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幸田露伴の評論「新年言志という事について」

  
新年言志という事について

 年々歳々同じことであるけれども、年々歳々人間というものは、年の暮れには過去の追憶をしたりしないわけには行かず、また年の初めには希望をかけたり志を奮い起こしたりしないわけにはいかないものである。そんな余計な面倒くさいことを抜きにして、三百六十五日を暢気になだらかに暮らしたら良さそうなものだけれど、身体の中に温かく脈が通っているうちは、誰しも繰り返しごとを繰り返すのである。「猿の面に着せたる猿の面」と云う古い俳句があるが、実際、年は変われど人は変わらず、矢張り暮になれば去年のようなことをして、新年になればまた去年の新年のようなことをするものである。
 それは愚かと云えば愚かである。しかし、一年に四季があってそれが一巡することで、樹木にも年輪と云うものが出来るのである。それが四季の循環がぼんやりしている暖国の木になると、年輪もぼんやりして来る。台湾のヒノキは木曽のヒノキと余り違ったヒノキでは無いが、彼の地のヒノキは何時も暖かい為に、木曽のヒノキのようにくっきりとした年輪が出来ない。そのために削って見ると木目がぼんやりとにじんだようになっていて、木曽のヒノキほどの美観がない。立派な木ではあるが皆年輪がはっきりしない。人間も、霜が降ったり、氷が張ったり、花が咲いたり、葉が繁ったりする、そういう国の人間は、いかにのんきな者でも自分の歳くらいは覚えているが、熱帯地方の無学な人間は自分の歳さえぼんやりとしか覚えていないと云う話だ。そう云うのべつ幕無しの生活は竹に節無く、網に結び目の緩いようなもので、却って面白くないかも知れない。やはり大晦日があったり元日があったり、仮のものではあるが年の関所と云うものがあって、そしてその関所にかかった時に、良いか悪いか知らないが、一寸意識して関所を通った方が面白そうだ。
 甲子(きのえね)から甲子まで一巡六十年というのも、やはり仮の話ではあるが一つの関所であるし、また十年一昔などと決めているのもある。何れもそれらは仮に区切りをつけ、その区切りへ向かうところに妙味がある。まして去年のように日本の首都をはじめ大地震大火災の騒ぎなどがあって、或る人は生活の状態が変わり、或る人は心境に変化を生じざるをえないような羽目に陥った年の暮れ、つづく新しい年の初めと云ったような場合には、誰もが身体にも心にも吾が運命にも、一ツの刻みをつけないわけには行かないだろう。そこで、和歌の勅題にも「新年言志」と云うものが出たわけだろうが、この「志」と云うものは、心の指す方、即ち心の向くところ、そして、ある境涯に到着したいと願う意味である。即ち希望であり、傾向であり、理想であり、憧れであると云っていいので、心と云っても、目に見えるものではなく、とりとめもない、どう云うこともないのが心である。それに或る一定のきまりを立てるのが志で、心の指す方向がなければ、心なんぞと云うものは有っても無くてもおんなじ事である。例えば風と云うものは、ただ風と云ったところで、それは捉まえることの出来るものではないが、東なら東、南なら南と、その風の指す方向が定まることで、初めてその風に力も現われ、姿も見えるのである。それなので、人に志が無ければ、それは水の上の瓢箪みたいに、ただフラフラしているだけのものである。志と云うものが定まることで、瓢箪ではなくなるのである。そして、その人が何の何某(なにがし)として存在することになるのである。
 さて、その志には高いもあれば低いもある。素直なのも有ればねじくれたのもある。しかし何れにしても、その人の性質や料簡によって決められるのである。気質の事は今暫く差し置いて、料簡の方は、料ははかる、簡はえらぶと云う意味で、これはこうしよう、これはできるだろうと考えて、そして決めるのが即ち料簡を決めるのである。この料簡を決めるのが即ち志を決めるので、志を決める前には、どうしても料簡を錬るというのが誰にでもあるもので、そして気質に基づいた判断がそれに加わって、それから何をしようか、彼をしようかとかの段取りになるのである。なので、志は銘々個々、百人寄れば百人、千人寄れば千人違うものであるが、要するに志なしでいるわけには、生きている以上は行かないものである。
それなので、志は立てるべきものである。決めるべきものである。すでに気質と云うものがあり、境涯と云うものがあり、因縁と云うものがあり、分別料簡と云うものがある以上は、自ずから或る志があるわけである。これは他人から干渉されたり、束縛されたり、指図されたりして決まるべきものではない。根底になるものは何と云っても当人であるから、その当人の真実の心の奥から湧き出たものでなければ、それは力にならず、神意も発揮できないのである。しかし、世間と云うものは、針金を引張ったように一本筋に真直ぐに通れるものではない。志を立てても、すでにその時、思うように行かない事情なぞと云うものがあるのである。それからまた、志を立てて月日が経過する中には、自分で自分の志を曲げるような場合に遭遇したり、また自分で立てた志をいつの間にか忘れてしまって、思わぬ方向へ曲りこんでしまうということもあるものである。ちょっとどこそこへ行くつもりで朝我が家を出ても、道を間違えてとんでもない方角の土地へ行ってしまったり、または途中で友達に遇ったりして、こっちへ来いと言われて、そっちへ行ってしまうことがあるものである。年の初めに志を立てても、先ず第一に、屠蘇の酔いと云うのにもうはぐらかされて、それから三月四月ともなれば花が咲く、夏になれば暑くて苦しい、そんなこんなから、自分の志に添うだけの事をしないで、年の暮れに及んでしまうことが、誰でも実際に有り勝ちなことである。
 で、新年に或る志を表明すると云うことは、誰に対してと云うことでは無いが一つの手形を残すことであって、面白いことである。手形を出せばその手形を履行しないことは善くないことであるから、誰でも恥ずかしく思い、そして出来る限り努力して実現しようとする。してみれば、手形を書くことは、自分で自分を或る電車に乗せて或るレールを走らせるようなものである。自己を完成させる一つの好い方法であると云える。不言実行なぞと云って政策を発表しないなぞは卑怯な事である。堂々と立派な政策を発表して、その実績を挙げてもらいたいのは、誰もが政治家に望むところである。それと同じで、個人としても年の初めに志を言って、そしてその志に添うような行動をとろうとするのは、自己完成の好い計らいであるといえる。志の善し悪しについては、人さまざまな意見も議論もある。図太いのもあれば、欲深いのもあり、正しいのもあれば洒落たのもあろうが、それは脇から評論しても仕方がない。何でも好いから自己の純真なところから打ち出した志を云って、そしてそれを手形にすることは妙味のあることである。何人(なにびと)も自己の為に手形を書くべきである。躊躇することは無い。そして自己の力を幾分なりとも現わすべきである。この手形にそむいて不渡りになってしまうのを、仏教では劫風(ごうふう)に吹かれると云うのである。何人(なにびと)も劫風に吹き倒されないように力足を踏んで、目的地へ到達することを願うべきである。
(大正十三年一月)

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