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オランダの歴史【Part4: 中世中期】ヴァイキング、神聖ローマ帝国、商業の発展と十字軍

Hoi! みなさんこんにちは!
これまで数回にわたりお送りしてきたオランダの歴史シリーズはいかがでしょうか?
古代から中世前期までの歴史(Part1-3)をまだご覧になっていない方は本ページ下記のリンク、またはアーカイブからご覧ください!

今回は前回のフランク帝国の支配下にあった時代の続きです。
このころ勢力を拡大していた海の荒くれものとは一体、、
では、はじめましょう!

*前回同様、この記事はあくまでも当ブログ筆者が、複数の文献(日本語、英語、オランダ語)の情報を参考に編集したもので、それぞれの情報に関して諸説ありますことをご了承ください。


800年-1000年 ヴァイキングの時代

この時期は北の海賊が勢力をふるった時代でもありました。それが、あのカール大帝(前回の記事参照)でさえも恐れたヴァイキング※1。
名前だけでも聞いたことがある人は多いのではないでしょうか?
9世紀から10世紀にかけて、ヴァイキングはネーデルラント(低地地方)の海岸や川沿いにあり、無防備だったフリジアやフランクの町を襲撃しました。ヴァイキングはこれらの地域に大量に定住することはありませんでしたが、長期的な拠点を築いて領主として認められることもあったそうです。
9世紀末にはネーデルラントの大部分がバイキングに占領され、ドレスタッドの交易中心地は834年から863年のヴァイキングの襲撃後に衰退したと書く伝承も残っているそうです。

ヴァイキングの船の形状はこんなイメージ。

※1【ヴァイキング】
8世紀から11世紀にかけてデンマークやスカンジナビア半島を居住地として、ヨーロッパ各地に進出し活躍した北ゲルマン人の別称。海賊行為だけではなく、交易、植民、建国、傭兵など多面的な活動をした。本来の語義は「入り江の民」ということらしいが、のち海賊を意味する俗称となった。

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962年神聖ローマ帝国の成立

当時オランダ地域を支配していたカロリング朝東フランク王国は、ハインリヒ一世の死後に断絶し、後にその子であるオットー1世が即位しました。
彼は961年にローマ教皇※2であるヨハネス12世の救援要請に応じてイタリア遠征を行い、翌年に教皇よりローマ皇帝※2の帝冠を授けられました。

※2【ローマ教皇】
中世のローマ教皇は、宗教的、世俗的権威が入り混じる時代において非常に重要な役割をはたしていた。ローマ教皇はカトリック教会の最高位聖職者として宗教的影響を持っただけでなく、ヨーロッパ世界の歴史や文化、政治にまでも深い影響を与えていました。

オットー1世がローマ皇帝として認められたことにより、東フランク(ドイツ)が神聖ローマ帝国と呼ばれるようになりました。
つまり、ドイツ王国の一部だったネーデルラント地域も、その支配を受けるようになったということです。
オランダの都市、ナイメーヘンはドイツ皇帝にとって大切な土地で、何人ものドイツ皇帝がそこで生まれては亡くなりました。
また、ユトレヒトは皇帝の主要な滞在場所となり、商業港として栄えるようになりました。

ネーデルラントの各領主はフランク王国時代から権力基盤を築いていましたが、この時代少しずつ勢力圏を広げてゆきました。

11世紀 商業の発展・オランダの拡大と成長

ローマ時代末期から1100年ごろまでの間、農業に適していなかったオランダ西部の大部分にはほとんど人が住んでいませんでしたが、のちにフランドルやユトレヒトの農民たちが湿地帯を買い、耕作をはじめました。
彼らは数世代を通じてこれらの土地の水を抜いて耕作できる土地にし、当時のヨーロッパでは珍しい村に属さない独立した農場も築いたのです。

