なんで?」
 電話は切れた。鼓動が早くなる。積み上げたものが、崩れていくような予感がした。
 ユキオは走った。生まれてこのかた、まともに走ったことのなかったユキオは何度も転びそうになった。乱れる呼吸によって冷たい空気が肺に流れ込み、体が凍えて砕けてしまいそうだった。
 ユキオの住むアパートの駐車場に、小さく丸まる人影があった。
「ナナオ」
 ユキオが名前をよび、しゃがんでその体を包もうとした時、ナナオは腕を伸ばしてユキオを拒んだ。
「どうした?何があった?」
「近寄らないで」
 ナナオの瞳が揺れていた。彼女がユキオのことを明確に拒否したのは初めてだった。その時、ふと理解した。
「アガタか?」
「いつから?」
 ナナオの顔がどんどん崩れていく。
「違うんだ」
「あのさぁ、これ、違うとかじゃなくない?」
「いつから、って、そっちのこと?」
 ナナオはゆっくりと頷いた。その時、ポタリと涙が落ちた。
「いつからって、生まれた時からだよ」
 風が吹き付けた。ナナオにもらったマフラーが風に吹かれて、肩からポロリと垂れた。
「そういうのを、食べてみようって思ったのは、いつ?」
 それは、お前だよ。そんなことを言うことはできなかった。
「なんで、言ってくれないの?」
「言ったら!お前は受け入れられたかよ!」
「アガタさんに取られるくらいなら!私だってなんだってしたよ!」
 ナナオはそう言ってから、「なんだってしようと思ったけど…」と漏らした。
「ねぇ、ユキオって、私のこと好きなの?」
「…好きだよ」
「どこが?」
「分からない。でも、遺伝子レベルで、お前に魅かれてる」
「バカにしないでよ!」
 ナナオは、ユキオの頬を張った。弾けた音が、寒空の静寂に飲み込まれていく。
「ユキオにキスされてたと思うと、体を舐められてたと思うと、すごく、気持ち悪いなって思っちゃうの。それに、アガタさん。あの子、本当にどうかしてる。ユキオとシてたこと、すごい細かく、嬉しそうに私に話すの。ねぇ、ユキオ。本当にアガタさんの体に傷をつけてたの?もう消えない傷もあるって、嬉しそうに言ってたよ」
 体は硬直して動かなかった。
「本当に、アガタさんのモノ、食べてたの?」
 ナナオの声は、途切れ途切れだった。これほど、自分の運命を呪ったことがあっただろうか。いや、まごうことなき自業自得だ。
 生まれた時から堕ちていた。アガタの言う通りだと、ユキオは受け入れてしまった。
「アガタさん、最後に言ってたよ。ユキオが、自分の欲求に気がついたきっかけ。それは、私の、あの日の、血なんじゃないかって言うの。それ、本当?」
 ナナオの言葉は、嗚咽によって聞き取りずらかったが、その内容は、全てユキオの中に飲み込まれた。
「なんで、何も言わないの?ねぇ、お願いだから、違うって言って。一緒に行こうって言ったじゃん。あの時あなたは、あの花畑の中にいて、どんな気分だったの?」
 何も返さないユキオの胸に、ナナオは顔を埋めた。
「私には、ユキオしかいないのに。なんで裏切るの?大好きだったのに」
 ナナオは走って、どこかへ消えていった。

