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やさしい先入観

出社しても朝から晩までだれとも話さずにそのまま退社することもある、いまのわたしからは考えられないことだけれど、前職はバリバリの接客業をやっていた。

大企業の人柱として最前線で老若男女を迎え撃つ日々。もちろんいい思い出もあるけれど、「あなたにいいお見合い話あるんだけどどう?」なんて声をかけてくるお節介マダムや、「個人情報保護だなんて融通がきかない!邪推しすぎ!」とわめきちらす性善説論者たちの相手をするのに疲弊して、たった2年で辞めてしまった。


最近になって、思い出す出来事がある。

定期的に来店されるお客さまで、いつも2歳くらいの小さなお子さまを連れてこられる女性がいた。
このお子さまは女性が用事をされている間、隙を見つけては自動ドアをすりぬけ、勝手に外へ飛び出してしまうことが常だった。そのたびに女性は用事を中断し、走って追いかけて、お子さまを連れ戻される。いつもこれのくり返しだった。

ある日、またこの女性とお子さまが来店された。お子さまが背負っている小さなリュックには長い紐がついていて、その先端を女性がしっかりと握りしめていた。

いまならそれが「子供用ハーネス」だということは一目でわかるけれど、大学を卒業したばかりで「子育て」とは縁遠い生活を送っていたわたしには、それの「意味」がわからなかった。

「え、何、あれ…」

隣にいた男性の先輩がいぶかしげにつぶやいた。

「…めちゃくちゃ便利じゃん」

めちゃくちゃ便利じゃん。
ピカピカの新入社員だったわたしのこころに、先輩のこの言葉は何の違和感もなく吸収された。わたしがこの先輩をもともと信頼していたから、というのもあるかも知れない。

なるほど!あのアイテムがあれば、女性が用事をされている間、お子さまが勝手に外へ飛び出してしまうことが防げるのか!そりゃ便利だ!


それから何年も経って、わたしはあれが「ハーネス」と呼ばれていることを知った。そして「犬みたいだ」と揶揄する人たちがいることも知った。

わたしが「ハーネス」をはじめて目にしたとき、自分自身で何かを思うより速く、隣にいた先輩がとても肯定的な「先入観」をわたしに与えてくれた。
そしてわたしは、その先入観を、後からさらに想像力で補足して、ポジティブなアイテムなのだという思い込みを強くした。

もし、あのとき、先輩が冷たい言葉を発していたら、まだ小童だったわたしはそれを鵜呑みにして、「ハーネス」を否定的に思ったかも知れない。そして、自分自身が「子育て」を経験するまで、その有用性をまったく理解できなかったかも知れない。


知らない何かに出会うとき、それに「やさしい先入観」を与えてくれる人が、そばにいると、とてもラッキーだと思う。

まずは否定、ではなく、まずは肯定。それをなぜ必要とする人が存在するのか、それはなぜ必要とされるのか。そういうことをきちんと考えるための先入観。

わたしもそういうものをひとに与えられる人間になりたいと思う。

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夫と5歳息子との暮らしのはなし。 毒にも薬にもなりません。