またこの頃、ギルドという特権的同業者組合も設立されて地域の生産量が需要量を超えはじめ、市場も発展、さらに通貨が導入されたことにより貿易もしやすくなってきました。

修道院や城を中心として新しい街も生まれ、商業とともに町全体が繁栄してきました。現在のベルギーのブルージュやアントワープが特に発展し、後のヨーロッパの重要な都市や港になったのです。

そして、この発展には、このころ盛んに行われた十字軍※3の遠征の影響も大きく関わっています。

※2【十字軍】
11世紀末から13世紀末までの西ヨーロッパのキリスト教勢力による対外軍事活動。全部で7回(8回)とされているが、中でもローマ皇帝は当時巡礼が盛んであった聖地イェルサレムがイスラーム教徒のセルジューク朝に支配されたことに対して「聖地回復」という宗教目的で派遣されたことが例としてあげられる。第一回こそ聖地を取り返したものの、再び奪還されたのち、商業的な利益の追求に目的が変化してしまったこともあり、教皇権の衰退を後押ししてしまった。
しかし、十字軍の遠征は主に2つの副産物も生んだ。
一つめはカトリック教会の権威の失墜。十字軍は各地でいい結果が残せず、それを指示したローマ教皇・カトリック教会の評判は下がりに下がった一方で、十字軍に同行して現場の指揮をとった各国の王の権威は高まった。
もう一つの変化は、商業の発展。軍隊が遠征を行うために整備された交通網により、ヒトやモノが活発に行き交うようになった。ビザンツ帝国やイスラームの先進的な文物が西ヨーロッパ世界に流入してくることも多かったそう。
ネーデルラント地域も含まれる北ヨーロッパ商業圏もこのとき繁栄し、現在のベルギーにあるブリュージュを中心とするフランドル地方が毛織物の原料となる羊毛で特に栄えた。

https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-008.html

土地は整ったとは言っても、、
海や川が周辺に多く存在するオランダ地域の農業は、湿った土地に加え、洪水にもたびたび悩まされていました。そのため、耕地の需要と労働力の拡大も背景に、人々は畑を囲む堤防の建設をはじめたのです。その後、土地や資源、労働力を多く持っていた修道院を中心に麹が進み、1250年ごろまでにはほとんどの堤防が海防に連結されていました。

ちなみに、あのヴァイキングの略奪行為もこのころには落ち着いてきました。

11世紀後期 オランダの台頭

このころ(1083年)から西ネーデルラント(低地)が証書にて「ホラント」と書かれるようになりました。

このホラントという名称はオランダ語のHotland(森の地)、あるいはHolland(窪地)に由来すると言われています。
「ホラント」は現在もオランダ西部の州の名前として使われていますね!

交易を通じて町が発領主にとって重要な資金源になるにつれて、町が発言力を増し、自治権を獲得して都市になりました。
その後2世紀にわたってオランダの影響力は拡大し続けました。

戦争になると交易に影響が出て商売にならないので町は君主の継承問題に口を挟むことさえあったそうです。

今回はここまで!次回の歴史編でついに中世のオランダの歴史が全て明らかになります。それではまた次回、Tot Ziens!

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前回までの記事

Part1
オランダの歴史【Part1: 紀元前】|7th Throw | オランダと日本のビジネス・生活を豊かに (note.com)
Part2
オランダの歴史【Part2: 古代】ローマ帝国の支配|7th Throw | オランダと日本のビジネス・生活を豊かに (note.com)
Part3
オランダの歴史【Part3: 中世前期】フランク王国の支配|7th Throw | オランダと日本のビジネス・生活を豊かに (note.com)

その他参考文献

https://europa-japan.com/cate_history/netherlands.html
https://greet.happily.nagoya/easy_history_the_netherlands/
https://www.edrawmind.com/article/history-of-netherlands.html
https://worldglobalist.com/treaty-of-verdun
https://sekainorekisi.com/glossary/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC1%E4%B8%96%EF%BC%88%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D%EF%BC%89/

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