 ユキオはゆっくりと、まるで敷かれたレールの上を歩くように無心で歩いた。自宅から十分も歩けば駅につき、その雑居ビルは、その駅から少し歩いた場所にあった。
「あぁ、ユキオくん。やっぱり来てくれた」
 雑居ビルの周りには、時間のせいか人影はなく、アガタだけが体を震わせて、恍惚の表情を浮かべている。
「ごめんなさい。全部言っちゃった。ごめんなさい。あなたの全部、壊しちゃった」
 さっきまで冷めていた体は、いつの間にか血液が沸騰するほどに熱くなっていた。早歩きでアガタに近づき、胸ぐらを掴んで拳を振り上げた。
 だが、ユキオは彼女を殴らなかった。
「え?殴らないの?殺したいほど憎くないの?」
 これでアガタを痛めつけてしまうのは、彼女の思う壺だ。
「私考えたんだ。この世で一番痛いことってなんだろうって。ねぇ、ユキオくん。私気がついたの。私、ユキオくんが大好き。それでね、この世で一番辛くて痛いのって、大好きな人に、殺したくなるほど嫌われることなんじゃないかって。だから私、ユキオくんの全部を壊して、死ぬほど嫌われようと思って。ねぇ、どうだった?辛かったでしょ?私のこと大嫌いになった?」
 心底気色が悪かった。今すぐに、ぐちゃぐちゃになるほど殴り潰してやりたい気分だった。
「その顔すごくいい!真っ赤な顔して息荒げて、瞳孔ガバガバだよ?なんか充血してるし。あ、ヤバイ。私今ユキオくんに抱かれたら、おかしくなっちゃうかも。ねぇ、この後時間ある?」
 こいつは本当におかしい。もはや哀れみすら覚える。
 パブのオーナーのノゾミに、アガタのことを聞いたことがある。彼女は中学時代、母と共に、父親から性的虐待を受けていた。本来気さくで明るい性格のアガタは、学校で普通に振る舞うために、家庭の事情を受け入れる必要があった。そして、徐々に身体的苦痛を快楽に変換できるように、無意識に自己催眠をかけていた。苦痛を受け入れられれば、学校では普通でいられた。逆に、苦痛を再び苦痛として感じてしまった時、自分は壊れてしまう。そしたら、学校ですら自分は承認されなくなってしまう。そうやって、彼女の精神は歪んでいった。警察沙汰になって両親が離婚した後も、その歪みは矯正されなかった。
「怒ってないよ」
 ユキオは、必死に憤怒を隠蔽し、優しく微笑みかけた。
「アガタも、いろいろあったんだよね。俺は怒ってないし、お前を嫌ってもいないよ」
「え?なんで、だって、アキさんは」
「確かに、ナナオは壊れちゃったかもね。でも、それはお前に関係ないから、大丈夫だよ」
「は?何それ、つまんな。本当は今にもブチ切れそうなくせに、なに訳知り顔で諭そうとしてんの?」
「じゃあな、アガタ。そこそこ楽しかったよ」
「ねぇ、待ってよ。ねぇ、それじゃ、私が勝手にアキさんを壊しちゃったみたいじゃん。何それ、私ヤバい奴じゃん。うわ、ヤバイ、私が壊れちゃいそう」
 声を震わせるアガタの顔は真っ青だった。
「いや壊れちゃいそうって、お前中学の時から壊れちゃってんじゃん」
 アガタは何かが決壊したかのように、瞳から涙をボトボトと垂らした。
「なんでよ。私これから、どうすればいいんだよ」
「知らね。まぁ元気でな」
 後ろから刺されても、文句は言えないな。と思いながら、ユキオは彼女に背を向けて帰路についた。怒りは治らない、だが、彼女に抱いていた特別な感情を、否定することはしたくなかった。
「ユキオくん」
 刺されるかもな。と思いながら、ユキオは振り返った。
「君たちは、もうだめだよ。ヨリを戻せるとか戻せないとかそんな簡単な話じゃない。君ら二人とも、もうバッドエンド一直線。まぁ君もあの子も、ド痛自己陶酔タイプだから、そこそこ楽しめるんじゃない?まぁ、せいぜい頑張って」
 大粒の涙を流しながら彼女は訴えた。きっとそれは、彼女自身にも当てはまった。
 
