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息子が生まれて、わたしたち夫婦の関係はすっかり変わってしまった

息子が生まれるまで、わたしと夫はとても仲が良かった。
たくさんの感情を共有して、相手の喜びをまるで自分のことように受け止め、いつも譲り合うことができた。

だけど、息子が生まれて、わたしたち夫婦の関係はすっかり変わってしまった。

毎日毎日、朝から晩まで、わたしと夫は争ってばかりいる。
どちらも引く気がないので、終わることのない戦いだ。

どうしてこんな風になってしまったんだろう。


朝は、どちらが先に息子に「おはよう」を言われるかで争う。
わたしが息子を起こしに行くと、夫もやってきて息子をかまいはじめる。
それぞれが必死にアピールして、どうにか息子の「一番挨拶」をゲットしようとする。だれよりも先に息子の「おはよう」を聞くのはしあわせ至極だからだ。

そのあと、またすぐに次の争いがはじまる。
夫婦どちらが息子を保育園へ送っていくかバトルだ。登園する息子は機嫌のいい日はもちろん、機嫌のよくない日もクソかわいい。これを見逃す手はない。
「お父さんとお母さん、どっちと保育園行きたい?」
毎朝、息子はこの質問を投げかけられるのだが、この分野においては、わたしは負けることが多い。(敗因は、わたしの場合は自転車で登園するけれど、夫となら保育園まで「ダッシュ」で行くことにつき合ってくれるからだと分析している。)

これ以外にも、おでかけのとき、どちらが先に息子に手をつないでもらえるかバトルや、どちらが息子といっしょにお風呂に入れるかバトル、どちらが息子の寝かしつけができるかバトルなど、わたしたち夫婦の戦いは一日中続く。
直接的でない場面でも、どちらがより息子のかわいい姿を目撃したかのエピソードトーク対決や、どちらがより息子のかわいい姿を撮れるかの撮影バトルなど、多岐にわたって、夫とわたしは交戦する。

わたしたち夫婦は、ひねもす、息子の興味をいかに自分に向けるか、息子のかわいさを自分がいかに知っているかで争っている。

それぞれの長所をアピールし、どれだけ自分を選ぶと楽しいか息子にプレゼンする日々。「お父さんがいいな」、「お母さんがいいよ」。息子のこのたったひとことでその日のテンションが大幅に変わる。

この戦いにはいくつかの暗黙のルールがある。相手に内緒で息子と「約束」をしてしまうぬけがけや、息子に相手のことをわるく言うなどの卑劣な行為は許されない。(夫が息子と二人きりででかけるたび、おもちゃを買ってやるのは違反行為では?と思っているけれど、自分の小遣いでやっていることなのでいまはグレーゾーンとして扱っている。)

わたしたちは、正々堂々戦う。これは愛の名の下の聖戦なのだ。


日々、争いに明け暮れているわたしたちだけれど、休戦する日もある。
どちらかが体調のわるいときや、仕事で疲れているとき。これはもう元気なほうの身にとってはただのラッキーゲームでしかない。いわゆる不戦勝。だけど、これは息子に「選ばれた」わけではないので、この戦いは無効となる。

とにかく毎日、心身ともに健康であること。
それはこのバトルを勝ち抜くためには最低限の必要なこと。
そして、相手の不機嫌は自分にも伝染することがあるので、わたしたち夫婦は自分自身の健康のためにも、お互いを疲れさせないよう、家事をうまく分担したり、十分な休息が取れるように協力しあっている。

それもこれも、ただ一心に、息子の最高の笑顔をゲットするため。

敵に塩を送る、「義」の心こそ勝利への道だ。


わたしたち夫婦の戦いは、息子が生まれた日にはじまった。

まさか永遠を誓い合ったパートナーが、最強のライバルとなる日がこようとは。

現在、息子は「お父さんもお母さんも、世界でいちばん大好き」と言っているので、戦果は五分五分といったところだろうか。わが夫ながら、あっぱれだ。
(息子は、おじいちゃんやおばあちゃん、保育園のお友達もみんな「世界でいちばん大好き」らしいけど。)

この戦いはいつまで続くのだろう。
肝心の息子に「もうやめろ」と言われる日がくるかも知れない。だけどきっと、わたしたちは争うことをやめられないだろう。なぜなら、たとえ青年になろうがおっさんになろうが、何ならじいさんになろうが、絶対、未来永劫、息子のかわいさはゆるがない。

終戦なんて考えられない。わたしと夫は、争いの道を選んだ。100年先だって息子の興味をめぐって争っていたい。

どうして、わたしたち夫婦はこんな風になってしまったんだろう。
すべては、息子が生まれたからだ。息子がかわいすぎるからだ。

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