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ひとり旅日記欧州へ18日目:ギニアからの難民、ロメオ少年に助けてもらった。


2016年1/7ベルリン2日目。

ベルリンの壁記念館から1日を始めた。記念館は大したことがなくてがっかりだった。1989年11/9-10の出来事だったのなら、家族揃って夕飯の瞬間はちょうど弟の誕生日だったんだと思った。第二次世界大戦で敗戦したからって、住む場所を人工的に東と西に壁で区切るって、人間って馬鹿で面白いことするもんだと思った。「壁で区切る」って方法は未だに人気の様で、イスラエルがパレスチナを壁で威圧してるし、米国トランプ氏もメキシコからの移民防止策で壁云々言ってる。元々自然界にないものを作って目に見える様に区切るのは人間しかしてないこと。動物界でそんなことしてますか?共存してますよね??この点から人間は馬鹿だと言いたい。

パネルの写真。壁の境界にあったお店は通り抜けできない様に店内に石が積まれた。

記念館の映像は来るべきして来た壁の崩壊の前段階の様子が流れてた。この後売店に行き、3枚のポストカードを買った。①姉妹か友人か分からないが、2人の女性が有刺鉄線越しに抱っこしてるそれぞれの赤ちゃん同士が手を伸ばして触れ合おうとしてるポストカード②壁越しに向こう側の家族か友人に、自分の赤ちゃんを見せる為に壁の高さ以上に赤ちゃんを持ち上げてるポストカード③壁崩壊後の自由な雰囲気のポストカード。

記念館近くの道路の石畳の部分は、元壁があった場所を示してる。

次は世界遺産の博物館島へ。ベルガモン博物館を見る時間はなかったから、大聖堂に行った。7ユーロもするんだね…。当たり前だけど、入場無料のケルン大聖堂には遠く及ばず。ただ、ドームまで上に上れたってだけの話。そこまでのように感動ナシ。

昼時になり、昨日のフードコートでタイレッドカレー風味の野菜炒め+米。米が少ないですよ…。7.95ユーロ。

午後はブランデンブルク門へ。ベルリンの壁崩壊の時に真っ先にこの門の前の壁が壊されたとの事(門は東側にあった為、西側からは近づけず門の裏側しか見えたなかったとの事)。ここから直線距離的にポツダム広場にいけそうだったが、途中であと2.8kmのサインを見て諦めた。ベルリン、広いね…地図で行けそうじゃんと思っても、距離感のズレハンパない(苦笑)。

次はモノ博物館へ。この駅の周辺は今まで訪ねたドイツの中で今の所1番治安悪そう…。ヘンな若者多かったし。目が合わない様に目的地に急いだ。博物館でチケットを買ったら受付の兄ちゃんが、「どうやってここを知ったのか?」と聞いてきたから、「日本のガイドブックに載ってたから」と答えた。アジア人来ないんだろうか?上の方の棚の展示物は高過ぎて見えず…アジアン仕様でないことは間違いない(苦笑)。キレイ!とかカワイイ!と思ったものを写真撮った。

18時に毎週木曜にしか開催しないというマルクトハレのフードショウで夕飯にしようと思った。手元の印刷した地図はとってもオシャレで実用的じゃなかった。残念なことにこの地図しか頼る物が無い。見る限りそこまで遠くない感じなんだけどな…。よくわからなくなり、すっかり日が暮れてしまったからお店の灯りを頼りに地図と苦戦してると、背後からMay I help you?の声が。え?と振り返るとアフリカ系の高校生くらいの細身の男の子だった。行きたい場所を伝えると、「この辺は一度来たことがあるからわかるよ!」とのことだったが、結局ぐるぐる回って彼は4人に道を聞くことに。

「エーゴ話せて、ドイツ語も話せてスゴイね~」なんて色々話しながら歩き続けた。話してるうち彼がギニアから自力でやって来た難民だと知った。お父さんが早くに亡くなり、お母さんが1人で彼と妹を育てるのは大変で、学校には1,2年通っただけとの事。国に居ても先が見えないからと意を決して多国籍難民ボートに乗り込み、12時間海の上をさまよった後に救助の船に助けられたとの事。凄い勇気だと思った。しかも単身で。見るからに16~17歳位としか思えない。もしかしたらもっと若いのかも知れない。