 もうすぐ冬が終わる。ユキオはナナオのアパートの階段に座っていた。ラインに連絡を入れてから、もう何時間が経つだろう。
 パブの連中、ヨシダやノゾミには事情を説明し、今後は会わないことになった。アガタとは連絡を取っておらず、ノゾミ達に聞いても消息は不明らしい。本当に、いつから壊れていたんだか。
「どうして、すぐに連絡くれなかったの?」
 顔を上げると、ナナオが立って見下ろしていた。
「いろいろ、精算してたんだ。また、ナナオに会えるように」
「ちゃんと注射してるかとか、ちゃんとご飯食べてるかとか、ちゃんと病院行ってるかとか、ずっと心配だったんだよ。なんですぐに、連絡しないの?普通するでしょ」
「ごめん」
 この後に及んでも、ナナオの依存癖に甘えていることが情けなかった。それでもここ最近、また以前のように、注射と無味の栄養食を食べていれば平気な体に戻ってきたことが、彼女に会いにきた理由だった。
「私だって後悔したよ。だって、ユキオのそれは、先天的な病気なんでしょ?それがどれほど辛いものか私には分からないから、だから、しょうがないことかもしれないっって思ったりもしたんだよ。それに、ユキオの根っこは、優しい人だし。ただ、それでもアガタさんと寝てたことは許せないけど。だから、またいろいろ話したかったのに」
「ごめん。ちゃんと、病気のこととか、俺の口から言うべきだった。ずっとお前に甘えてた」
 それは特殊な共依存だった。ナナオは、以前と同じように、ユキオに献身的になることで、自分の承認欲を満たす。そしてユキオは、精神を蝕む罪悪感を拭うために、ナナオとやり直し、彼女に尽くすことで、まともな人間になろうとしていた。
 アガタの言うとおり、それは破滅の道なのかもしれないと、ユキオ自身思わずにはいられなかった。だが、高校時代、アガタの言っていたことも、ユキオには真実のように思えた。「幸せは人それぞれ。そんな言葉は嘘っぱちだから、私たちは目を瞑りながら、誰かを好きになる錯覚に堕ちているだけ」とアガタは言っていた。
「ナナオ、どうしても、君じゃなきゃダメだ」
 ナナオはギュッと目を瞑った。目尻から涙がこぼれた。
「ナナオ、約束してたろ?明日、あそこに行こう」
 ナナオはゆっくりと頷いた。



〈2019年〉

「どう?似合ってる?って言っても、あんま可愛い制服じゃないけど」
 ナナオは、紺色のナース服を着て一回転した。ユキオはなんだか懐かしくなった。小学校に入学する前は、ユキオは生活のほとんどを病院で過ごしていた。その生活の中での、優しかった看護師たちのことを思い出していた。そして、中学の頃から自分の腕に注射器を刺すナナオが、ナース服に身をつつんでいることに、何も違和感を抱かない。とても似合っていた。
「思ってたナース服と違ったな」
「何期待してたのよ。今時スカートタイプなんてないから」
 家賃8万の1LDKの中で二人は笑った。もうすぐ新しい生活が始まる。まだ籍はいれていないが、このまま二人で一緒にいるつもりだ。
 一度離れ、ヨリを戻した後も、ナナオはユキオとセックスすることを拒んだ。キスすら躊躇うほどだったが、ユキオはそれでも良しとした。また関係が元に戻るまで、ユキオは我慢し、ナナオのために全てを尽くそうと思っていた。
「ねぇユキオ」
 まだ綿の硬いソファに座るユキオの隣に、ナナオは座った。
「今まで、ごめんね」
 二人は唇を交わした。ナナオが、ユキオのシャツのボタンをゆっくりと外していった。



