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短編小説 『せめて、人間らしく』 前編

 まるで、景色一面に咲くオレンジの花に囲まれて微睡むような気分の中で、甘く芳しい香りに包まれながら目を閉じた。皮膚が筋肉を締め付けているのかと錯覚するほど体の中身はなくなり、体の先端にかけて痺れがある。脳はほとんど運動をやめたようで、意識が遠のいていく。もうすぐ会えるかもしれない、と、ユキオは彼女のことを想った。



 夢を見た。長い長い夢だった。人はその夢を、もっと他の言葉で表すのかもしれない。



〈2001年〉

 お花みたいだね。

 どこからか聞こえた少女の声。何を指しているのかも、誰が言ったのかもわからないその言葉を聞いて、僕もお花みたいだ、とぼんやりとユキオは思った。植物人間と呼ばれる人たちがいることを知ったのはそれからずいぶん後のことだが、毎朝起きては点滴を交換され、食事も取らず、体を起こすこともせずに1日を過ごすユキオは、毎朝看護師に水だけを交換される、花瓶の中の花と同じようなものだった。

「ユキオくん。今日はお散歩に行けるかな」
 
 ベッドの脇にある椅子に座った看護師は、ユキオの手を優しく握った。
「今日はいい」
 
 ユキオの言葉に、看護師はため息をついた。実際ユキオの体に、散歩に行く力はなかった。常に頭はボーッとしていて、眠いのに目を瞑ってもちっとも眠れない。体のどこかを動かそうとしても、神経の伝達は常人のそれとは比べものにならないくらい遅かった。

「おねぇさんね、今日は特別にお菓子を持ってきたんだよ」

 看護師は音を立てないようにカーテンを閉じた。ピンクのカーテンがぼんやりと日光を遮断する。看護師はポケットから小さい四角形のチョコレートを取り出し、それをそっとユキオの掌にのせる。

「食べられるかな」

 看護師は不安そうにユキオを見つめる。ユキオは全身に力を入れて起き上がる。昨晩トイレに行って以来の大きな体の運動に、全身の血が冷たく下に落ちていく感覚がした。

 看護師に渡されたチョコのラベルを剥がしていく。小さなチョコレートだが、ミルクの香りとイチゴの香りが含まれた甘い匂いがふわっとカーテンの中に充満した。

「うっ」

 ユキオはチョコを投げ捨てて口を覆った。自分の意思など関係のない体の拒絶反応。呼吸をするだけで吐き気がする。ユキオはゆっくりと息を吸って吐いてを繰り返しながら、看護師に抱きしめられた。

「ごめんね、ごめんね」

 看護師は優しく、だが強くユキオを抱きしめていた。

「ごめんね。でも、あまりにも…あまりにも」

 ユキオは看護師の胸の中でゆっくりと、ゆっくりと呼吸を繰り返した。吐き気はなかなか治らなかった。

 ユキオは生まれてからの五年間、まともな食事をほとんど摂っていなかった。



〈2007年〉

 肌に触れる冷たい感触。それがすっと肌を貫き、腕の内側に重く鋭い痛みが走る。毎日それが続けば、不思議とその痛みすら心地よく感じる。

「はい、おしまい」

 ユキオは無味の栄養ゼリーを吸いながら、注射器や薬など、諸々が入ったポーチを受け取った。まだ他の生徒は給食を食べているから、ユキオは保健室に置いてあった本を手に取って、ベッドに寝転がりながらそれを読んだ。
 しばらく本の世界に没頭していると、給食の時間の終了を告げるチャイムが鳴った。ユキオはため息絵をつく。そろそろ来る頃だろう。

「ユキオくんいる?」

 ユキオはベッドの中に潜り込んだ。保健室の教員は何の迷いもなくユキオがベッドにいることを教える。

「ユキオくん、今日も持ってきてあげたんだけど」

 ユキオは狸寝入りを決め込んだ。「持ってきてあげた」。その物言いが、子供ながら癪に触った。
「ねぇ、起きてるんでしょ?」と、ナナオは布団を揺さぶった。

「やめろよ、触んなよ」

 ユキオは布団を跳ね除けて起き上がり、ナナオを睨んだ。悪びれもせずニコニコと笑うナナオを、心の底から嫌悪した。
「はい」と言いながらナナオは手に持っていたコッペパン と牛乳を差し出した。これで何度目だろう。小学5年になり、同じクラスになったあの日から1ヶ月以上、ナナオは毎日給食のあまりをユキオに届けにきた。

