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のちにくやまず

いつからか、後悔しないように生きようと思い始めていた。
 
人間は生きているとどこかで後悔を覚える。それは自分のことだったり、友人仲間のことだったりと様々だが、私にとって家族という繋がりは、30歳になった今一気に複雑めいてきていて、後悔が形になる前のもやのような状態、思い悩みの種になっていた。
 
切っても切り離せない間柄だから、どうにもならない。どうにかしようとしても、ままならないことがある。現実を見ることから逃れられない……家族について考えるとき、私の中には重石が乗っているような心持になる。私が母の望んだ一人娘なのだからというのも相まって、誰も私のその重石を持ち上げてくれる人がいない、私は一生こうやって”家族”としての荷を背負っていくのだろう……と、時おり呪いのように思う。
実際、意外とそんなことはなく、誰かがふいに助けてくれたり、荷が軽くなることがあるのだけれど、私の性格上、どうしても自分ひとりで背負い込もうとしてしまうのだ。
 
家族と向き合うのが怖かった。いつかどこかで後悔するかもしれないことを看過したままにしているのも怖かった。
辛抱ならなくなって、4月、私は動き出した。確執、というほどでもないが、将来の心配があとを絶たない偏屈な母の兄(叔父)が介護をしている祖母に会いに行って、桜とともに写真に遺そうと思い立った。
 
祖母のことは以前も日記に書いたが、おそらく年齢的にもう長くはない。クリスマスの記憶もあって、祖母には感謝を伝えたかったし、彼女がいなくなるまでにやれることはやっておきたかった。だから、子どもの頃は一緒に遊んでいたのに、いつしか苦手になってしまっていた叔父の元に勇気を出して行き、3人で桜と一緒に写真を撮った。
 
こうして写真を見ると――そして、話を聞いていると――、なんら問題のないすてきな家族の話に聞こえるが、実際はもっと複雑だし、つらくて、苦しくて、言葉にならない言葉が頭の中を駆け巡る。本当に思い残すことはないか、自分のつらさを置いて家族のことばかり気にかけ、自分の幸せを逃がしていないか、そう思うことが罪ではないのか。色々なことを思う。到底、一言二言では形容できない。人生はこんなに厳しくて、こんがらがったものなのだかと思い知る。


祖母と桜


 
それでもこの写真を、美しいと思う。誰がなんといおうと、まぎれもなく美しい写真だ。繊細すぎて傷つくことの多い、生きづらい私が大好きだった祖母を大好きな花とともに撮った写真。この写真は、きっとお守りのようにこれから訪れる悲しみに寄り添ってくれるだろうと信じている。後悔という名の石が、ほろほろと崩れていくのを感じた日だった。
 
そして昨日、母にも30にしてまともな親孝行を初めてすることができた。遅い、と思われるかもしれない。けれど私は、これからだと思っている。これからどれだけの時間、母と一緒にいられるだろう。どれだけ「ありがとう」を伝えられるだろう。人生は誰にも分からない。明日には、それが出来なくなるかもしれない。だから私は、一瞬一瞬を悔いなく過ごそうと思う。与えられたものにきちんと返せるように。そのために、身のまわりを、心を整えて過ごす。
 
それが今の、私の生きるしるべであり、心づもりであり、願いだ。

2023.4.19

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