〈2020年〉

 看護の仕事は、噂以上にハードだったようで、ナナオは心身ともに疲れ果てていた。勤務時間も特殊で、朝から晩までフルタイムで働く日もあれば、夕方まで働いて、それから時間を開けて深夜から夜勤で入る時もある。彼女は就職したての頃からその不規則な生活と人間関係に大きなストレスを感じていた。一年経って少しは慣れたものの、この生活に、彼女は生きがいも何も見出せていなかった。休日にユキオが出かけようと誘っても、できれば家でゆっくりしたいと言って、二人で家で映画を見ることが多かった。
 ユキオもまた仕事にやりがいを見出すことはできていなかったが、それでも、ナナオのことを支えようと必死に働いていた。だが、二人の生活の中で一つだけどうしてもうまくいかないことがあった。
 食事だ。残業が少なく、ほとんど毎日定時で退勤できるユキオは、ナナオに楽をしてもらおうと、ほとんどの家事を担当しようとした。だが、ユキオは料理ができない。味覚が異常だから、味見をしようにもできない。ネットのレシピサイトの調味料の分量をその通りに軽量して調理しようとしたこともあったが、肉を切っている時、その肉から吐瀉物のような匂いがして、その吐瀉物を自分がこねくり回しているかと思うと、気分が悪くなって吐いてしまうことがあった。故に、ナナオは毎日自分で料理をしなくてはいけない。ハードな仕事と特殊な勤務時間のせいで料理が億劫になり、コンビニの食事が多くなった。
 もちろん、それで何も問題なかったが、ユキオの栄養摂取の仕方からも、二人で食卓に並ぶことはほとんどなく、休日以外のコミュニケーションは減っていった。これまで10年近く二人が付き合ってきた中で、もちろん倦怠期は何度もあった。だが、今の生活ははそれとはまるで違う距離感だった。

 ある日の朝、ナナオが朝食を食べていると、彼女は唐突に口を押さえて洗面所に向かった。
「どうした?大丈夫か?」
 ナナオは口を濯いでから、ユキオの顔を見つめた。体調が悪いわけではなさそうだった。
 ナナオは、妊娠した。

 「子供ができればコミュニケーションも増えるし、いろいろ変わると思うよ。喧嘩もするだろうけど、まぁ、ポジティブに考えてけば、良い方に転がっていくよ」
 ユキオは会社の先輩からそうアドバイスされた。ユキオ自身、不安は大いにあるが、何より嬉しかった。ナナオも喜んでいた。彼女はしばらく仕事を続けるが、ちゃんと産休と育休はもらえると言っていた。産休も育休も、体力的にも精神的にも大変なことに変わりないが、少しだけでも看護の仕事から離れることが、彼女のメンタルを良い方に持っていってくれればいいなとユキオは思った。
 だが、一つだけ、ある問題があった。
「検査行ったか?」
「えぇ、病院には通ってますよ」
「いや、出生前診断ってやつ」
 先輩にそう言われ、ユキオは、あ、と思った。近年NI P Tという血液検査が主流になり、採血だけで診断できることからリスクがないという話を聞いたことがあった。
「奥さんを安心させるためにも、やっといたほうがいいぞ。費用もそんなにかかんないから」
 先輩に進めっられ、ユキオは「ありがとうございます」と頭を下げた。ナナオを安心させたい。そう思うと、もちろん検査を受けさせるべきだ。
 だが、ユキオには理由のない不安があった。実はそれは、社会人になり、ナナオとの子供ができた時のことを想像し始めた時からだった。
 自分は、まともな親になれるのか?自分のような異常者が、子供を育てられるのか?
 その不安と、出生前診断に対する不安。それは、重なるように思えた。
 帰宅後、すぐにナナオに相談した。二人でパソコンで検査のことを調べ、週末に病院に行くことにした。良くも悪くも、検査することにデメリットはない。例え陽性だとしても、それを知ることは大切なことだ。ナナオはかなりナーバスになっていた。二人の間に、不穏な空気が漂った。