 ユキオは、自分の体質のことを学校の生徒たちには打ち明けていない。もちろん教師たちは認識しているが、全てを打ち明けているわけではない。いや、本当のことを言えば、専属医師や親にさえ、奥深くにある真実は打ち明けていない。

 重度の味覚障害。何度も繰り返された診断では、そう判断するしかないようだった。本来、舌や口腔の異常によって、味を感じなくなる病だが、ユキオの症状は少し違った。どんなに美味だとされる食べ物でも、ユキオにとってそれらは、吐瀉物や排泄物のように思えるほどの異様な味がするのだった。匂いを嗅いだだけでも体が拒否反応を起こし、吐きそうになる。口に入れるなど、考え流だけで全身に嫌悪が走り、鳥肌が立ち、えずいてしまう。
 それが、ユキオの体の異常、だとされている。

 水など限りなく無味に近いものは、常人にとっての苦い粉薬ほどの不味さでしかないため、医師からは常に特別な栄養ゼリーを食べることと、注射による点滴をすることを決められている。そうすれば、普通に生活はできる。
「嫌だったら捨てていいから」

「嫌だから捨ててくれ」

 ユキオは突き放すように強く言った。ナナオは露骨に落胆し、ベッドの脇の椅子に腰掛けた。

「どうして、ご飯を食べないの?」

「食べれないからだよ」

「何で食べれないの?」

「そういう病気なんだよ」

「食べたら、どうなるの?」 

 ユキオは腕を伸ばしてナナオの髪の毛を掴んだ。顔をしかめる彼女に、余計に腹が立つ。

 ナナオは純粋だ。言い換えればデリカシーと配慮がなく、空気の読めない少女だった。腑に落ちないことがあれば、「何で何で」と連呼し、誰にでも存在する心のオアシスに、泥のついた土足で勝手に入り込むような人間だ。さらにお節介で、全ての人間に干渉しようとする癖がある。その混ざり合うことのない二つの性格のせいで、周囲の生徒たちから酷く嫌厭されていた。
「俺に関わるな」

 ユキオはナナオの頭から手を離した。

「何で?私はただ、ユキオくんが心配で、仲良くなりたいだけなのに」

「お前が心配すれば俺の体は治るか?お前と仲良くなって、俺は嬉しいと思うか?」

 ナナオは顔を赤くして俯いた。

「少しは自分のことも考えろよ。だからお前嫌われるんだよ」

 ユキオは後悔した。何に対しての後悔なのか理解できるほど、ユキオの精神はまだ成熟していない。

 苛立ちと後悔が胸の中で渦を巻く。

 そしてユキオの意識のさらに奥で息を潜める人並みの飢えと乾きが、満たされぬままに、精神の内側にヒビを入れる。
 
 普通に生活できると言えど、普通に運動することのできないユキオは全ての体育の授業を見学することになっている。その代わりに担任からは授業の補佐を任されている。体育倉庫から得点板やボールを運び出したり、石灰で白線を引いたりするぐらいは手伝える。

 今はキックベースに興じているクラスメイトたちを遠目に眺めることしかできなかった。少年野球のチームに所属している連中と、町のサッカークラブに所属している連中が猛威を奮っている。子供ながらに、サムいな、と思いながらも、少し羨んでいる自分がいることにユキオは気がついている。

 ナナオが蹲るようにしてしゃがんでいる姿が見えた。誰もそれを気にしていない。体調が悪いのかもしれないが、ユキオはそれを心配できるほど穏やかな人間ではない。ナナオをボーッと眺めて、誰にも心配されないことに気を良くしながら、彼女が自分から動こうとしないことに苛立った。ようやく気がついたのは担任の教師だった。ナナオの隣にしゃがんで肩をさすっている。ナナオはお腹を抑えたまま、頷いたり首を振ったりしている。

