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『武者小路実篤詩集』の読書感想文

『柿の賦』
詩の途中、実篤が柿そのものになって思いを語る。
擬人化というより、一体化。

我は天与の食物をとりて
その内より甘露を集めて
わが実をつくりたるなり。

実は、誰かに差し出すもの。
誰かの食べ物になるもの。
食べ物の中でも、甘いものは特別だ。

我又かくの如きか。

最後の一行では、実篤自身に戻る。
この詩には、実篤が作品を制作する際の態度があらわれている。

実篤と柿。
実篤は柿が大好きだったらしい。
柿を描いていたが、描き上げる前に、つい食べちゃった、とどこかで読んだ。

『僕から見ると』
実篤、いいなあ。

『自分が』
あの実篤にすら、生まれてすみません的な感覚があったことに驚く。
ということは誰にでもこの感覚はあるのだろうか。

『喜びは』
そうそうそうそう

『果報は』
本田宗一郎は「果報は練って待て」と言ったそうですが、実篤は

俺は、真心を生かして待とう

と言う。
似ているようでちょっと違う。
でも、それもよし、これもよし。それが実篤マインド。

『俺はこの幸福を』
この一行が思わず出てくる実篤は、ほんとに、すごい。

『叱られると』
ああ実篤。これぞ実篤。
あるいは人間の生命力。

『一筋の道を歩くなり』
希望の天使。それは実篤かもしれない。

『馬鈴薯』
逃げ出す立体感。でもあきらめない実篤。そうだがんばれ実篤。

『笛吹く男』
自分の内に生きたもの。

実篤は画家や作家についての詩も書いています。

『バン・ゴッホ』(参考:没後120年 ゴッホ展の感想文
『ホイットマン』
『ホドラー』(参考:ザ・コレクション・ヴィンタートゥール展の感想文)(参考:フェルディナント・ホドラー展 の目撃談
『ドストエウスキーの顔』

レンブラントは特に好きだったのか、いろいろ書いてます。
『レンブラント』
『老いたるレンブラント』
『トビアスの帰り』
(参考:レンブラント 光の探求/闇の誘惑展の感想文

『よき画(え)をみるよろこび』
魂にじかにふれるよろこび
我は涙ぐみつゝ感謝するなり

もう付け加えることなんかないのです。
展覧会などによく行かれる方は、きっと強く共感する詩。

埴子は実篤の詩が大好き。
ぐらぐらしたら実篤の詩を読む。音読も時々。
もはや埴子のバイブル。 

実篤の詩集は何冊かありますが、この新潮文庫版は解説(亀井勝一郎)もいいです。
解説中に引用されている実篤の言葉(『歓喜』後書きの一節)。

「僕は詩のことを特別に研究したものではない。たゞ何かかいている内、だんだん調子が高くなり、羽の生えた言葉が生まれる。その時自ずと詩が生まれるのだと自分では思っている。」

フランスの詩人ヴァレリーの言葉も引用されています。

「羽毛のように軽いのではなく、鳥のように軽くなければならぬ。」

そして、編者であり解説者でもある亀井勝一郎の言葉。

「鳥のように軽快に飛ぶためには、生命がこもっていなければならぬ。或いは思想が熟していなければならぬ。」

これは、ヤナイハラの「そうです、深い思想は詩を要求します。」(参考:『ジャコメッティとともに』の読書感想文)という言葉に通じる。
といより、同じか。

ともかく、実篤の思想には翼が生えている。
一緒に飛びたい。
と思わせる力強いはばたき。

ちなみに、実篤の小説や戯曲についての亀井勝一郎の言葉。

「先生の文学は思想文学だと言ったが、小説や戯曲をみてもわかるように、殆ど対話を基礎としている。(中略)対話を通して思想が展開される。これは経文や聖書やソクラテス文献や論語など、世界の原典とみられるものに共通した特徴だが、この意味で武者小路文学は文学宗教哲学などの原始様式をそなえたものと言えるだろう。」

思想は鳥になったり対話したりするのか。
詩と小説の境目は。
対話しているうちに鳥になるのか。

「散文は足で地面の上を歩くようなものだ。はう時も、歩く時も、馳(か)ける時もある。しかしまだ地面からはなれられないような時、まだ詩は生まれない。しかし地面からはなれた時、詩になる。」(『歓喜』後書きの一節より)

ゴールは詩なのか?
そうすると世界の原典の立場は。途中経過なのか、あれらすら。そうは思えないが。

などなど。 

おすすめします。ご一読くださいな。

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『武者小路実篤詩集』新潮文庫
著者/ 武者小路実篤
編者/亀井勝一郎
出版年/1953年
出版社/ 新潮社

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以上、『埴輪のとなり』掲載のページを修正し再掲しました。

おまけ。実篤が「ある詩(うた)」と評した埴輪。

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