 週末、病院に行った。採血をし、検査結果を待っている間、二人は何も言葉を交わさなかった。
 カウンターで名前を呼ばれ、二人で医師のもとへ向かう。ユキオの心臓はバクバクと強く鳴っていた。隣を見ると、ナナオの顔は青ざめている。
「どうした?不安?」
 ユキオは精一杯明るく言った。ナナオもぎこちなく笑いながら頷いた。
「大丈夫だよ。二人で調べたし、先生も言ってたじゃん。0.3%とかの確率でしかないって。そんなん、数億円の宝くじが当たるのと一緒の確率だよ」
「でも…やっぱり不安」
 ユキオはナナオを抱きしめた。
「大丈夫。俺らなら大丈夫」
 ユキオは何度も頭を撫でた。
 診察室に入ると、デスクに向かっていた医師はゆっくりと二人の方を向いた。
「まずは、お座りいただいてもよろしいですか?」
 二人は、用意されていた椅子に腰掛けた。
「陽性です」
 医師はそう告げた。
 陽性です。ようせいです。ヨウセイです。
 ユキオの視界がぐにゃっとねじれる。ナナオは両手で顔を覆った。
「この血液検査では、13パーセントほど偽陽性の場合があります。なので、確定検査をお勧めします。こちらは、約99.9パーセントの確率で的中させることができます。検査はいくつかあって、それぞれリスクがあることもありますが、分からない、ということは一番大きなリスクですので、ぜひ、検査を受けていただきたいと思います」
 医師の言葉は、どこかの国のお経のように意味不明だった。絶望が二人を押しつぶす。
「体質や健康状態は、卵子と精子に大きな影響を与えます。高齢出産が進められない理由はそういうところにあります。話によれば、旦那様の体質には、異常があると」
 顔を手で覆っていたナナオは、手をどかしてユキオの顔を見た。その表情は、二人の関係が壊れたあの日の、絶望に化粧されたナナオの表情と一緒だった。

 目に見えて、ナナオは沈んでいった。1日のほとんどを布団の中で暮らし、食事も取らなくなっていった。
「体を壊すよ」
「…うん」
「お腹の中の子のためにも、ちゃんと食べないと」
 会話は毎回そこで止まった。病んでいくナナオを見ることが辛く、ユキオは退勤しても、すぐには家に帰らない日々が続いた。いつも安いコーヒーショップに入って、アイスコーヒーに何も入れないでそのままブラックで飲む。あいかわらず、酸っぱくて死ぬほど苦い。最近、こうやってコーヒーを飲んでると、高校時代、アガタとあのパブに通っていた日々を思い出す。ヨシダもノゾミも元気だろうか。一回だけ気になって、ニューハーフであるノゾミの出演するアダルトビデオを見たことがある。あまりに下品で、まるでB級カルト映画のようで笑えた。そんなことを考えて懐かしくなり、少しだけ頬が緩んだ。
 気がつくと、電車に揺られていた。今のマンションから少し離れた地元へ向かっていた。まばらな乗客。少ない外の灯り。ただただぼーっとすると、焦点がどこにも合わなくなる。どれを犠牲にすれば、まともな人生を歩めたのか。それとも、避けられない運命だったのか。
 電車を降りてすぐの改札を抜ける。高いビルの無い、地方のさらに田舎町。しばらく歩くと、あの雑居ビルについた。もともと店舗は少なく、活気のないビルだ。
 ノゾミのパブは、もうなくなっていた。
 その時、電話が鳴った。スマホの画面には、ナナオの名前が表示されている。
「もしもし?」
『お仕事お疲れさま』
「うん。どうしたの?」
『最近遅いけど、今日はいつも以上に遅いから』
 腕時計を見ると、もう23時だった。
「ごめん。今から帰るから」
『確定検査の結果、届いてたの』
 ユキオは、冷静に彼女の言葉を聞いていた。
『やっぱり、陽性だった』
 雑居ビルの下に、人影が見えた。艶やかな黒いショートカットの女だった。
『ねぇ、どこほっつき歩いてるの?仕事なんてとっくに終わってるんでしょ?なんでいつも、辛い時にそばにいてくれないの?』
 目の前の女は微笑んでいた。
『ねぇ、あんたのせいでしょ?あんたの体のせいで、私の中の子は…。あんたはご飯も食べられないし、どうせクスリ漬けだし。この子だって、普通の生活を送れない。そして、あんたはこれからも、私が辛い時もそばにいてくれないんでしょ?ねぇ、これから、どうすればいいの?』
「ごめん。すぐに帰るから、それから話そう」
『もう無理。もう遅いよ。て言うか、本当はずっと気持ち悪かった。やっぱり私、あんたのこと受け入れられない。あの人に全部暴露されて、あんたと離れて、それからずっと気持ち悪いの。ヨリ戻したって、やっぱり無理だった。この何年間か、ずっと気持ち悪くて、私、他の男と寝てた』
 それは初耳だったが、驚くようなことではなかった。
『なんて、ごめんね、電話なのにいっぱい喋っちゃって。じゃあね、おやすみ』
 電話はそこで切れた。
 冷たい風が肌を切り裂く。目の前の女は、ずっとこっちを見ていた。
「言ったでしょ?バッドエンド一直線って。いいなぁ、私もその感覚味わってみたい。どんだけ苦しいんだろうね。私が君の立場だったら、気持ち良すぎて死んじゃうかも」
 アガタはゲラゲラとユキオを嘲笑っていた。
 それは幻覚だった。ナナオと同じように、ユキオも、精神が崩壊しかけていた。
 なぜか、死ぬほどに空腹だった。