 ナナオはゆっくりと立ち上がり、お腹を抑えたまま担任に校内へと連れ込まれていった。ユキオがそれを最後まで見送ると、担任はすぐに戻ってきた。

「アキの奴、具合が悪いなら早く言えばいいのに」

 自分にそんなこと言われても困る、と思いながら、こいつもどこかでナナオのことを鬱陶しく思っているんじゃないかと思った。

 それから十分以上経っても、ナナオは帰ってこなかった。「もしかしたら保健室に行ってるかもしれない」と担任はめんどくさそうにこぼし、「コタニ、お前、保健室見てきてくれないか?」と、ユキオに言った。なぜナナオなんかのために、と思いながらも、そこで断れるほどユキオは反抗的な子供ではない。渋々校庭を離れ、校舎の中に入る。
 6月に入って外は暑くなってきたが、校舎の廊下は薄暗くひんやりしていた。通い慣れている保健室に入ると、「あらコタニくん」と保健の教員はにこやかに言った。「アキナナオって奴来てますか?」とユキオが尋ねると、教員は首を横に振った。ナナオが授業をサボるとは思えないため、ユキオは保健室を後にしてしばらく校舎の中をうろうろと徘徊した。

 二階に上がり廊下を歩いていたとき、ちょうど女子トイレからナナオが出てきた。ナナオは顔を赤くしてユキオから顔を逸らした。

「先生が、お前探して来いって」

 ユキオがそう言うと、ナナオは黙って彼の横を早歩きで通り過ぎようとした。

「おい」

 ユキオはナナオの腕を掴んだ。

「お前それ何持ってんだよ。トイレでサボって何してたんだよ」

 ナナオが手に持っていたポーチを指差しながらそう言うと、彼女はより顔を赤くして、憤怒を込めた声で「関係ないでしょ!」と、ユキオの腹を足で蹴飛ばした。

 ユキオは吹き飛んで尻餅をついた。本来なら、人が吹き飛ぶことなどあり得ないか弱い蹴りだったが、女子の平均を下回る体重のユキオの虚弱な体は、ナナオの想像を超えていた。彼女はすぐにユキオに駆け寄り、しゃがんでユキオの手を握った。

「大丈夫?ごめん、本当にごめん」

 ナナオがユキオに駆けつけて謝ったその時、強烈な匂いがユキオの鼻腔をくすぐった。血液にも似た、重い鉄のような匂い。それでいて、腐った魚の死体が発するような異臭が混じっていた。

 ただユキオにとってその匂いは、生まれてきて初めて訪れた衝撃だった。それが常人にとってどんな匂いなのかはわからない。ただ、ユキオの鼻腔を通り抜けていったそれは、爽やかな酸味と、強く甘い香りが混ざった、飢えをくすぐるような香りだった。

 ユキオは固まった。ナナオは手を握りながら何度も彼の名前をよんだ。だがユキオは何も返さない。いや、返せない。自分の体が熱くなるのは初めてだと彼は思った。

「ねぇ、どうしたの?どこか痛いの?」
 
 心配するナナオを、ユキオはただただ見つめた。

「ねぇ、ユキオくん?」 
 
 自分の体の奥底に飢えが潜んでいたことを、ユキオは初めて知った。

 あぁ、これが食欲か。

 クラスメイト達のナナオに対する嫌悪の視線は徐々に強まっていった。いや、ユキオは気がついていなかったのだ。あの一件以来ナナオに興味を抱き、それから彼女をよく観察するうちに、彼女が軽く虐められていることに気がついた。よく思われていないことには以前から気がついていたが、もうそれは手に負えないところまで来ているようだった。そして何より、ナナオ自身に明確な自覚がないことが、見ていて痛々しかった。何でみんなひどいことをするんだろう、程度にしか思っていない彼女に、ユキオはもうイラつくことはなかった。

 ことが起きたのは、教室で飼育していたザリガニが姿を消した日だった。
「先生、ザリガニ達がいなくなってます」

 ナナオは朝のホームルームでそう告げた。
「逃げたのか?誰か知ってる奴いるか?」と担任は声を上げたが、もちろん全員首を横に振った。何が起こるんだろうと思いながらユキオは傍観していた。

「帰りのホームルームで、またこの話しよう。みんな、それまでに分かったことがあったら教えてくれ」

 担任の言葉に、皆ざわつきながら返事をした。その中で、ナナオを意識し続けているユキオだけが気がついていた。顔を青くして俯いているナナオは、多分もう感づいている。
 
 ユキオは食事と注射を済ませて、いつものようにベッドに寝転がっていた。ここ最近は、給食後にナナオがここに訪れることもなくなっていた。だが、今日は来ると、なぜかそう感じずにはいられなかった。

