教員の苦手をAIに

教員のなり手不足が、浮上している。なり手以前に、志望者減少。年々減少しているらしい。教育学部の現実だ。
悲観する事、ないじゃんか。
公立校に勤めたいと思うなら、採用試験が待っている。取りあえずはチャレンジし、入学してから決めればいい。教員過程を取らないって手もあるし、採用試験を受けても、合格するとは限らないし。
なぁ~んて老婆心を思うのは、愚かな民の戯言だ。

「雑事が多い」
現場の声にあるけども、「先生って、大変だな」
小学生の頃、わたしも思っていた。低学年の頃、教卓の横にある大きな机。教員用の事務机で先生はいつも何か、書き物をしていた。
クラス名簿の作成であったり、授業計画書であったり。簡単な副教材を作っていたり、いつも右手に筆記具を挟んで、動かしていた。
薄い冊子を読む時には流石、筆記具は置かれていたが。
新1年生を受け持つとなると、入学式前がひと騒動であろう。
ひとり、ひとりの名前をひらがなで大きく、キチンと書いて、机の隅に貼らなければならなかったり、下駄入れにも同じようにしての、お世話仕事(?)が待っている。
猛烈な忙しさだ。
学年があがれば一応、お世話仕事からは解かれるが、今度は今度で「+授業の進め方」「+クラスの子との諸々事情」。
学校によっては「日記を書かせて、ちゃんと赤ペンでコメントを入れる」
などもあるから、拍車が掛かってヘトヘトだ。

「人間である以上、完璧には出来ない」
「我々にだって、子供との相性がありますからねぇ」
「正直、テキトーに。どこかで気を抜かないとやってられない。学校は勉強をさせる場ですので、生活面での指導はそれなりでいいかな、と」
万が一、公(おおやけ)。PTAの場で本音が出たら、総スカン。
「何ですって!あの先生は!」
都会であれえある程、噂が広まる。
少子化=完璧にその子を理解する、面倒を見る、お世話をする。
親にだって難しいのに「先生ならば」「教師なら」。
何かしらの新しい標準が産まれると、直ぐに「学校教育の場で」。
暗黙の了解が推して来る。
思うだけでも、ヘトヘトだ。なのに「OK」「頑張る」「受け入れますよ」の現場体制。
知らずの間に心身疲労。やる気がなくなり、退職したいとなって来る。

それは大変、どうしましょう!
由々しき事態にこうしましょうと文科省がメイクアップ。もとい。
お手当アップを考えた。不思議でならない。何故、AIを使わぬのか?
最先端の技術、ドローンと共にこれから社会の中心となるのを使うがいい。

多い雑用を、AIに任せる。
クラスの名簿づくりに、副教材づくり=負担減。先に書いた、新1年生を受け持つと前にある入学前のヘトヘト作業もAIに=めちゃくちゃ負担減。泣いて喜ばれる。
序でに、教員が個人的に「苦手」。イマイチとする分野もAIに。
日記のやり取りが(コメントを書くのが、面倒臭い。適当な長さが分からない)、授業計画書の作成が(計画通りにゆかない。けど、何となくうまくゆく)、副材料の作成が(かなり不器用。時間が掛かってしょうがない)。各々あるだろう。
AIにしてしまえば、楽になる。

学校=まず先生。先生=何でも出来る、苦手はない。
学ぶ・何かを習得する=人、先生から。或る程度、苦労しなければ身につかない。出来るだけ手作り、手作業、人の手で。心があって、思いが伝わる。

呪縛が、未だ教育現場にあり過ぎるのではなかろうか?
                             <了>
     





#AIの活かし方

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