あなたは一葉の中に
よく写真を撮るねと言われます。大きなカメラなんて持っていなくて、スマートフォンのカメラだけれど。言われてみれば確かに色々と撮っている方かもしれない。技術なぞは知らなくて特に誰かに見せるためでもなく、本当に何となくシャッターを切る。
たまにカメラロールを整理すると、すっかり忘れていた思い出がひょっこり顔をのぞかせることがあってたじろぐ。この頃はまだ仲が良かったなとか、そういやこんなことあったなとか。人間は物事を忘れることはなく、ただ思い出せないだけだという論があって、個人的には本当にそうなんじゃないかなと考えています。
私がよく写真を撮るのは、私はわがままだから、自分が見て感じた一瞬のときめきだったり、きらめきだったりするものを、目に見える形で自分の近くに保存しておきたいからなのかなと思う。
しかし、その心持ちの裏返しで、写真を撮らないこともありました。
初めて恋人とデートした時、私と彼はまだ付き合っていませんでした。彼がここから車で1時間と少し離れた所にある観光地を出かけ先に選んだのは、私が遠出をするのが好きだと知っていたから。
「君は写真を撮らない人なんだね」
違う、私は写真を撮らなかったのではなく、撮れなかったのだ。彼は私がまだ出会ったことのことの無いタイプの人で、しかも私よりもずっと大人です。この気持ちが憧れなのか、同情なのか、好意なのか、よくわからない。もしこの場所や彼の写真を撮ってしまったら、写真に撮る=大事な思い出として残ってしまい、彼のことを好きだと思ってしまうかもしれないことが怖かったのです。そんな状態で、容易にシャッターは切れなかった。
それからもう1つ。今はもう連絡も取れず、生きているか亡くなっているかもわからない友人が、突然倒れた時。私はその場にいなくて、このことを後から知って愕然としました。連絡もほぼ毎日取れていたし、日常にその人がいることが当たり前で、写真なんてほとんど撮っていなかった。
それから少し経って、ご親族の方と奇跡的に連絡が取れた時に、友人が写った僅か3枚の写真を渡しました。泣きながら喜んでくれた彼女は、友人が撮っていたという私の写真をわざわざ送ってくれました。その数は私の枚数の倍以上はあった。嬉しく思いつつも、2人で一緒に写真を撮ったことがないことに気がつく。私と友人が本当に一緒にいたのだということを、私は証明できない。
敬愛する林檎女史は、「だって写真になっちゃえば あたしが古くなるじゃない」と歌う。そう言い切れる強さに憧れます。けれど私は写真を撮り続けるし、最近は滅多に撮らない自分の写真さえもたまに撮ってもらうようになりました。私が愛するものの変化も、老いも、思い出も、取りこぼさずに抱きしめて生きていきたい。
「君は本当に写真をよく撮る人だね」
そういう、わがままな奴なのだと思います。
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