 チャイムが鳴る。それから数分して、保健室のドアがあいた。保健の教員と何か言葉を交わし、何も言わずにユキオのいるベッドの横に椅子を置いて、そこに座った。

「今日、すぐ帰らないで、ここに来いよ」

 ユキオがそう言うと、「うん」と、聞き逃しそうなほどの小さな声でナナオは答えた。ユキオは布団に潜り込んだ。ナナオは何も言わずに、ただずっとそこに座っていた。

 昼休みが終わって二人で教室に戻った。並んで教室に入る姿を見て、教室が一瞬だけざわついた。
 何事もなく授業を終え、ホームルームの時間を迎える。

「ザリガニの件だが、何かわかった奴いるか?」

 当然誰も何も言わない。
「逃げたって言ってもなぁ、急に逃げるとも思えん」と担任は言うと、全員で学校中を探しに行くと言い出した。それぞれ手分けして校舎や校庭を探す。見つかるまでは帰れない。そうすれば、犯人は名乗り出ると思ったのだろうか、と、ユキオには教師の考えることがわからない時がある。

 皆文句を言いながらも、担任の指示に従った。ユキオはナナオを連れて、まっすぐに下駄箱へ向かう。その姿を、クラスメイト達は奇異の目で見ていた。皆ユキオの奇行を理解できていなかった。

 案の定、死骸になった5匹のザリガニはナナオの外履きの中に詰め込まれていた。ユキオは、ナナオはどんな反応をするのだろうと思っていが、ただただ涙を流しながら死骸の発する異臭にえずく彼女を見て、純粋に心を痛めた。

「お前は、何も言わなくていいから」

 ユキオはナナオの外履きをそっと持ち上げ、昇降口の外にある水道の上で靴をひっくり返した。カラカラになった死骸がボトボトと落ちる。湿気も多く気温も高い6月。死骸は腐り果て、異臭を発していた。ナナオは鼻をつまんだ。

 ユキオは、またあの衝撃を身に受けていた。ただでさえ生臭くドブのような匂いのするザリガニが腐り果てているのだから、それはもう、形容し難い腐敗臭を漂わせているはずだ。だが、ユキオにはそれは、甘辛いソースの絡んだ香ばしい鶏肉のように感じられていた。口の中で唾液がドクドクと分泌され、思わずゴクリと喉を鳴らしてしまう。
全ての動物に宿る原初の欲求がユキオを襲っていた。

「ザリガニは、死んでたのを俺が見つけたってことにするから、靴に入ってたことは言うな」

 ナナオは嗚咽を漏らしながら、「どうして?」と聞いた。

「お前がチクればもっと騒ぎになる。それでどんどん恨みが増えていくだけだろ。今日は我慢して、上履きで帰れ。親にも言うなよ」

 ナナオはまぶたを擦りながらユキオを見つめていた。

「俺が、何とかしてやるから」

 ナナオは顔を赤くして頷くと、ユキオから靴を受け取って、走って下駄箱へ戻っていった。

 香ばしい匂いがユキオの鼻をつく。キョロキョロと周りを見渡すと、そこには確実に、ユキオ以外に人影はなかった。

 恐る恐る、ザリガニの亡骸に手を伸ばす。優しく指先でつまむと、背中の甲殻が軋みをあげた。ユキオの中で蓄積された11年分の欲求が、ユキオの理性のブレーキを壊していた。

 テレビで見た、伊勢海老の解体作業を思い出しながら、尻尾と背の殻を掴み、思い切り引っ張る。乾いた音とともにザリガニは半分になり、緑や青に変色した身が姿を出す。その腐敗臭に、常人なら嘔吐してもおかしくはなかっただろう。だがその匂いはユキオの食欲をそそった。尻尾の殻を少しずつ剥がしていくと、ボソボソに乾いた身から、得体の知れない汁が垂れた。