 気がつくと夜が開けていて、ユキオは道路に寝転がっていた。時計を見ると、ちょうど始発が出る頃だった。
 駅に入り、ホームで電車を待つ。スマホの充電はなくなり、ナナオに連絡することもできない。視界はぼやけたまま、どこにも焦点が合わない。かろうじて電車が到着したことがわかり、ノロノロと乗り込み、崩れ落ちるように座った。これからのことを考えなくてはいけない。堕ろすのか、それとも、産むのか。ユキオは、障害を抱えて生きることの不便さを知っている。生まれてくる子供はユキオ以上に大変な人生を送ることになる。そして、ナナオは永遠に楽にならない。こんなぼやけた頭では考えられない。二人でゆっくり休んで、じっくり話し合おう。
 ぼやけた頭のまま、自宅の最寄りで下車する。ホームを出ると、急に胃が痛くなった。自宅に帰るのが怖い。それでも、そこではナナオが苦しんでいる。帰らなければ。ユキオはゆっくりと、鉄球が鎖で繋がれているかのように重い体を動かして歩いた。
「行かなくてよくない?」
 背後から声がする。幻聴だとわかっているから振り返らない。
「君は悪くないよね?君は君の人生の一番の被害者じゃん。そこまで苦しむ必要ないよ。それに、アキさんのことだっていまだに、心から愛してないでしょ?まともぶるのやめなよ。一緒に堕ちてこ?」
 振り返らずに、ゆっくりと歩く。二日酔いの時のように、一歩踏み出すたびに頭が割れるように痛い。
 エントランスを抜けてエレベーターに乗る。自宅のあるフロアで降りる。廊下を歩いていると、空が徐々に明るくなっていくのがわかった。
 玄関には、鍵はかかっていなかった。軽い力でドアが開き、その時、ドアの隙間から、甘い香りがふわっと漂った。
 風に乗って運ばれる、花の香りのようだった。
 ユキオは靴を履いたまま家に上がり、廊下を走った。
 強い朝日で逆光になり、ナナオの形をした黒いシルエットが、宙に浮いていた。その足元から、ポタポタと何かが垂れる。
 部屋中が、甘い香りに包まれている。それは、ユキオにとって、最も懐かしい、あの香りににていた。
「…ナナオ」
 返事などするはずもなかった。ユキオは膝から崩れ落ちた。絶望と、体奥底にある飢えが、精神を蝕む。
「やば、人ってこんな匂いするんだね」
 幻聴が耳元をかすめる。ユキオはその幻聴を消し去るために床に頭を打ち付けた。
 それでもやはり、ユキオにとってその匂いは、これまで嗅いだことのない、絢爛な御馳走のようなものに感じた。自分はここまで外道だったのか。浮いているナナオの体の下に、大量の糞尿や血液が溜まっている。それを見て、ユキオの口からよだれが落ちる。
「ナナオ…ナナオ!」
 ユキオは自分の中の異常な飢えを拭い去るために、彼女の名前を何度も叫んだ。つるし型の蛍光灯から垂れる縄と、その先にあるナナオの顔。目玉と舌が飛び出し、皮膚が青紫に染まっている。かわいらしかった顔が、一ミリも原型をとどめていない。
「ナナオ…」 
