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ブルーピリオド最新刊発売記念レビュー~裸になれない人間たちへ

「俺の体 毛の生えた薄手のゴムみたいで 俺が想像してたより情けないな…」

ブルーピリオド5巻より


汗ばむ肌を洗面所の鏡に晒した、あの日の真夜中。
この中に一体何が詰まっているんだろうと、気持ち悪くもなったし、どうしようもないほど愛おしくもなった。

美大受験マンガ『ブルーピリオド』の最新5巻が先日発売され、発売当日に買った。

※最新14巻読了を記念して、本作5巻発売当時(2019年7月)に執筆したものを以下に再掲する。

発売してすぐにマンガを買うのが久しぶりで、自分が思った以上にこの『ブルーピリオド』という作品に心を奪われていることに気づいた。毎回、読むたびに鋭利なもので心を貫通させられるような感覚にさせられて、「次もきっと私の心のど真ん中を貫いてきてくれるだろう」という確信があった。
そうして読んだ5巻は、今まででいちばん好きな巻になった。今までは「絵を描くこと」ないし「創作すること」に焦点が当たっていたのが、今回の巻では"女装男子"という立ち位置にいた鮎川龍二というキャラクターの「創作へのピリオド(終点)」と「心と体と愛の輪郭」が描かれていた。
龍二の抱いていた複雑さを真正面から受けとめる八虎を見て、ふたりの短い逃避行の旅は、もしかしたらこれを読んでいる誰かの心を救えるのではないか、と思った。
誰かの前で裸を晒すことを恐れている、人間に向けての救いに。

しばしば、愛とは何かについて考える。その中でも男と女という形については、ジェンダー/セクシュアリティが細かく分化された現代を生きる上で特に深く考えがちだ。
いくらでも難しく考えることが出来るけれど、私からしてみれば、「人間が人間である理由」という部分に行き着くのではないか、と思う。
人間は複雑だからこそ、こんな風に地上で最も賢い生物の地位を維持しながら生きることが出来るし、反対に、とても野性的で本能的な部分を持ち合わせているからこそ、愛というものを多様化させることが出来るのだとも思う。

しかしそんな人間の肉体を見れば、男と女などあまりにも単純で、拍子抜けしてしまうような形をしている。誰から見てもその区別は容易だ。
それなのに心はその単純さを跳ね除けるかのように複雑で、人間を人間として機能させ、苦しめている。苦しみもあれば、時々どうしようもなく嬉しくなる。触れ合いたくなったり、叫び出したくなる。

猿みたくなったり偉人めいてきたりしながら日々を生きていると思うのだけれど、つくづく変な生き物、としか言いようがない。私もそんな人間という生き物のひとりだ。だから八虎と龍二が小田原の旅館で裸になり、自分自身の裸体に向き合ってデッサンをした時、八虎がぼそっと口にした言葉が何よりも深く心を貫いた。それが冒頭のセリフだ。
人間の裸体というのは何故こんなにも得体が知れないのだろう、と私も思ったことがあったから、八虎の心からそのまま漏れ出たような言葉に、彼の愚直な人間らしさを見たし、彼に龍二のような人間たちを沢山救ってほしいと願った。
たとえ龍二の体が男でなく女でも、彼の愛する人間が男でも女でも、同じことを彼はしたと思う。恋とかではなく、裸で触れ合うわけでもなく、しかしそれよりももっと濃く、彼は龍二という人間を理解したのだと旅館のシーンを見て思った。

人間って、やっぱり愛おしいなぁ。どうしても。
ぶよぶよの、中身も分からないゴム風船みたいな体を持て余しながら、男は男の曲線、女は女の曲線を持ち、時にそれらを重ね合わせ、嵌らなかったら同じ形の人を探してみたりする人間が、どうしたって私は愛おしいのだ。

創作する苦しみの真の部分は、創作している人にしか分からない。
心と体と愛について、裸になり向き合う意味は同じように生きる人間にしか分からない。
だとしたら私はこの『ブルーピリオド』を、然るべき人間に私という人間から差し出したいと思う。複雑どうし、私たちにしか分からない秘密の暗号のような気持ちで。

複雑に生きることは楽しい。たくさんの愛を知る。感情をモノにして産み出す快感だってある。
だから痛くて、苦しい。

私とあなたで裸になろう。変なのって、世界の片隅で笑えたらラッキーだ。


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