 ユキオは、指先で少しだけ身をつまんだ。もう一度周りを確認する。誰もいない。ユキオは唾液まみれの口を開き、恐る恐る、腐った身を口に入れ、じっくり咀嚼した。

 初めて自分の体を、自分のものと認識することができた。口に広がる、甘く、ほのかに塩見のある肉。全身が喜びのシグナルを発している。これが、欲が満たされる瞬間。

 ユキオは一心不乱にザリガニの死体を貪った。噛めば噛むほどに広がる旨味。一匹食べ尽くすと、すぐに二匹目を半分に割って身をほじくり出した。初めて、まともに命を食べた。ユキオは、ようやく自分は人間になれたと歓喜した。

 だがその死骸はやはり死骸なのだ。ユキオの味覚にとってどうであれ、人体にとっては毒である。ユキオの快楽中枢に関係なく、体はその咀嚼された死骸を拒絶する。胃の中のものが全て逆流し、口から滝のように中身が全て溢れ出す。何度も何度も吐いた。やがて何も吐き出すものが無くなっても、胃の中が痺れていた。



〈2010年〉

「はい、おしまい」

 ナナオはユキオの腕を優しくさする。中学に上がってからは、昼の栄養剤の注射はナナオに任せることにしていた。最初はなかなか血管を見つけることができずにイライラして保健室の教員に任せることもあったが、注射する様子をよく観察していたナナオは、一年も経たないうちに難なく注射を済ますことができるようになっていた。「将来は看護師になれるな」とユキオが言うと、ナナオはそれを真にに受けて「じゃあ、将来は看護師になる」と息巻いていた。

「今度の日曜、部活が休みなの」

 ナナオは顔を赤くして言った。何処かへ出かけるのもいいが、ユキオたち中学生には、遠出する金などない。近所に遊べるような場所もない。

「どこか行きたいところはある?」

 ユキオの問いかけに、「ユキオとならどこでもいい」と恥ずかしげもなく言った。ナナオは昔から純粋だった。だが、小学生時代に受けた傷のせいで、その純粋さは、ユキオの前でしか顔を出さなくなっていた。だがそのおかげで、彼女が傷を負うこともなくなっていた。

「どこでもいいって、別に俺も行きたいところなんてないし」

「えぇー。じゃあ、ユキオの病院の裏の公園でもいいよ」

 ユキオの通い付けの病院の裏の山には大きな公園がある。子供達が遊ぶような遊具もあれば、若者カップルに人気な花畑もあるし、冬にはそこにはイルミネーションが施される。小洒落たレストランやカフェの連なる一帯もあれば、山頂のホテルにある温泉は日帰りの客にも人気だ。

「イルミネーション見れるかな」
 
 ナナオは嬉しそうに言ったが、「十二月になったばかりだからまだやってないよ」とユキオは教えた。ナナオはそれでも、「まぁいっか」と笑っていた。

 ユキオの気は進まなかった。花の香りなど、ユキオにとっては畜生の糞尿のような不快な匂いだった。だが、ナナオには本当のことを打ち明けられていない。

「あ、ユキオ」

 いつものように、二人の家の間にある踏切で待ち合わせをした。ナナオよりも厚着なユキオは、もうマフラーを巻いていた。

「そのニット帽、いいね」

 ナナオが新しく買ったであろう、天辺にボンボンのついたニット帽を褒めると、彼女は例によって機嫌をよくした。

「今日、天気悪いっぽいね」

 ナナオは残念そうに言った。空は青みがかった灰色で、予報では雪が降ると言っっていた。ユキオは羽織っていたダウンの前のジッパーをしめた。

 二人は駅前からバスに乗って、病院の前の停留所で降りた。ユキオ達と同じように、何組かのカップルがバスから降り、斜面にあるその停留所から坂を登った。凍てついた風がユキオたちの肌を切りつける。マフラーの中に首をすぼめると、ナナオはユキオの腕にそっと腕をまわした。

 公園に入園すること自体は無料だった。門をくぐり、子供達の遊ぶ遊具を通り過ぎる。こんなに寒いのに元気だなと思いながら、自分の幼少期と重ねてしまう。

「寒いね」

 ナナオが鼻を赤くさせてそう言うから、ユキオはカフェに入ろうと誘った。園内はほぼ全て坂になっているため、途切れ途切れにエスカレーターが設置されている。すべてをつなげるとその長さは500メートルに達し、日本最大級のエスカレーターとして有名だ。
 二人で縦に並んでエスカレーターに乗ると、ナナオは振り返ってユキオのことを見た。二人とも身長がほとんど変わらないせいで、段差一個分ユキオの頭が低い。