 ユキオはゆっくりと立ち上がった。彼女を縄から下ろしてやらなければ。そんな意味のないことを考えた。もう、苦しみなどないのに。
 ナナオの体は鉄のように硬くなっていた。糞尿と腐敗臭が、ユキオの鼻をくすぐる。常人だったっらのたうちまわるほどのその激臭に、ユキオの飢えはくすぐられる。
「もしかして君なら、この匂い嗅いで美味しそうとか思ってる?やばいね。てかさ、アキさんのこの体、今どんな状態なんだろうね。君なら、どんな味がするんだろうね」
 幻覚のアガタが、リビングのテーブルに座って頬杖をついている。そしてゆっくりと立ち上がり、ユキオに近づいてくる。
「ほら、カプっといっちゃいなよ。硬いけどさ、お肉なんだし、意外と噛めるかもよ?ほらほら、本当は君だってそうしたいんでしょ?」
 ユキオは、思わず口を開いた。
「そうそう。ほら、一思いにいっちゃいなよ」
 ユキオは、ナナオの袖を捲し上げて、口を近づけた。
 その瞬間に、脳に色々な記憶が流れ込む。それは、ナナオと過ごした10年以上の日々だった。
 白い雪、オレンジの花。隣に立つ、幼いナナオ。
 そしてその時初めて、本当の意味での喪失感と悲しみが、ユキオの心を満たした。これが理性かと、ユキオは思った。
 そこにはもう、アガタの幻覚はいなかった。代わりに、ユキオの瞳から大粒の涙がぼたぼたと流れ落ちる。
 ユキオは、底知れない邪悪な欲求に飲み込まれずに、ナナオの死に涙を流した。そして、自分が本当の意味でナナオのことを愛していたことに気がついた。
 ゆっくりと尻から床に座り込んだ。ザマァみろ、と、ユキオはアガタを嘲笑った。自分は堕ちてなんかいなかった。
「あああああ!」
 一気に押し寄せてくる後悔と喪失感に、バタバタとのたうち回り、奇声を上げ続けた。そこら中の物を壁に投げつけた。皮膚が裂けるほど体をかきむしり、骨がぐちゃぐちゃになる程頭を床に叩きつけ、いつの間にか気絶していた。

 意識が戻ったのは、半日が経った頃だった。変わらずそこは甘い香りに包まれ、ナナオは宙に浮かんでいた。
 1日が過ぎた。
 2日がすぎると、再び後悔と喪失感に襲われ、暴れ回って自傷を繰り返した。
 3日が過ぎると、注射も食事も摂っておらず、水も飲んでいないせいで動く気力もなく、置き物のように、部屋の隅で蹲った。
 4日が過ぎると、体の内側がキリキリと痛み始めた。いよいよ内臓が、内臓自身を損傷してすり減らし、生命を維持しようとし始めた。
 5日が過ぎた。
 まるで、景色一面に咲く花に囲まれて微睡むような気分の中で、甘く芳しい香りに包まれながら目を閉じた。皮膚が筋肉を締め付けているのかと錯覚するほど体の中身はなくなり、体の先端にかけて痺れがある。脳はほとんど運動をやめたようだ。意識が遠のいていく。もうすぐ会えるかもしれない、と、ユキオは彼女のことを想った。


〈終〉

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