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幸田露伴の随筆「ふしぎ」

ふしぎ

 申繻という男が云った言葉に、「人、隙無ければ妖は自ら作(おこ)らず、人、常(常識)を捨てれば即ち興る、ゆえに妖あるなり」と云うのがあるが、古い古い人でもうまい事をいったもので、これは蛇と蛇が喧嘩した事について発した言葉だが、すべて変なことは、これを変なことだとしなければ不思議でも変でもないので、これを変だとする常識を捨てる心があると、変な事や不思議な事が出て来る。そうして或いはこれを忌み嫌ったり、或いはこれを怖れたり、或いはこれを有難い神秘的な事などと思うようにもなる。
巫(ふ)の類というものは、昔から変な事をして、そして、平常な事は尊ぶにあたらないと思うような間違った考えを持っている人に尊敬を得たりするものである。道の尊いところは、昔から行われている何時も間違いないところにあるのである。何も奇異なところがあって、その道が正しいということはないのである。ところが決まり切った事では感心しないという人が多くなると、何か奇異な事が尊いように思われる。
 巫(ふ)の方では、大巫の前には小巫はまるで意気地のないものである。正しい道では、人は各々その徳だけのことはあるものである。昔から小説や雑書などに出ていることで、喉中に声を為すなどという事は珍しくも何ともない小巫の常套事で、下らない事の頂上であるが、それでも、常識を捨てる人の中では称賛を得て信用されるなどは、いかにも片腹痛い。つまり人が正道を蔑(ないがし)ろにするところから、そんなものが世に迎えられるような事になるのである。奇異奇怪な事には多く詐術が含まれているもので、仏法でも神道でも、正法には奇特が無い道理であるから、奇特が有ればそれはイカサマである。
 昔の小説に、病人がいて、いろいろの薬の紙包みを薬師様の前に坊主が置く、そして祈って、薬を薬師様の近くへ持って行くと、或る薬がぺタリと薬師様の手にくっつく。その薬を患者に飲ませる、患者は薬師様が薬をお選び下さったことを目の当たりにしたのだから、大いに喜んで飲む、というのがある。これは、軽い草根や木皮の中へ鉄の屑を少し入れて置く。そして金仏(かなぼとけ)の薬師様の手を磁石で擦って置く。薬がくっつく道理である。そして病気を神経的に治してしまう。これは袴田保輔という大泥棒の事を書いた中にある。
 また、支那(中国)の雑書に面白いものがある。ある田舎の村へ変な坊主がやって来て村人に云うには、この村に非常に尊いあらたかな仏様が御現われになる霊夢を蒙って、あまり度々蒙ったので私も不思議に思ってここまではるばるやって来たが、私が夢に見たようなコレコレの様子の山がこの村にあるまいかと、詳細に山の様子を話す。村人は不思議に思って、そういえばそういう山がある、見さっしゃいと、坊主を案内してその山のアチコチを歩いたが、サッパリ仏様は見つからない。坊主も落胆する。村人も半信半疑で茶話の材料にした。
 ところが、その坊主がまたやって来て、どうも不思議な事だ、またアリアリと霊夢を見たから、どうしても霊佛が出現されるに違いないというので、また山のアチコチを見て歩いた。が、やっぱり何も出て来ない。そしてその日は済んだ。里人は諦めた。が、坊主はどうしても諦めない。またやって来て、どうしても不思議だ、また霊夢を蒙ったからと山を探したが無い。それでも坊主はまた来て、また霊夢の御告げがあったからと探したが無い。それから坊主は気違いという事になった。
 しかるに或る日、坊主は狂喜して里人に向って、とうとう霊佛が御出現になられたぞ、アア、この村は素晴らしい尊い縁を持っているぞと叫び伝えた。そこで、里人は驚いて山に見に行って見ると、これはどうしたことか、断層地震でも何でも無いのに、山上の土が笑み破れて、恐ろしく立派な仏様の頭が見えかけている。サアこれは大変だ、本当に霊佛出現という事があるものかな、何にしても、勿体ない、汚してはならないと大騒ぎをして、周囲を仕切って無暗に人が手を付けたりしないようにし、番人を置いて見張ることにした。翌日になると仏様が段々と現われて来る。これは堪らない、不思議だと見ていると、翌日は顔が見え、翌日は肩先が見えて来る。里人は驚いて仏様に御供物を上げる。気違い扱いされていた坊主は段々尊敬され出した。遂に仏様はそのからだの大部分を現わして来たので、村人はもう恐れ入って、ウッカリ手を付けることも出来ないから、そのまま上屋を造って御堂にした。坊主はウントコショと御賽銭をとるようになり、立派な寺まで出来上がった。稀有な事なので評判が大変だ。四方八方から御有難連が押し寄せた。
 ところがそこの県令に、中々そんな事を承知しない手厳しい人があったので、どうも怪しからん事だ、マツタケでもあるまいし、金仏が地から生える訳はない、構うものかと盲信者たちを追い散らし、金仏の地の底を掘って見ると、いつの間に工夫したものか、地の底に大きな穴を掘って、そしてその中に非常に沢山の大豆の俵を積んで埋めて置いて、その俵の上に平たい石を置いて、その石の上に金仏を立たせて土をかけて置いたので、すると、大豆は長い時間のうちに地中の水気を吸い取るにつれて、膨張して石を押し上げ、石を押し上げるにつれて、金仏がニューッと顔を出すようにして置いたのであった。
