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私がLGBTQ+映画を観る理由

いつも真面目な話をしていないというわけではないのだが、今回は少し真面目な話をしようと思う。私にとって映画とは何か、また、私が進んでLGBTQ+(セクシャルマイノリティ)の人物が登場する映画を観る理由は何か、ということを、腰を据えて話してみたい。

映画を観ることは「人や物事を自分の目で見ること」と同義だ。たとえば電車の中で向き合った人の人生を推測しようとするとき、私はその人の姿形、仕草などから彼ないしは彼女の人生を思う。この人はどんな人生を歩んできたのだろう――そう思っては、次の駅で降りたその人のことを長考したりもする。映画とは、まさにそのような感じで、「その人物の人生を間接的に想像することができるもの」だと思う。
自分ではない誰かのことを考えるがゆえに洞察力が磨かれる、という点で、人や物事を見る時の目が濁らないよう、偏った見方にならないよう、常にニュートラルかつ平等な視線でいられるために必要なのが、映画というひとつの学びなのだ。

映画が好きで、今までの人生におよそ3000本は観ているであろう友人の発信するツイッターなどを観ていると、近年の人種差別撤廃運動や、諸外国で起きているデモや政治運動へ関心を向け、自分の言葉で意見を述べている。そんな友人を見て、やはり映画という形でさまざまな世界をその目で見てきている人は「学んでいる」のだなと感じる。

ここで言っておきたいのは、決して映画が「道徳の教科書」のように模範的に、いつでも誰にとってでも「尊い学びの入り口」になるわけではない、ということだ。もちろん、娯楽として楽しむだけでもいい。「学ぶ」という姿勢を強いるのではなく、ただそこに在り続け、いつでも私達に新しい視野への門戸を開いてくれているのが映画なのだ。

そこで私は、LGBTQ+である人達がどのように日々を過ごしているか、日々どのような視線を向けられ生きているかに興味を持ち、特に好んで彼らのような人物が登場する映画を観るようになった。というのも、ひとつは彼らのことを上記のように「見つめていたい」という気持ち、そして自らが(まだ深く自認をしていないにしろ)当事者なのではないか、という考えがあり、自分のことをもっと知りたい、という思いのもとでそういった映画を観ているという理由もある。

彼らは映画の中で時に苦しみ、時に歓び、非常に愛の領域が深く人間らしい姿を見せている。私も「愛」というテーマにおいては特別たる思いがあり、今までに何度もエッセイやコラムのテーマにしていることもあり、自分ではない人が抱く愛の形を見て、考えることが好きだった。彼らが奔放に愛を抱き、愛を持て余し、性別に限らず「人そのもの」を愛する姿が、私の目にはとても輝かしく見えるのだ。いつか私も、という願いや、どうか幸せに、という祈りとともに、私はまた新しい世界の輝きとそれに相対する暗澹を学んでいく。
LGBTQ+映画の中には、当事者が周囲に受け入れられている場合と、そうでなく理不尽な差別を受け、隅に追いやられ生きている場合とがある。受け入れられている場合の映画を観た時の世界に満ちている温かみと輝きは、想像以上にかけがえのないものであることを、いつもエンドロールを迎える頃に感じる。

私たちが今、生きている世界はまだとうてい「全ての人間が幸福を手放さず生きられる」状態にない。しかし、いつか――と祈りながら、どんな人々の生も目を逸らさず見つめ続けていたいと思う。
映画とは、人を見つめることだ。そうして私はもっと多くのことを知ることができるのだということと、映画の持つ力を知る。

「学ぶ」が「生きる」に繋がるとき、私の心ではいつもスクリーンに映画が流れている。

初出:BadCats Weekly

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