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思いやりと呪いかけの分岐点

はじめに


ふと気づいたことを
パパッとまとめるシリーズです。

パパッとはまとめられていませんが……

とは言え潔くはじめます。

思いやりと呪いかけの分岐点

ある時ふと
思いやり、気遣い、心配り、
マナー、礼儀と言われる類のもので
共通する分岐点があるという
気づきが浮かびました。

その分岐点によって
行為の内実及び効果が真逆に分かれます。

思いやりのフォーマットをとった
受動攻撃なのか
それとも相手に快適さ、心地よさを
差し出す愛情なのか
です。

さてその分岐点とは何かというと
思いやり行動をインプットした際に
体験したのは「快」か「苦」か
という仮説が次の出てきました。

快とセットで習得したものの
アウトプットの目的が
快の提供といい親善行動となり、

苦とセットで習得したものの
アウトプットの目的が
苦の強制という復讐行動になる
傾向にあるように思えます。

何故そうなると考えるか

人間の脳には
いわゆる合理的、理性的な部分が
フロントで作動しています。
同時にバックグラウンドでは
本能的な脅威要素排除プログラムも
作動していると言われています。

命に関わるため、
バックグラウンドの方が支配的で
非常時に後者の執行が優先される、
という基本の働きも踏まえると、

確かに前後方の見解が一致すると、
調和的に連携するのがよく分かります。

例えば先に虫の知らせで嫌な予感がして、
そのあと何故だろうと考えて、
環境や状況に潜在的に存在する危険や問題を
察知、分析し、対処する方法を思考できます。

一致しないと前後方の二人三脚が
うまくいきません。
例えば急に怒りがわけもなく
湧き上がりました。
ふつふつイライラ。キレそう
わけがないので頭では
「いや別に怒っていない。何も起きてないし何もされてない。自分はそんな狭量な人間ではない。というかなんで気分が悪いのか説明できないし理由もない!」
などと思うかもしれません。

しかし意外とそれは気づけない
地雷を踏んでいるため、
ということが起きていたりします。

例えばたまたまいる場所のテレビから
たまたま昔いじめてきた嫌な人間と
似た喋り方をしている出演者が
喝采を受けているのを見てしまい、

いち早く脳がそれを脅威と感知し、
災害に晒されているほどの不快感に
圧倒されることになることがあります。

そうすると理屈が通ってなくても
怒りや苦しさは生存レベルで
燃え盛り、
理屈に合わないとの頭の説得が
虚しく敗れるばかりか、
余計に油を注いで不快を助長します。
主観では意味不明なきっかけで
争いを起こしたり、巻き込まれたりする
事例が残念ながら多く存在します。


少し遠回りをしましたが、
要は、脅威排除の必要性が生じたとき、
表面的で取りたい行動とは関係なしに
攻撃や回避、仮死(または自滅)が
最優先目的になります。

脅威体験と一緒に
思いやりの表現を
習得したらどうなるのでしょうか。

思いやりの表現は
攻撃や自衛の手段になります。

生きるか死ぬかの戦いに置かれていては
視野が狭くなり
状況をフラットに見ることが
非常に難しくなります。

本当はやっつけたいのですから
フラットに観察して得られる気づきや
他者のニーズに対する想像力と
自身が差し出すことで状況や関係性を
調整する能力が抑制され働きづらくなります。


「気がきく」という表現がありますが、
サバイバル状態では
その気は効かなくなるイメージです。
非常時なのですから、
利他目的のための手がかりを
キャッチするアンテナに注意力や気力を
送り込む通路が一時停止され、
救命のためエネルギーを
自己防衛に回されています。

意識している表面では
人を傷つけたい悪意があるわけではないので
混乱を伴った、不自然さのある
苦の強制になることがあります。

一方、安心とフラットな状態で発生する、
快の提供は調和された自然かつ
柔軟な応用になります。

善意の通路は閉ざされていないと、
行動の大小問わずに他者に心地よい瞬間を
与えることができ、
他者の喜びの情動反応を受けると
社会的に生き物として自身も喜びを受け取り、
互いに幸福ホルモンの贈答応酬を
無意識下で交わす投桃報李サイクルが
出来上がります。

補足にはなりますが、
「快」の感覚はさまざまな
バリエーションがあり、
必ずしも
「身体的欲求満足を中心とした、
 わがままを通した状態でしか得られない」
ものではありません。