最初はイタリアに2ヶ月、そのあとドイツに来たとの事。去年の6月の話って事は、日本でもその頃難民ボートの映像流れてたよね…映像には映ってなくても、あの映像の人達の中の1人である事実。日本では絶対に出会えなかった出会い。

今は語学学校でドイツ語を習ってるとの事。「半年でそんなに話せるの?」「先生からも語学のセンスあるって言われるんだ!」だって。「英語、ドイツ語の他に話せるの?母国語もあるよ。英語話せるのは隣の村とも言語が違うから便宜上英語が共通語なんだ」って。「今も母国語話せるの?」と聞いたら、拳を胸に当てて、「当然!自分の国の言葉だもん!」と誇らしく答えてくれたのには切なかった。それなのにギニアを出なければならなかった状況。想像し切れない。

あと3,4ヶ月したら高校に行けるかもしれないとの事。「どういう所に住んでるの?」「学校の寮みたいな所で自炊してる」との事(アフリカ料理)。生活費はドイツ政府から週40ユーロ支給されるとの事。でもこの金額の範囲ではなかなか衣服に回せないらしい。「ギニアにいた頃は寒いなんてコトバ知らなかったし、雪も初めて」だって。そりゃそうだよね。彼にとって人生初の冬なんだね。

色々話しながら、彼が4人目に聞いてくれた人のおかげで、やっとマルクトハレに着いた。19時。1時間さまよってたワケね。「お礼に何かおごるよ!」と申し出たのに、「食べて来たばっかだから」と。「じゃあ、飲み物だけでも」ってことで、やはり未成年でジュースを選んでた。彼と写真撮って、握手して別れの時が来た。別れ際に、「いつも自分みたいな迷える観光客を助けるの?」と聞いてみたら、「初めてだよ!」と。メールアドレスを聞いた。ニックネームはロメオ。ロメオ少年。彼が爽やかに去った後、自分の脳内は物凄い嵐だった。

とりあえず落ち着こう。喋りすぎて喉が渇いた。マンゴーラッシー。ロメオ、これ飲ませてあげたかった。次はブラジルのソウルフードというタピオカの粉で作ったお好み焼き風のモチモチしたパンケーキ?おいしかった。一周して気になったステーキサンド。牛肉はウマイ。持ち帰りで可愛らしいドーナツを2個買った。

帰り道。ロメオ少年がここまでに至る道のりを想像してみたら涙が止まらなかった。幸い夜道だったからそこまで目立つこともなく。でもハンカチは涙と鼻水まみれになった。ナチスがユダヤ人に行った過去の行為と、独政府が難民に手を差し伸べる現在。独の難民受け入れ体制の広さと、日の難民受け入れの窓口の狭さ。TVでは知ってた難民と出会い、逆に助けてもらったこと。この地球上のロメオ少年と同じ年齢で難民とならなければならない事を選ばなくてはならない子達は、日本みたいな国の子達よりも多いのではないか?彼、勉強したいって言ってた。満たされた国の子なら遊びたいって言うだろう。ギニアにいるお母さんと妹と早く一緒に暮らせますように。

「お母さん達を呼び寄せるには長男の僕が働いて、頑張らなきゃいけないけど、僕は黒人だから」って。本当に今まで出会った誰よりも衝撃的だった。同じ現代を生きてるのに、観光客として楽しんでる自分とロメオの置かれてる状況。苦しかった。

肌の色に負けず、自分に誇りを持って欲しいと思った。「You can make it.ロメオならできるよ」別れ際、自分は握手に力を込めて彼に何度かそう伝えた。

嗚呼自分。どうして今日もチロルチョコ持ってなかったかね…。宿に戻り、早速ロメオに明日ポツダム日帰り、ライプツィヒに発つ間に渡したいものがある。とメールした。

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