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オランダの歴史【Part3: 中世前期】フランク王国の支配

Hoi! みなさんこんにちは!
以前の記事、オランダの歴史part1、2はご覧いただけましたでしょうか?まだの方はこちらのリンクからどうぞ!
今回はフランク王国の支配からはじまる中世のオランダです。

前回までのおさらい

紀元前よりローマ帝国の支配下にあった現オランダ地域ですが、3世紀の後半よりその勢力は衰退しました。その後、4世紀半ばよりゲルマン人の大移動が起こり、当時オランダ地域を含んでいた西ローマ帝国が崩壊し、北や東からゲルマン民であるサクソン人、フリース人、フランク人が大挙して押し寄せてきたのです。

中世オランダ

5世紀

押し寄せてきたゲルマン民族の中にクロ―ヴィスという人物がいました。彼はローマ帝国崩壊後、ガリアの地(ベルギー南部を中心) を統一し、481年メロヴィング朝フランク王国を成立させました。この王国は現オランダからフランス地域にも及びました(下図黄色部分)。

地図①フランク王国の領域図https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024008625.jpg

【このころのオランダの宗教】
当時、ローマ人とともにオランダ(ネーデルラント)にやってきたキリスト教は、411年ごろにローマ人が撤退した後も(少なくともマーストリヒトでは)完全に消滅はしませんでした。
その後、クロ―ヴィス一世がキリスト教カトリックに改宗したことで、彼の統治下であったネーデルラントの他の地域にもキリスト教が普及しました。
※しかし、キリスト教が北部に伝わったのはフランク人がフリースラントを征服した後です。

このころ東部にいたサクソン人はザクセン征服前に改宗し、フランクの同盟国になりました。
宗教も統治に、そしてその影響力を示すのに、大切な手段だったのです。

一方、この時代、上の地図①でまだフランク王国に入っていなかった北側の部分では、こんな国家ができていました。

650-734年: フリースラント(大フリジア)王国

フリースラント王国は650年から734年にかけて存在したフリース人の国家です。権力の中心地はユトレヒトでベルギーのブルージュ近郊のズウィン川からドイツのヴェーザー川にかけての海岸沿いの広い領域にまたがっていましたが、734年のボーン側の戦いでフランク王国に敗れ終焉を迎えました。
ただ、この地域については歴史家の間でも論争があり、永続的な中央権力の存在を示す文献的証拠はないそうです。おそらくフリジアに封建制度はなく、複数の小王国から成立していて、戦時には選挙で選ばれた指導者が統率したとされています。

地図②黄色部分がフリースラント王国

フリースラントという地名は現在も残っていて、沖合のフリースラント諸島を含むオランダ・ドイツの北海沿岸地域を指します。
ここの潮の満ち引きと景色のマッチは、さいこ、、
脱線しすぎると止まらないので、一旦歴史歴史、、。

では、当時メロヴィング朝に含まれていた南部の方に話を戻しますよ!

650年~850年頃 カロリング帝国

650年、メロヴィング朝の重臣が王座をのじわじわと乗っ取ってカロリング朝フランク王国(上の地図①)が始まりました。
こののち、先ほどの領域図①でピンクの範囲、つまりフリースラント王国だった部分までも抑え、フランク王国の最大版図を築いたのがカール大帝(742年ー814年)です。

カール大帝とされる肖像画
https://th.bing.com/th/id/R.d50ed3495edc92fc26931ab02932e638?rik=4C0I2jsmHXbDEg&riu=http%3a%2f%2fworks.topiapc.com%2fweb%2fwork%2fparis_web%2fimages%2fhistory%2fking01.jpg&ehk=xgT5vm8eU46DWg46KI%2bM1NsS5dNKQhMhTtq1z%2b2m2uo%3d&risl=&pid=ImgRaw&r=0&sres=1&sresct=1

カール大帝は800年に当時のローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられてローマ帝国の後継者になると同時に西ヨーロッパのキリスト教世界の守護者となったのです。

しかしそんな大きな影響力を持っていたカール大帝が亡くなると、王国は次第に分裂し始めてしまいました。
そしてその分裂した国土を廻って彼の子孫の間で争いが起こります。


843年 ヴェルダン条約

カール大帝の息子フランク王ルートヴィヒ一世の死後、彼の三人の息子たちによって、フランク王国の分割を定めるヴェルダン条約が締結されました。これにより、フランク王国は①西フランク王国②中フランク王国、③東フランク王国に分裂し、低地地方(ネーデルラント)は中部フランクの支配下に入りました。この分割は現在のフランス、ドイツ、イタリアなどのヨーロッパの国境の基盤を形成した歴史的に非常に重要なものなんですよ!後のヨーロッパ史にも大きな影響が、、!

緑部分が中部フランク王国https://i.pinimg.com/originals/e7/76/8a/e7768a533a3fde7ddb27285f6afb4c33.png

870年 メルセン条約

と、分割争いも落ち着いたかと思いきや、中部を収めていたロタール2世が亡くなり、その土地をめぐって西・東フランクの王たちが再び争いをはじめました。結果、もともと中部フランクの一部であったネーデルラント地域は東フランクの支配下にはいったのです。

そしてやつらがやってくる、、、!

そんななか、領土争いをしている彼らを北の方からニヤリと見つめる海の荒くれものたちがいました。
っと、今回はここまで。
はじめ中世を一気に書き上げてしまおうかと思った筆者ですが、歴史好きの血が騒ぎ細かいところまで触れていたら長くなってきてしまったので、続きはまた次回。楽しみになっていてください!
Tot Ziens!

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その他参考文献

https://europa-japan.com/cate_history/netherlands.html
https://greet.happily.nagoya/easy_history_the_netherlands/
https://www.edrawmind.com/article/history-of-netherlands.html
https://worldglobalist.com/treaty-of-verdun


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