実際、正しく与えることで返される
他者の快の情動に触発された喜びのほうが
大きく感じられます。

他にも共有の喜びや、道徳・美学・宗教的快などさまざまにあります。価値観や経験で変化する快の感覚や信念もあるし、程度もさまざまにあります。ここでは論じません。

そして苦痛や恐怖が動機であった場合、
前述の通り健全な気遣いになり得ません。

硬直化した権力や階級などのパワーバランスに
覆い隠されたものや、自己正当化、復讐や攻撃のための隠れ蓑など、
持続可能性の乏しいものになっていきます。

服従と怨恨、誇示と不安の
交換と強化です。

子曰く、のやつ
己の欲せざる所は人に施すなかれ、を
思い出すと、解釈が変わってきますね。

自分が嫌なことを人にやらないことが
直観的に理解可能ならば、
どうして自分が嫌な思いから出発して
何かの利得のために
本音では嫌々他人に提供した
「欲せざるところ」が
「礼」として成立するのでしょうか。

「礼」が手段化されることは
健全の思いやりではなく
礼を失わせることであり、「失礼」です。

自分との関係性においても
他人と自身の関係性においても、
我慢の押し付け合いの合意書の突きつけは
思いやりと言えそうになさそうです。


思いやりの種を育てるには

これまで見てきたように、
思いやり行動をとったところで
生きるか死ぬかの闘争の切迫感が
発動されている場合、
他者を脅威と感じ、
労りの代わりに攻撃の思いを与え
争いの種を仕掛けることになります。

つまりは安全感の欠如の結果です。

ドラマクイーンは
インセキュリティとセットで
語られることが鉄板であるように、です。

これの行きつく先の極端なステレオタイプが
慇懃無礼のサービスマン、疲れる接客マニュアルトーク、嫌味な京都人、女性の共感のノリでぶつけてくるマウンティング、共感のフリした悪口大会、子をダブルバインドぐるぐる巻きにする親、
などです。
身近で分かりやすい例が
たくさん見つかるはずです。

これらの事例では
面白い自己正当化トラップに
ハマっていることがよく観察されます。

被害者意識における武装です。
攻撃を正当化する武器として
愛用されやすいのは、
苦労や不幸、我慢や正論です。
徒党を組み、不幸を支えて
強くなろうとします。

そこで「思いやり理論」が
持ち出されることが実に多いです。

「自分はこんなに我慢して」
→自分が被害をしたので攻撃していい
 というロジック

「普通は〇〇するでしょう」
→普通であろうと自分は我慢したのに、
 で、前項ロジックに合流

「よかれと思って」
→他者のために無理や苦労や我慢をしたのに
 見返りがないと感じ、被害を蒙った
 で自分我慢ロジックへ合流

「〇〇は常識的に間違っているよ」
→なぜ常識的でないと困るのか
→必ず自分にとって
 被害や脅威につながると感じた部分がある
 で自分我慢ロジックへ合流

しかしこのように思いやりの名の下で
真逆の攻撃の正当化をかざしていると
どんどん混乱が増えていくことが
想像に難くありません。

なぜなら安全感や快を得ることは
他者を痛みつける強さを増すこととは
関係ない上逆効果です。

他者の欲求を犠牲にして
自分だけいい思いをしようとする、
は当然上手くいきませんが、

自分の思いさえ折ってしまえば
収まるだろう、も思いやりではありません。

自他の関係性や要望の調整を
回避した被害者意識です。



ではどうすればいいでしょうか。
快とセットで学習した思いやりの
身体感覚が鍵になると考えます。

他者のその時々の欲求や希望を
身体感覚レベルでキャッチし、
リアルな情動データを通して理解し、
適切で自然、柔軟性と協調可能性のある
言動を素早く差し出して「思いやる」には、

同じことを差し出された経験、
差し出されたことで得られた
身体感覚や感情を
実際知っていなければできません。

快であるという身体感覚やイメージを
喚起しながら他者の状況を
客観的に想像できると
届くような思いやりが作られます。


急にまた変な例ですが
自分で味見or食べたことのない
純粋に理論上美味しいであるレシピを
完璧再現して
他人をもてなすことに
やはり違和感が拭い切れない気がします。

たとえ実際天才的に美味しくて、
相手の満足が十分得られたとして、
それは「思いやり」ある行動と評価できるか
難しいところです。

投薬ならまだ分かるのですが、
しかし投薬という治療行為は
極端の話「思いやり」は
必要ではありません。

というわけで
自身の実感データが完全に不在の
快や善を他人にとってよいと
頭だけで判断して実践しているだけでは

与える主体が
他者への想像力を働かせる基盤である
自身の素朴な感覚や気づきを
回避しているため

却って差し出す過程で他者の
実感やニーズを無視してしまう
危うさを生みます。

自分なりの感じ方、考え方の検証を
充分に行わずにして「はずだ」「べきだ」から
出発しているので、
硬直的な対応になりがちです。

自分の感じ方をスルーすることで
他者のの感じ方も同じように
拒否、却下しやすくなるといい
ある種の思考停止が発生します。

思いやりや、繋がりの感覚を
成立させるには
やはり自他の身体感覚の映し合い、
応答のし合いが
必要であるように思われます。

それは面倒なことですし、失敗したり
傷つくことも多いと思われます。


というわけで
他者を思いやり、優しくするために、
他者の思いに寄り添い、応答するために、
被害者意識なくアサーティブに
自他の関係性または距離を調整するために、

思いやりを受けて「快」を与えられた
経験を充実させると良いと考えます。

他者からの思いやりも、
自分自身を労った経験も
等しく有効です。

場合によってはまず自身との関係を
よくしてからのほうが早いかもしれませんね。

自分が何ら思いを抱いたときに
認めて寄り添い、何を望み
どんなことをしてほしいかを
問いかけ、可能なことをしてあげてみる、
というようにささやかな瞬間を
積み上げていってみます。