 錫の茶入れの凹んだものを直すには、その中に小豆を入れ、そうして水を注いで堅く封じて暫く置くと、豆が膨張するにつれて、外からは直しにくいその凹みを、中から大凡は押し出すものである。豆が水気によって膨張し、その膨張によって出す力というものは、中々驚くべきものである。坊主め、予めその道理を応用して里人の知らない間に山に仕掛けをし、適当な時期を見計らって知らん顔でやって来て、霊佛出現という事で世間をうまく欺いたのである。
こんな事は、暴露して見れば笑い話に過ぎないが、常識を捨てると奇異に脅かされるものである。稀有な事は人を刺激する。しかし、刺激されてすぐ動くというのは、いかにもケチな人情である。
も一ツ例を挙げようか。
 日比谷公会堂のような所で、霊能のある人を司会者が聴衆に紹介する。それで、その司会者が云うには、「この某氏は驚くべき人で、超人的な能力を持っていると考えられます。しかし私は飽くまで冷静な態度で、皆さんと共にこの人の霊能を見たいと思います。ついては皆さんの中から何人かの人を選んで、私と共に立会人になって頂きたい。私が指定しては、或いは私が予め決めて置いた人と思われてもいけませんから、皆さんの中から十人ほど立会人になってください」というと、「何をするのか知れねエが面白い、霊能なんてあるわけのもんじゃねエ、一ツ化けの皮をはいでやれ」と十人の人が舞台の上に出る。これ等の人は全く司会者とは全く縁のない人々である。
 さて司会者は、これ等の人々を迎えた後、舞台の真ん中に大きな衝立を列べて舞台を二分する。他の一方には霊能者を置き、こちら側には司会者と十人の立会人を置き、そして立会人に向って霊能者からこちらが見えるか見えないかの確認を求める。十人は充分に調べて向うからこちらを見ることが出来ないことを確認する。その後で霊能者の座席の下や頭の上や前方後方等を調べて、霊能者の席とこちらの席の間には、光線や電気や無線伝送装置などの一切の通知の機械などが、何も無いことを確認する。それからなお念のために霊能者の頭をボール箱で覆って、全くこちらが見えないようにして置く。
 このような厳重な確認をした後で、司会者は霊能者に向って、その大きな衝立を隔てて立会人と共に、「これでも貴方は我々が提出する物を貴方の霊能で知ることが出来るか」と問う。「出来ないかもしれないが、先ず出来ると思う」と答える。見物人は不信に思う。そこで、立会人と司会者は相談して、何を提出しようという。立会人の一人が少し考えて、自分の懐中時計をテーブルの上に置いた。これを他の立会人や見物人も認めた。そこで司会者は衝立の向うへ声を掛け、「今ここに提出した者が有るが、この物の色は何色であるか」と訊ねた。「黒い色である」と答えた。ナルホド鉄側の黒い色のものであった。また、「それでは黒いだけの物であるか」と問うと、「イヤ黒いのは外側で、内部にはいろいろの色がある」と答えた。文字盤はナルホド白であるし、内部の機械には赤い石なども入っているのである。そこで、「これは生き物か死物か」と問うと、この質問は見物人に非常な興味を呼び起こした。なぜなら、時計は死物であるが、動いているので生き物でもある。霊能者は、「生命あるようで魂が無いもの」と答えた。見物人は驚いた。「では、この物は硬いものであるかなんであるか」と問うと、「硬い物である。ただし軟らかいところもあるものである」と答えた。時計のゼンマイはやわらかい。見物人はまた驚いたが、気の早い者は「何だか言わせろ」と叫んだ。「動いているか」と問うと、「今動いている、しかし動かなくなる時もある」と答えた。見物人はいよいよ沸騰して、「ハッキリこれは何だと訊け」と叫んだ。司会者は、「では、こうれが何であるか端的に答えてくれ」と問うと、即座に「時計である」と答えた。そこで見物人は驚いた。立会人も驚いたが、司会者と立会人は相談して時計の運動を止めた。そして針をグルグルと廻してデタラメの時間にした。そうして見物人に見せて、それから霊能者に向って、「では、この時計は何時何十分を指しているか教えてくれ」と云った。この機転の利いた問いに見物人は満足した。「サア何時だ」と問い詰めた。それなのに驚くことに、「それは現在の正しい時間と大変違っているが、針は十時三十五分を指している」と答えた。針は全くその通りであった。そこで時計を置いて見物人に見せた。見物人は殺到してこれを見て、「これはどうも変な奴だ。どうも霊能がある」ということになった。
 こういう事が事実だとしたら、この霊能者を真の霊能者と見物人は認めるかも知れない。しかし、この位の事は何でもない事である。霊能も何も無くても出来る。電気もいらない。通信装置もいらない。誰でも為そうと思えば少し練習を積めば出来る。少しも不思議がるような事ではない。
(昭和六年一月)

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