「髪、伸びたね」

 ナナオを見上げながら呟いた。長い方が好き、といつの日か言ったことをユキオは思い出した。吹奏楽部のナナオは、運動するわけではないから、と、ユキオの好みに合わせて髪の毛を伸ばしていた。「そこまでしなくていいのに」と、ユキオは彼女に聞こえないように小さく呟いた。

「ユキオも、髪伸びたね」

 そう言われて、前髪を手で抑えておでこにピタッとつける。髪の毛の先端は鼻の先よりもずいぶん長くなっていた。

「美容院行かないの?それとも床屋?」

「美容院とか、苦手なんだ」

「あぁ、そう言う人結構いるよね。ウチ結構好きだよ。シャンプーとか、マッサージされてるみたいで気持ちいいし、お店全体もいい匂いするし」

 そのいい匂いが、ユキオにとっては毒なのだ。だがそんなことも言えずに、ユキオは微笑むしかなかった。

 しばらくエスカレーターに乗り、目的の場所で降りる。名産品などが売っているお土産屋に、いくつもの種類のレストランやカフェ、アイスクリーム屋。寒さのわりには賑わっていた。二人でチェーンのコーヒーショップに入り、ユキオはホットのアメリカン、ナナオはカフェラテを頼んだ。ブラックの苦いコーヒーは、ユキオにとって奇跡的に無味に近かったが、ひどくすっぱく、本来の苦さ以上にひどく苦かった。だがそれを紛らわせるためにミルクや砂糖を入れようとすると、魚のような生臭さが加わるだけだった。仕方なくブラックで飲むが、他の飲食料に比べればマシな不味さだった。

 店内はかなり混雑していて座る席がなく、仕方なく外に出た。輪を描くように並ぶ店の中心には大きな小洒落た暖炉があり、道中に比べてさほど寒さは感じなかった。

「いいね、ここ」

 暖炉の明かりでナナオの顔がオレンジに灯っていた。「うん。いいね」とユキオは返した。

「ウチ、見たいものがあったんだ」

「何?」

「キンセンカ、知ってる?」

「ん?花の名前?」

「そう。有名なんだよ、ここのキンセンカ。あたり一面がキンセンカなんだって。あのね、香水とかにも使われる花でね、めちゃいい匂いなの」

 いい匂い。ユキオのセンサーが反応する。それでも断る理由など見つけられない。まぁ鼻で呼吸をするのをやめれば大丈夫だろうと思い、ナナオの誘いに乗ってやることにした。
 
 それぞれコーヒーショップのカップを握ったまま、脇道を歩いていくと、一瞬、ユキオの鼻を腐った卵のような匂いが刺激する。やばい。そう思うよりも早く、頬に冷たい感触がした。

「あ、雪」

 ナナオは小さく呟いた。灰色の空から、柔らかそうな大きい雪がふわふわと落ちる。手袋をしたナナオの掌に雪は落ちると、しばらくはその形を留めたままだった。

 二人が脇道を抜けると、そこには一面オレンジ色の花畑が広がっていた。12月に開花するキンセンカ。その上に、白いワタのよう雪が落ちていく。
 ナナオが楽しみにしていた芳しい香りは、雪の水分のせいでさほど漂ってはいなかった。それはユキオにとっては幸運だった。

「綺麗でしょ?」

 ナナオは鼻を赤くしたまま微笑んだ。「うん」と、ユキオも微笑む。

「また見にこようね。今度はちゃんと、雪の降ってない日に」

 そう言ってから、「まぁこれも悪くないけどね」とナナオは嬉しそうにこぼした。
そして二人は手を繋ぎ、しばらくその、オレンジと白の景色を眺めていた。
 また見に来ようね。ナナオは、二人の未来をどこまで思い描いているのだろう。その未来をどこまで追って行こうとしているのだろう。ユキオはただ、あの日、ナナオから発していた甘い香りの残り香を追っているだけだった。もう、あの香りの正体を理解できるような歳になった。
 そしてユキオは、自分は外道だと、ゆっくりと理解しつつあった。満たされぬ飢えと欲求は、年を重ねるごとに積もっていった。


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