これが良い練習になるはずです。

人それぞれのことが無数にあり、
理解不可能性が前提になっていますが、
自分自身のことも大して変わりません。

自分自身こそが
中途半端にしか理解できないまま
一心同体のままずっとやっていく
同居人のような他者です。

したがって他者と
互いの思いを尊重する(理解できなくていい)
基盤を作るのも、
自身の安全感を高めるのも
まずは無理のない受容の姿勢となります。

「自分には分からない思いであるが
 相手のそういう思いに対して
 自分はこういうことを差し出せる」

「相手には分からなくても、
 自分にはこういう思いがあって、
 それを伝えて、相手に
 配慮できるかどうかを判断してもらおう」

このような健全な調節は、
正解もなく終わりもないのですが

快の実感とセットで思いやりを体感した
データが充分にあると、
他者のニーズへの想像力が豊かに培われ、
結果的によい循環を作っていくのだと
思います。

例えばこのような心の持ちようになります。

・思いが寄り添われること、
 叶えられることは快である

・自分は快を求めて良い。
 それを実現する調節力もある

・自身の快の経験が思いやりの喜びを
 想像できるようにしてくれた

・他者の快と自身の快は
 両立しないとは限らない

・自他の調整が困難であるとき、
 攻撃や防衛の気持ちに支配されていないか
 冷静に見ることができる

・したがって他者の快につながる行動を
 自然と望み、そのための
 自分主体で取れる最適な行動を
 無理なく学び実践する


終わりに

まとめると

他人への思いやりは

我慢やつらい気持ちでできることではなく、
むしろ快の体感と、快への想像力に立脚する
自然な気持ちと気づいたという話です。

家族仲が良かった人は
思いやりをうまく体得していることが多く、
よく観察して学ぶといいのかもしてません。

意外とたくさんの
「無理のないささやかな行動」で
自分と他人の幸せを作れるんだ、
と分かります。


私なんかは昔に職場の女性先輩からいただく
ちょっと高そうで怖い思いをしてしまう
バレンタインチョコより、
(ホワイトデーのお返しで気を揉んでしまう…)

つかず離れずの仲の知人友人の集まりで
気兼ねなくポタポタ焼きをポリポリかじって
遊ぶボドゲの時間のほうが
幸せでした。

思いやりとは、を教えてくれる
全然タイトルが思い出せない
名作洋画の名シーンに象徴的なシーンを
うろ覚えながら思い出します。
(『ノッティングヒルの恋人』のような……違うような……)

主人公である彼女に対し、

優しくてマメの金持ち男さんが
クリスマスパーティに持ってきた
プレゼントは、
高価で美しい、似合いもする
ネックレスです。

一方、金持ちでない平凡男さんが
持ってきたのは、
彼女が語った思い出話の中の
子どもの頃にしか売ってない
幼い頃変に履きたくてしかたがない
ダサ色のシマウマ柄ハイソックスでした。

もちろん後者のプレゼントで
彼女は欣喜雀躍して大喜びする結果となり、
真実の愛を証明する心の繋がりを
上手く描けたシーンというわけですが、

これは別に金持ち男の方の愛が偽りだとか
喜んで欲しくないわけでは全然なかった点も
すごくよかったなと思います。

現実の日常では
別に贈り物はいつだって
相手のツボぴったりのものを
探し当てる勝負ではないのですが、

このシーンは
思いやりと贈り物の発想が
ヒントになります。

そこに「快」は終始しています。

彼は彼女が思い出話をする時の
快の感情をキャッチできていたから、

喜びそうだなという、嬉しい想像で
ソックスを楽しく探していたでしょうし、

無理な背伸びをして
自分を苦しませていません。

そして実際喜ばれると、
やはり自分が「うまくやった」という
自己中心の達成感などではなく
「ああよかった相手が嬉しそうだ」
というつながりの嬉しさになります。


まとまりませんが、終わりまーす!
みなさんいいお年を!

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熟成下書き

お読みくださりありがとうございました☘️🌈 初めての方、あなたに出会えて嬉しく思います。フォロワーの方、いつも見守ってくださってありがとうございます。 共感できるところや、心の琴線に触れるところがありましたら、ぜひ応援の気持ちを届けてください。心が温まります❤️🌟